03
目には目を、歯には歯を。
野蛮な言葉だと思っていた。「やられたら、やり返せ」ってことなら、憎しみの連鎖は終わらない。「右の頬をぶたれたら、左頬を差し出せ」とは大違いだ。
でも、どうやら私の解釈違いらしい。つぶされた目の恨みを晴らすのに、命まで奪ってはいけない。やられたからといって、何をしてもよいというわけではない。「目には目を」というルールは、憎しみが暴走するのを抑える効果がある。
なるほど。そういう見方はある。
「目には目を」というルールは、被害の程度が報復のそれを決めるということ。
でも、被害の程度を、完全に客観的に定めるのって無理があると思う。
デザイナーにとっての目と、指圧師にとっての目とでは、その人生において果たしている役割が違うから、まったく同じ価値であるとは言えない。同じ100万円という額を詐欺られた場合でも、富豪と貧民とでは大きく違う。だから、被害の程度は、感情などに左右される主観的なものでもあるべきだ。
そう考えたら、「目には目を」というルールは、言い換えれば、被害者に憎しみの程度を自覚させ、その範囲内での報復を正当化するということではないか。
酷いことをされたとき、そのネガティブな感情は、際限なく大きくなる。加害者に対する負の感情は、たとえ相手がいなくなったとしても、その存在を許容してきた社会そのものに向かう。
10の恨みを晴らすのに、100の報復は許されない。このルールの主眼は、被害者に対して、その被害の程度を自覚させるところにあるのではないか。
10の恨みを晴らすために、加害者に対して10やり返す。その加害者は、今度は被害者になり、10の憎しみを抱く。だから、次は被害者として10やり返す……そうなると、やはり憎しみの連鎖は終わらない。でも、やり返された側って、負い目もあるから、恨みのレベルは10より小さいんじゃないか。
あるいは、時が解決するということもある。何かを憎むのは疲れることだ。同じテンションで憎み続けるには体力が要る。ある時に10の憎しみを抱いても、そのうち憎しみのレベルは9や8になっていくかもしれない。
だから、「目には目を」というルールは、長い目で見れば、憎しみの連鎖を終わらせる効果がある。少なくとも、恨みを増幅させることに対して、理性的な歯止めとなる。
……自分なりに頑張って考えてみた。でも、やはり私は、講義中、挙手して発言することができなかった。
ほとんど教科書をラフに言い換えただけの学生。まったく関係のない話をする学生。おそらく積極性を評価してのことだろう(と信じたい)が、そんなのに「いい発言ですね」と応じる教官。
じっくりと考えてからしか話せない私には、手を挙げるチャンスすらまわってこない。不信感。とりあえず学生に喋らせて、双方向的な学びという形をつくっているだけじゃないか。みんなの時間を使うのに値するのかどうかを吟味する姿勢も評価すべきじゃないか。
日に日に増していく不満。
ヘラヘラ、チャラチャラした、恥を知らぬアホどもに、私の時間を使われるのにはもう耐えられない。どうせ卒業単位しか興味がないんだろう。サークル遊びで得た人脈で、いいところに就職したいんだろう。私は違う。私は、勝負しにきたんだ。そのために、無意味に思える知識を身につけ、この大学に入ったんだ。もっと私の考えを聞け。
そう思いながら、大学図書館のいつもの席に座っていたら、あのノートを見つけた刑事訴訟法の棚が目に入った。書架の奥にある、誰も見ない古いノート。学生運動の人の忘れ物。そこにコッソリとぶちまけた、私のボールペン字を目にする人は、誰もいない。
でも、私の思いが、文字という形を得て、そこにある。講義中の、双方向的一方通行のやりとりとは違う。少なくとも大学の中に私の言葉が存在する。
私の頭の中にあるものが空気を振動させ、誰かの鼓膜に届くとき、私は確かに存在している。いや、私は、私の存在を確認できる。目で、耳で、あるいは肌触りで、とにかく五感の作用で知覚するものの中に、私の存在(による何らかの影響)を見つけたい。そうでないと、私は、私が存在しているという確信を得られず、私自身を不気味な存在(あるいは、存在しているかどうかすら怪しいもの)として捉えることになる。
