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~新宿で過ごした日々~

作者: 凡 徹也

三浦半島の片田舎に住んでいた筆者が初めて出逢った40数年前の新宿という街並みと出逢いの遠い記憶を綴りました。

 僕が生まれて初めて「新宿」という街に足を運んだのは、進学した学校がその街に有ったからであり、その街の存在を特別に意識して出掛けたわけでは無かった。

 それまでの僕の人生は、三浦半島の片田舎の海辺で暮らし、そのエリアを出たことが禄に無かった所為で、自分にとっての都会とは、精々「横須賀中央」か、年に数度、親戚を訪れるときに立ち寄った横浜の「元町」或いは「伊勢佐木町」位の事であったからだ。

 僕にとってのその頃の「東京」のイメージとは、年に1回、母親の田舎がある茨城県へと出掛けるために利用した、京浜急行の終点である「品川駅」から常磐線の始発駅である「上野駅」迄の間の、山手線の車窓から眺める東京タワーや低層ビル群の景色位で有ったのだ。

 当時住んでいた三浦半島は、中心部は山であり、周囲は海に囲まれその間を田畑が埋めていて、辛うじて街道沿いに家屋が建ち並んでいるような土地柄であり、大きな建物と言えば、横須賀中央に有る「さいか屋」というデパートくらいなものだった。

 そんな東京の近郊とは言え、田舎育ちの僕がいきなり新宿という大都会で過ごすことになったのだから、そのカルチャーショックは凄まじいものだった。生活の全てが未知で新しいもの尽くし、毎日が驚きの連続の日々となったのである。

 僕の通った学校は東大久保という場所にあった。新宿駅東口から歩いて20分程、近くには消防署や牛込抜き弁天等がある場所で、その通学路の途中には区役所とゴールデン街があり、そこをかすめるように出来たばかりの遊歩道から花園神社脇を通り抜けると、その先には日清食品の東京本社や第一家庭電器本社等が建ち、遠くに日本テレビゴルフガーデンを見ながら学校に到着するという感じだった。

 もっとも通学の当初は、学校のルート案内に従ってわざわざ新宿駅の西口に出て秋葉原駅東口行きのバスに乗って学校迄通ったが、かかる時間に大差が無いので、バスは最初の二週間程でやめてしまった。

 それでも、初めて観た新宿駅の西口には驚かされた物である。当時の西口は丁度、淀橋浄水場跡地に高層ビルが建ち始めていた頃で、西口の地下から地上へと上がると、正面には新宿最初の「摩天楼」である、「京王プラザホテル」があり、僕はそのビルの真下まで行って上を見上げたものだった。僕は

「本当にでっけービルだなあ」と、田舎者のお上りさん丸出しのセリフを思わず言ってしまったのを良く覚えている。

 かくして、三浦半島から新宿へと毎日片道二時間をかけて通う日々が始まった訳である。毎日の電車内の混雑振りは凄まじいもので、下手にカバンを持っていると、中の物は全て潰れてしまう。なので、何時も車内で立つポジションは、網棚に荷物を置きやすい場所を選んだ。それでも、それまでの通学は歩きか自転車だったので、電車に乗る毎日は新鮮で驚きも有り愉しくて苦痛は無かったのだ。

 新宿での日々でまず驚いたのは都心の電車の本数の多さだった。地元では20分に1本が良いところだが、品川から新宿迄の山手線は、3分に1本の電車が来た。それでも電車の発車のベルが鳴ると、人は走るものだと知った。

 その電車を降り、東口から改札を抜けて地上へと上がると、目の前を横切る「新宿通り」の向かいに「二幸」という惣菜屋のビルがあり、その1階には「McDonald」のバーガーショップが有ったのだ。

 当時、マクドナルドは未だ日本では店舗数が少なくて、自分の住んでいた地方には全く無かったので、この店が僕にとっての「マックデビュー」となったのである。そして、生まれて初めて「フィレオフィッシュ」なるバーガーを食べることになる。

 海沿いで育った僕は、子供の頃から魚はたくさん食べた、というよりは食べさせられてきた。遊びで釣り上げた魚は、全部食卓におかずとして並ぶ。殆どが煮魚で、僕はその煮魚が余り好きでは無かった。子供心に、「肉」が、食べたかったのだ。今考えれば贅沢な話しなのだが、僕は釣りに関しては天才的?であったので、毎日何かしら釣り上げる。すると、晩飯には「肉」は出ないのである。なので、いつしか僕は釣りが嫌いになっていった。

 それ程魚づくしの生活をしてきた中で、魚のフライをパンに挟んで食べるという習慣は全く無かった。それを、都会では普通にパンに挟んで食べるのかと言う事実にカルチャーショックを受けた。恐る恐る買い求めて口に入れた瞬間から、魚の見方が一変したと言っても過言ではない。白身魚のフライの美味しいこと。それに、味を添えるタルタルソースなる物も初めて口にしたのだった。僕は、それから暫くの期間、週に4.5回は食べるほどはまっていったのであります。

