結婚という概念
その日のイデアは落ち着きがなかった。
「そんなにそわそわしてると……私まで緊張して来るんだけど」
「そんなことを言えるお前が今だけは羨ましいな」
顔は笑っているが、どこか落ち着きがない。
まだ式は明日だと言うのにこの緊張感なのだとすれば、明日はどんな具合になっているのかが気になるのだが。
あの石造りの部屋はやはりお見合いだけの部屋だったようで、今はイデアと一緒に村の少し離れた家に住んでいる。
早くも同棲というやつだ。
「まったく……イデア、あんたの鶴の一声で私との結婚が決まった時もそうだけど。あんたは少し問題を抱えすぎよ? 少しは楽に構えたらどうなの?」
「お前は楽に構えすぎだ」
「それがあたしクオリティだよ」
イリシスは笑ってそう言う。
今は晩飯を終えたあと。
寝る前の二人の会話だ。
イリシスの言った鶴の一声とは、元老戒とイデアの話し合いの事だ。
「人と結婚なさるのですか」と蒼白顔で話す元老戒に対して、「貧弱な女は嫁にとらん」と堂々とした態度で言ってのけた。
そのあと、「あたしはゴリラか」とこの家で怒ったものだが……。
その態度も、威厳もどこへと行ったのか─イデアの緊張は止まることを知らない。
「明日隕石が落ちたら……いや、そもそもどちらかが死んでしまったら……ああぁ」
「お前ってそんなキャラだっけ?」
どこか自分さえ見失っている節のあるイデアに対して普段の調子でツッコミを入れるイリシス。
同棲を始めているとはいえ、もうこの家の覇権を持つ方がどちらか見えてくるようだった。
そんなやり取りを交していると、月は天高くに昇っていた。
「……そろそろ寝るか」
「そんなに緊張してるのに眠れるってのは逆に才能だな」
「寝ることくらいはできる」
寝るとはいっても一緒ではない。
まだ、2人の寝室は一緒にしていない。
イリシスが夫でもないやつに寝顔を見られたくないと言ったからだ。
しょんぼりしていたイデアの顔が面白かったものだが。
「それじゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
イリシスは知っている。
緊張し、笑い、私との結婚を喜ぶ。
そう感じられるあの龍の、イデアの隠している本心を。
その日も、我の夢は変わらない。
それは戦場にあった。
「大戦」と記されたあの頃。
突然、戦うという意義を失った我ら魔族は3年にも渡る「大戦」に決着をつけた。
人と魔族の大戦争。
仕掛けたのは我ら魔族側なのに、どうして人界を攻めようと思ったのかは魔界では定かになっていない。
記録として人界に残ったのは「新たな魔王が起こした人界への大進撃」。
しかし、魔界にその頃「魔王」がいたという記録は存在しない。
残されたのは靄のかかった記憶と、殺した人の恨みの怨嗟。
そしてそれは、今も我を苦しめる……鎖。
きっと感じていた緊張は、この鎖にをまだかけている自分自身に対してなのだろう。
この鎖が解けぬ限り、我に人と関わる権利はないのだから。
だが、言えない。
イリシスにこれを言ってしまおうものなら、彼女は嫌うより先に我を叱るだろう。
この卑怯者……と。
我は、この鎖から逃げてはならない。
我は、この鎖を解いてはならない。
それでももし、この鎖そのものに許される日が来るとしたら...。
許しを求めた我の心に呼応するかのように、鎖は体を強く締め付ける。
いつもの夢の光景。
……そのはずだった。
ふと、その鎖の苦しみが紛れる。
少し前から……イリシスと同棲するようになってから、何度か感じている感覚。
どこか温かく優しい手が、冷たい鎖ごと我を包み込んでくれている気がして。
もし、人と過ごすこの時間がこの鎖を解くきっかけになるのならば。
そう思うイデアの顔に、いつもの笑顔はなかった。
遂にその日は来た。
龍村の賑わいは、イデアの妻を決める時以上である。
今回は門番は仕事をしているのだろうか...そんなことを考えながら、その日の主役の1人であるイリシスは白く立派なドレスに身を包んでいた。
隣には、同じく白いスーツを完璧に着こなす青年の姿。
もちろん、イデアである。
「遂に...と言ったところだな」
「なんだ、昨日の方が緊張してたじゃん」
「それなりに覚悟は決まったということだ」
龍帝としての質というものなのだろうか、どうもイデアは大勢の前での方が緊張がない。
イリシスと二人きりになれば見せる態度も今は見る影もなかった。
「私の前でも堂々としてればいいのに」
「お前は有無を言わせんだろう」
「余裕を持ってってやつだよ、あたしの旦那になるんだろ?」
「そして夫に...な」
「どっちも同じじゃねえか」
イリシスは笑って言う。
イデアは笑わなかった。
龍の結婚式は盛大ではあるのだが、些か人界のものとはまるで異なっていた。
