04
物心ついた頃から、私は「できる子」だった。
あれは、たしか小学校に入ってすぐの朝礼。「前へならえ」のやり方を習った。前の子の背へ、開いた両手を突き出すだけ。
こんな簡単なこと、わざわざ練習することないでしょ。
そう思ってたら、落ち着きのない年頃だからか、周りにはきちんとできてない子がちらほらいた。
ひらがな、カタカナのほか、4、5画くらいの漢字だったらいくつか書けたし、足し算と引き算もある程度はできた。三角形を見せられて同じ三角形を当てる……周りの子を見て、なぜ、苦労しているのかがわからなかった。
「学ぶ」ということに関し、自分が秀でていると思うに足る証拠は、学校生活の中で数え切れないくらいあった。
高校を卒業するまでずっと、「トップ」とまでは言えないけど、「トップ層」には常にいた。その中で、私は浮いていた。塾や家庭教師を使ってないのは私だけだったから。これは今でも、私にとって、自己肯定感の源。
学校の授業と自学自習。それだけで上位層に居続けられたのだから、日本の公教育環境も捨てたものじゃない。みんな悪口言いすぎ。
大学では「できる子」って思われないけど、悪目立ちもしない。だから、面と向かって(?)、「君の意見には志がない、学問を冒涜する態度だ」とディスられたことに、(おそらく必要以上に)大きく動揺し、泣きそうになった。きっと怒られ慣れてないからだ。
今でも不思議に思う。
返事が来ないはずなのに、返事があった。その事実に驚愕し、焦るべき場面。なのに、私は、「できない子」って扱いをされたことに心がとらわれた。
私の打たれ弱さは、理性を吹き飛ばすくらいのものだということ。そんな自分のパーソナリティを不思議に思うと同時に、我ながら心配になる。
本来ならば、確認をすべきなのだろう。
このノートはずいぶん古いし、ずっと昔の先輩の忘れ物。きっと何十年も経ってから、私は「意見を頂戴したい」という申し出に応じたのよ。そして、あなたは、それに対するコメントを書いた。
あなたは誰なの?
誰かが意見を書くこと、ずっとチェックし続けてたってわけ?
そんなことないよね。ノートの持ち主は、とっくの昔に卒業(中退かもだけど)してるはずだし。だから、このコメントを書いたのは、ノートの持ち主ではない。今、この大学に在籍している誰か。
だったら、なんで、このコメントも、何十年も昔に書かれたような、色褪せた鉛筆書きなのよ!
冷静になれば、こんなことをすぐに思うはず。でも、否定されたことによって、冷静ではいられなかった。反論をしようと、いや、言い訳をしようと考えたのだ。
なぜ、私の目の前に、この言葉があるのか?
ただ「ある」ということ自体について疑問を抱くのではなく、「なぜ、私が、そのような非難の言葉を投げかけられねばならないのか」に意識が向く。
ページを遡ると、探していた私のボールペン字があった。やっと見つけたというのに、そのことには何も感じず、やりとりの内容を確認することだけが頭の中にあった。私はヘマをしたのだろうか、と。
大学生は学ぶことが本分なのだから、学生運動とかにかまけてないで、ボイコットなどせずにしっかりと講義を受けなさい。社会を変えたいのであれば、学生という無責任な立場ではなく、生活を背負った卒業後にしなさい。学生という立場の者の意見を出すことに意味があると考えるならば、暴力的な手段に頼るのではなく、他人に迷惑かけない方法を選ぶべきだ。
大筋はこんな感じ。どこからどう見ても正論だ。私は何も間違ってない。文句を言われる筋合いは、どこにもない。
新たに書き込まれた、かすれた鉛筆書き。冒頭の「意見提出に関し、感謝申し上げる」の一文のみが私に対してリスペクトを示す。以降、ひたすらに否定してくる。
ーー教育を社会による先行投資と捉える視点には賛同しかねるが、大学でなされる講義に社会的意味を見出そうとする点は互いに了解し合えるところであろう。ならば、なぜ君は、講義のあり方を議論しないのか。教員の講義そのものに意味があるのではなく、何を講義するのかが重要であろう。教育の質を問うことは、学問を志す者の責務である。