 新宿という街で驚かされた事はそれ以外にも沢山有る。都会では物価が高いと聞いていたのに、喫茶店のモーニングサービスはトースト付で100円の店があったし、マックの裏手にあった「アカシア」と言う洋食店で初めて「ロールキャベツ」なるものも食べた。クリームシチューの中に巨大なロールキャベツが2つ入り、ライス付きでリーズナブルな価格だったな。

 更に、西口大ガード側には「たそがれ横丁」(俗称「しょんべん横丁」と呼ばれた)という激安な飲み屋や食堂が集まる一角が有った。そこの店ではハンバーグ定食が200円と言ったチープなメニューが並ぶ。僕の住む地元の半額程の価格で、どんな食材を使って居るのかと不安にも思ったが、結構サラリーマン達で賑わっていた。僕は酒は飲まなかったが、夕方の下校時に時折立ち寄って食べたものだ。味も結構いけた。その街角の客の中には役者や芸術家そして夢追人も多く居るのだと聞いていた。そうやって新宿という街の物価の安さには本当に驚かされたのである。

 そうかと思えば、喫茶店は決して安くは無かった。当時はベローチェやスタバと言った、コーヒーをカジュアルに飲めるようなチェーン店はなく、純喫茶でのコーヒーは、食事をする事より予算が必要だった。

 通学路を新宿地下道にとると、途中に「カトレア」があり、ここでは男子学生同士でも、入店してパフェが食べられた。但し、この店では長話が出来なかったので、長話しをする時は「ルノアール」へと立ち寄った。この店は非常に親切な店で、水を何回もお替わりさせてくれた。

 また、たまに立ち寄った店に「談話室 滝沢」がある。この店は、学生の身分にとっては憧れお店で、価格は高かったが、客に文化人も多数おり、お金を多少持っている学生も結構多かった。ここでは低俗な話はし辛く、主義や思想に関する論評等を、知ったかぶり、出来そうな人を演じて格好つけで話したものだ。素敵な名店であったが、何年か前に閉店となってしまった。

 歌舞伎町エリアに入ると怪しげな店も多かった。「アマンド」は、店構えは洋菓子店だけれど、奥に喫茶のコーナーが有ってその場所はいつも混雑していたのだが、立地がコマ劇場の裏にあり、その手の筋に見える客が多くて小心者の僕は近づけなかった。

 また、外観はお城そっくりの名曲喫茶「王城」は、店内がスペース毎に区切られていて、照明も薄暗く、昼間でもいかにも怪しそうな不倫カップルが多かったし、夕方以降は風俗系の待ち合わせ、或いは深夜にもなると、終電に乗り遅れたサラリーマンの夜明かしのための仮眠所代わりに使われていたようだった。

 話しは少し変わるが、新宿には今でも「名店」或いは「オーソリティ」と呼ばれる店がひしめいて居る。その中の1つ、東口を出て直ぐにある「高野フルーツパーラー」には苦い経験がある。

 「高野フルーツ」は高級フルーツ店として当時も既に名が知れていた。果物は僕達の小遣いでは到底買えないくらい高価であったが、パーラーでパフエを味わう位なら何とか手が届く価格だったので、どうしてもその高級フルーツを使ったパフェを食べたい男子学生3人で話し合い覚悟を決めて、入ることに勇気が必要だった中2階に有るその店に行くことを決断し、入口の重厚なドアを開け店内に入った。

 すると、中で対応した女性スタッフにいとも簡単に冷たくあしらわれたのである。

「当店は、男性だけでの御入店はお断りしています」…

 現在の様にスウィーツ男子という存在が充分に認知されている時代では考えられない事だが、当時はそんなことがまかり通って居たのである。

 僕達はスゴスゴと一旦帰り、それでも諦められない僕達は、同じ学校の女子学生の2人を「驕る」と誘って(と言うよりは、お願いをして)リベンジで、5人で出掛けてフルーツパフェを食べたので有る。

 それまでの人生で最も高級な食べ物の味がしたのだと思っている。その「デート代」は、学生の身分の僕にとっては少々痛手な出費だったが、今となってはほろ苦い良い想い出ででもあるのです。

 その他にも新宿通りには、隣に「中村屋」があり、四谷方面に先に行くと「追分だんご」があった。

 「中村屋」さんは、確か本郷で創業した後新宿に進出、クリームパンのオーソリティーとして知られている。また、本格的インドカレーライスは、何でも創業者が、インドの革命家が日本に逃れてきたのを匿っていたら、娘さんと恋に堕ちて入り婿となり、その方の直伝のレシピがルーツだと聞いている。今でも有名なカレーで、初めて食べた40年ほど前にはとても高級な味に思えた。

 「追分だんご」は、恐らくは内藤新宿の宿場町からの歴史だろうか?