……うん、当時の思いを振り返ってみてわかった。完全に病んでた(過去形!)。
同世代の男女が青春のキャンパスライフを謳歌している、この環境に溶け込むのに失敗した(もう、こう認めざるを得ない)私は、誰とも喋ることなく過ごす。これは、いけない。それはわかっている。
なんで、こうなったのか。きっと入学してすぐの時期に、様子見しすぎたから。
新しい人が怖かったんだ。偏差値が高くても遊んでる大学生はいて、性犯罪に手を出したニュースもよく見る。だから、出会いの季節に、いろいろな勧誘から距離を置いた。遠回りしてでも、勧誘の声が聞こえない道を選んだ。慣れたふりしてキャンパスを歩き、昼休みには「このベンチで一人過ごす時間がお気に入りなのよ」という顔でコンビニパンを食べてきた。
そうしているうちに春が過ぎ、もう新入生ではなく、ただの一年生になった。すでにできあがった人間関係の外側にいる私に、わざわざ話しかける人はいない。また、私は、自分から話しかけて、ってタイプでもない。
この大学に入りたくて我慢してきたにもかかわらず、せっかく入学した大学に溶け込むこと、大学の一員になることを拒否し続けていた。だから、メッセージのやりとりをする相手は高校時代の友達だけ。その輪から離れたくて勉強を頑張ってきたのだから、皮肉な話。
完全に痛いやつだ。
ダサい。
何とかしなければならない。でも、今更、「これからよろしくね」って話しかけるのもおかしい。時機を失した。だから、講義中に、「なるほど、そういう見方もあるか」と思わせる発言をしたい。「ここに私はいる」と示すことが、スタートになるはずだ。
頭では方針を決めても、どうしてだろう、講義中の私の手はペンとノートから離れることなく、教官と目が合って発言を求められそうになれば下を向いてしまう。
リハビリが必要だ。できることから始めよう。無理は禁物。まずは自分の考えを筆記し、それを、誰かが目にするかもしれない場に置く。結果として、誰にもまったく気づかれなくてもいい。コンマ1%でも大学の誰かが読む可能性がある、そんな意識をもって言葉をつくる習慣が、今の私には必要だ。
あのノートは好都合。元々は昔の人のノートだから、身バレすることもない。少なくとも白紙がなくなるまでは書き続けよう。
こんなことを考え、大学図書館の本棚から、学生運動活動家が忘れていったノートを引っ張り出した。
ずっと昔の先輩が書いた言葉に、もう興味はない。前回、私が書き込んだページを探す。
ノートの持ち主の鉛筆書きは薄れていて、その続きに書いた私のボールペン字は艶のある黒。市販品じゃないお手製ノートで、めくるのもスムーズにいかないけれど、字の色が違うのだから、すぐに見つかるはず……なのに、見逃した。
白紙が続く直前のページにあるのは、ぼんやりとしたライトグレーの、とめ、はね、はらいのしっかりした鉛筆書き。
あれ?
すぐに思ったのは、こんなノートが他にもあるということ。だから、私は、すぐにノートを閉じ、書架の奥を捜索した。
……どこにもない。
だよね。あんなノートを何冊も大学図書館に隠しておくわけないよね。ということは、ただ私の字を見逃しただけ。でも、そんなことってあるのかなあ。
再度、ノートを開く。今度は、慎重に。
キリか何かであけたのだろうか、歪な穴に、紐をきつめに通して作られたノートは、重厚な雰囲気はあるけれど機能的でない。一枚一枚、指先の動きを気にしないと、その古さもあって、すぐに破れてしまいそう。
まず3分の2くらいのページを開く。白紙。ノートの半分以上は鉛筆書きが埋まっていたはず。だから、白紙が終わるところまで丁寧に遡れば、すぐ私のボールペン字にたどり着く……なのに、やっぱり、さっきと同じ鉛筆書き。私の書いた字はどこに?
確かに書き込んだと思っていたのだけど、記憶違いだったのか。図書館の蔵書(?)にボールペンで書き込むことは、図書館好きの私にとって大きなタブー。きっとそういうことだったのだろうと思って、もう帰ろうとしたときだった。
ーー国家という権力が強いるものを無自覚に認めることも、権力が民衆を虐げることに加担するのに等しい。君の意見には志がないではないか。その態度こそ、学問を冒涜するものであろう。
新規テキストだった。そして、それは、私に対する文句だった。