屁理屈だ。
話も噛み合ってない。
何を学ぶのかを学生が決めるってことなら、そもそも他人に教わる必要なんてないでしょ。自分で勝手に正しいって思い込んでいることを追求したいのであれば、それは自分の時間でしてください。講義を受けるために受験勉強して、お金を払ってきてるんだ。そんな人の邪魔をする資格は、あんたにない。他人を巻き込むな。
なんなんだ、こいつは。大学生というものを、特権階級だと思ってるんじゃないのか。
そりゃあ、私だって、頑張って努力してきたわけだし、ただ遊んできただけの子とは違うって意識はあるよ。社会的ステイタスのある仕事に就いて、尊敬されて、高収入を得られる。そういう将来のために我慢をしてきたわけだしさ。
でもさ、あくまでそれは私個人の問題であって、それ以上のものではない。大学が提供する教育サービスに対価を払ってるんだから、サービスを受けられて、学位をもらえるならば、何も文句ない。大学の講義が気に食わないから潰してしまえって発想は、ただの駄々っ子にしか見えないよ。
ーー最初に断っておくが、僕は暴力的手段に訴えたことはない。だが、同志の行為に関し、君とは見解を異にする。思うに、交渉当事者双方の言い分が尊重された議論をなす第一の条件は、力関係の拮抗状態である。圧倒的権力者と真の対話を成就させる手段の一つとして、窮鼠猫を噛む的覚悟を示すことに、その手段の態様のみをもって否定的に断ずることを妥当としない。
まず思ったのは、無責任。暴力をふるってないと述べて、非難の言葉が自分に来ないようにしている。信念をもっているならば、そんなアピールは必要ない。
対話という理性的営みにおいて、力が理に先行することはあってはならないと思う。でも、悔しいけど、対等な立場にないと対話が成立しないということは、認めざるを得ない。強者が弱者の言い分を穏やかに聞いているように見えても、それは「最終的にはどうにでもできる」って余裕があるからだ。
でも、だからといって、どんな手段を用いてもよい、というのは乱暴すぎる。あと、それは力を背景にした戦うべき相手と同レベルに自分を堕とすのと一緒。嫌うべき相手と同じことをしたとき、心は敗北する。たとえ実利を勝ち得たとしても、忌み嫌う存在に吸収されたのに等しい。
「目には目を、歯には歯を」というルールに対し、憎しみの連鎖を断つ機能を見出してもなお、私がそこに「野蛮さ」を感じるのは、自らを堕とすから。理よりも、力が解決することを認めるから。精神が肉体に劣後することを認めれば、人は、獣と何も変わらない。
それにしても、窮鼠猫を噛む……追いつめられた状態にあるものの反撃を意味しているのだろうか。こいつは、学生運動家は、追いつめられていた?
急迫不正の侵害に対し、やむを得ずにした行為は違法性が阻却される。この正当防衛の発想を、相手方が国家権力であった場合にもあてはめてよいのだろうか。
突きつめて考えると、違法かどうかというのは、行為者の属するコミュニティが決めること。
たった一人の世界にあっては、粗暴も怠惰も、そのツケはすべて本人に降りかかる。本人が、自らの生存を賭けてしたことに対し、違法も何もない。
人の行為に対し、他人があれこれ言うのは、迷惑だから。その行為の影響が及ぶ範囲、すなわち、所属するコミュニティにおいて、いくらかの禁止事項が設けられる。
じゃあ、所属コミュニティが牙を剥いたとき、それに抗うことは違法なの?
組織や人間関係であれば、その場から離れればいい。次を探すのもありだろう。でも、国家だったら逃れようが……ない。
国家権力が好き勝手しないように、という立憲主義の理念はわかる。「好き勝手しません」と約束した言葉を公にし、国民が監視する。このシステムがきちんと機能することを信頼して、人は生活する。
そう、信頼だ。これがなければ、まさに窮鼠猫を噛む的な抵抗しか思い浮かばないのではないか。当時の学生は、信頼していなかった。
……と、ここまで思考が及び、気がついた。私を非難したこいつは、当時の学生なわけないじゃない、って。