みたらし団子を友人と一緒に下品にがぶり付いた記憶が残っている。

 更に、その追分だんご屋の前の交差点を左に曲がった所に「花園まんじゅう」の店があったが、その店の「日本一高くて日本一美味しい」という看板におののいて近寄ることが出来ない店だった。なので、生涯の間にまだ1度も口にしていない。

 そうやって色々な「探検」と称したバリエーションルートを歩く事が、通学に飽きることなく、新鮮な発見にも結び付いたのだと自負している。レギュラーなコースは、最短距離となる東口から新宿通りを素直に歩くコースで、「紀伊国屋書店」「伊勢丹本店」といった名店の前を通るのだが、登校時間に開いていない両店も下校時には、しっかり開いていたので立ち寄る事も多かった。

 その「伊勢丹本店」には、それまで見たことが無かったあらゆる高級品が並んでいた。ブランド品の洋服、特にメンズ館は、僕にとって憧れだったが、学生の時にはとうとう一着も買うことは出来なかった。地下の食品売場に並ぶ牛肉も果物も、僕が普段買う数倍の値段で売っていて手が出なかった。こんな物を買える人達ってどんな生活をしているのだろうかと想像を拡げて眺めるだけで通り過ぎていた。そんな伊勢丹で洋服を初めて買ったのは、学校を卒業した後のこと。確かJ-pressのジャケットだったと記憶している。

 「紀伊国屋書店」は、専門書が豊富で、少し見栄を張って高価な心理学書を買ったり、文庫本に書店のカバーを掛けて貰って持ち歩いていた。ついでにそのビルの地下に降りればリーズナブルなカレー屋さんとスパゲッティー屋が有るので、夕方帰りに良く立ち寄ったものだ。

 又、朝のゴールデン街というのはとても哀愁漂う場所で、朝まで呑んでいただろう酔い潰れの男に、寄り添いながら片足のハイヒールを手に持ち裸足で歩くホステス風の女が居たり、何かを言いながら男の頬を平手で叩いてケンカしていたり、散乱したゴミ箱の横にはホームレスが座り込み、猫は好き放題に歩き回っていた。残念ながら、夜のゴールデン街に出掛けたのはそれから数年も経ってからのことだった。

 学校からの帰りが遅くなったときは、決まり事のように少し遠回りをして好んで新宿2丁目を抜けて歩いた。今でこそその街は「日本のみならず世界でも有数なゲイタウン」と知られているが、当時は未だ青線の名残が残っていて、夕方になると、店頭の入口に赤いランプが点灯し、店内の奥まった場所はカーテンがひかれ如何にも妖しげな店頭に女性が立つ店が数軒かあった。純情?で有った当時の僕は、その如何わしい通りを通るのが本当は嫌いだったのだが、学友達は好奇心が満々であり、帰り道はその街へと行きたがった。そして何度か通るうちに良く見かける女の人が、いつしか喋りかけてくるようになったのだ。

「ねえ、兄さん達、話すだけならタダだからさ、少し寄って喋ってってよ。ヒマだと、淋しいのよ」

 話しかけてきた女性は確か、マコさんと名乗っていた。本人は24歳だと言い張っていたが、その言葉には信憑性は全く無く、その人は化粧が濃くて肩は丸出しのワンピースの裾丈は極端に短く、赤のハイヒールが白のストッキングを纏った下品な脚をより下品に演出してお世辞にも綺麗とは言えない女性だった。恐らくは40歳代のそのおばさんは僕のことを指差して

「故郷に居る弟にそっくりなのよ」と、会う度に連呼していたが、友達は

「あんな言葉はこういう仕事をする人の社交辞令で、お前を誘う常套手段なんだ」と、耳打ちした。僕もそう思っていたのだが、ある時に奥の方から写真を持ち出してきて僕と友達に見せてくれた。掠れてしわもあるその写真に写っているメガネをかけたその人物は、本当に僕に似ていて真面目そうな好青年だった。

「自慢の弟なの」と彼女は言い、「本当の弟が会いに来てくれた気分になるの」と言って僕のことをハグしてきたのだが、彼女の躰からは安物の香水の香りがぷんぷんと漂っていて僕はそれを嫌って彼女のハグを避けると、

「あー、もしかして君は未だ童貞でしょう」と、大声で言ってあざけ笑った。

 僕は確かにその頃は童貞ではあったが「大きなお世話だ」と思って憤りを感じたが、彼女が奥から缶コーヒーを2本だしてきて僕と学友に渡し、

「私からの奢りよ。あんた達可愛いから」と言った。その時には憤懣な気分も消えて、僕達二人はその場の椅子に腰を下ろしてコーヒーを飲んだ。彼女はビールを開けてゴクリと音を立てて飲みながら、自分の故郷の話しを僕等に沢山聞かせた。そして30分程経って「それじゃね」と言って帰ろうとすると、「今度は遊ぼうね。安くしておくから」と、外に出た僕らに向かって大声で言うので、僕はとても恥ずかしい気分だった。

 その後、学校からの帰路はその店へと立ち寄ってマコさんとは店頭で良く立ち話しをした。稀にマコさんの姿が見え無い時があり、その事を聞くと「野暮ねえ。その時はお客を取っている最中に決まっているじゃないの」と、大きな声と伴に高笑いされたりした。そして、いつしか僕には「遊んでいかない?」とは言わなくなった。僕達は秋までは店頭で立ち話を、冬になると店内に入り、暖を取りながら毎日のように話しをした。内容は取り留めも無いもので、「エクソシスト観た?」とか、前の日に来たお客への愚痴話とかだった。いつしか某有名スポーツ選手が来たらしいのだが、「躰が壊される」程強かったのだそうだ。そんな話しを僕に聞かせたところでどうにもならない話しなのに。

 所で、その映画「エクソシスト」は丁度この年に公開されたのだが、新宿ピカデリーには数千人の行列が出来るほど注目を集めた映画だったのだが、僕はホラーが大嫌いだったのでとうとう観には行かなかった。マコさんと友人はホラーが好きらしく、観に行ったので話しが盛り上がっていた。他にも「悪魔のいけにえ」とかを観たらしかった。

 映画と言えば、通常の封切館は料金が高いので、僕は専ら西口に有った「パレス座」へと通った。隔週でエロ映画と、普通の洋画が公開されていた。通常の映画が2本立てで300円しないで観られたので、その後、そこで「ナイル殺人事件」等を観た記憶が有る。

 「パレス座」は基本はオールナイト営業で、夜は終電を逃した人の仮眠所であり、昼間はいわゆる「サボリーマン」達の昼寝の場になっていたため、平日の日中は映画など全く観ずに寝ている人が殆どだった。

しかしそれ以上にそこはいわゆる「ゲイ」の人達が集まる事で有名だったらしい。それで、空いているのにもかかわらず、後ろの方で立ったままで観ている人が多かったが、当時はそんなことも知らないままで過ごした。

 話しは戻るが、マコさんにはたまに飲み物やお菓子を差し入れたり、逆に前日に羽振りの良いお客が来たと言って、ケーキを奢って貰ったりしていた。不思議な友情が生まれ、日々を過ごした。そしてとうとう最後まで「肉体関係」など持つことなく時は過ぎていった。そんな日々の途中、

「あんたならただで良いよ」とも言われたが、

「その後、顔を合わせづらくなるので」と、遠慮したら誘わなくなった。

 そのマコさんには、学校の卒業の日の帰り、僕と友人は奮発して少し豪華な花束を買って立ち寄った。「今日で、新宿にも来られなくなるからさ。今までの思い出に感謝を込めて」と言ってそれを差し出すと、彼女は

「花束なんて貰うの、初めてだわ」と言って泣き出してしまった。廻りを気にもせずに大声で大粒の涙を流して泣いたので、化粧は剥がれ堕ち目の周りは真っ黒く滲んでしまった。

 僕達は「元気でね。これでお別れですさようなら」と言って歩き出すと、彼女は

「今まで本当にありがとうね」と言いながら僕達が大通りへと出て姿が見えなくなるまでずっと手を振っていてくれた。その時、タオルで拭き取られた彼女の素顔を初めて見たのだが、僕は化粧しているときより少女のようでちょっぴり美しく見えていた。

 …それから10年以上の時を経て社会人となってからその場所を再び訪れる機会があった。その店は陰も形も残さずに無くなって、代わりにその場所には高いビルが建ち並んでいた。そして、その後のマコさんの行方は僕は全く知らない。

 その卒業から40年。何故か僕は新宿から程近い街に住んでいる。新宿へは自転車で良く出掛けている。通った学校は移転してしまい、その周囲もすっかりと姿を変えてしまった。ゴルフ練習場も、懐かしい喫茶店なども殆ど姿は無い。あの頃の思い出もすっかりと色褪せてしまい、そのマコさんの表情の輪郭も薄れていく。

 西口の摩天楼の数はたくさん増えたし今ではビルで埋め尽くされている。毎日見える都会の街並みは、綺麗になったが何か味気ない。僕の記憶の中にある、数十年前のバタ臭かったセピア色の街並みがずっと忘れられないでいる。今でもまた、いつかあの街並みと人々に会えるような気がしてならない。


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