まず、教会では行わない。
そもそも教会というものが存在しないのだから当たり前ではあるのだが...。
そして愛を認めあわない。
イデアは決してしないと言っているが、魔族は一夫多妻が可能だからだ。
体だけでの関係だろうと、結婚し身を結ぶこともあるのだという。
人間サマには理解できないなと言えば、だから争うのだろうと返すイデア。
もっとも、イリシスにはイデアの言っている事がどこまで本気かはわかりえないことなのだが。
「てか...ここまで違うと、私の結婚という概念がゲシュタルト崩壊するんだが」
「異種族は大変だな」
「張本人が言いますか、それ」
きっと今の私は、顔は笑っても目が笑っていないだろう。
ちらほらと見える龍以外の種族も、イデアが呼んだと言っていたし。
その日の事はあっという間に魔界に広がった。
『龍帝が人間と結婚』
このニュースは魔界を騒がせ、驚かせた。
特に驚きが大きかったのはイデアとおなじ、死天王の面々だった。
顔を見せることこそなくとも、その使者は今こうして龍村に来ているのだから。
「まったく、主役を差し置いて」
そう言ったイリシスの前では、多くの龍がまるで自分が結婚したのだと言わんばかりに湧いていた。
騒がしくとも、イリシスはこんな風景も嫌いではなかった。
そんなことを思っているときだ。
「イリシス、すまんが少し席を外す」
イデアが唐突にそう言った。
どうやらその顔を見るに、トイレでは無さそうだ。
だが、イリシスは慣れたふうに返す。
「まあいいけど。ちゃんと帰ってこいよ? これ止められるの、お前だけなんだから」
「ああ、理解しているさ」
イリシスは不思議に思いながらも、イデアの立ち去る後ろ姿を眺める。
その背中にはどこか、この目の前の光景とは真反対の心情が見えるような気がした。
イデアが席を外したのは、元老戒が彼を呼んだからだ。
もちろん、要件はイデアにもわかっていた。
「あの小娘と結婚というこの事態、龍帝様はどうお考えなのですか」
元老戒の1人が言う。
元老戒とは、5匹の古龍の集まりであらゆる龍の格式や法を守り、守らせる存在。
龍のみに生き、龍のために死ぬことを良しとするボケた老龍の集まりだ。
あの小娘、この事態、その言葉から元老戒の考えは透けて見える。
龍帝である我と、イリシスの結婚など本来あってはならないというのが元老戒としての心積りなのだろう。
それを封じ込めたのは我だったはずなのだが。
そんな事を気にしている雰囲気もなく、元老戒は続ける。
「どうお思いなのですか!!」
威勢は増すばかり。
見れば、ここにいる元老戒全てがみな責めるような顔をとっていた。
きっと、イリシスの前の我ならば「取るに足らん事だ」と一蹴していただろう。
だが、
「人間は好かん」
今の我には、鎖がある。
「イリシスというあの人間も、我の中では同じだ」
同じで...関わるべきではない。
「惚れたと言ったが...きっと我が関わるべきではない」
この鎖ある限り、我は人の物真似さえ...許されない。
「せいぜい、奴が死ぬまでだ。死なぬとしても、この村をその内出て行くだろう」
我とともに歩めるはずがない。
惚れたからこそ、彼女を鎖の一部にしたくは無い。
「だから...」
イデアの心は頑なに、その鎖への後ろめたさを拭いきれずにいた。
だが、その心情を知らぬ元老戒には違う意味に聞こえるのだろう。
「おお...龍帝様も同じ考えであらせられましたか」
「さすが龍帝様、いやしかしそう思えば悪いのはあの小娘に負けた女どもですな」
「望まぬ結婚、心中お察し申し上げます。もしなにか入り用でしたら、いつでもこの元老戒めを頼ってくださいませ」
そう言って。
イデアの心は晴れることは無い。
同族にすら伝わらぬ気持ちを、どのようにしてイリシスに伝えろというのか。
見ることの出来ぬ未来に、幸せを感じることが。
結婚したというのに、未来を見据えることが、イデアには出来なかった。
「今帰った」
「おう、おかえり」
イデアの顔はいつものように見える。
だが、イデアの癖はわかりづらくともとても多い...とイリシスは見破っている。
コップを持つ仕草ひとつをとっても、口に運ぶまでに時間でその時の気分を知れる。
早い時は機嫌がいい時だ、またゆっくりな時は機嫌が良くない時だ。
そして今は、後者だった。
「............」
イリシスはあえて何も言わない。
きっと自分のことなのだろう、と思っていようとそこについて詮索などはしない。
野暮な上に、彼の妻として負担を与える事をしたくないのだ。
だからこそ、軽口を叩く。
「イデア、今日の主役らしく私達もステージに上がらないか?」
ステージ...と言ってもこの前イリシスが戦った闘技場なのだが、そこではあらゆる龍が、種族が、2人の事を祝い催し物を披露していた。
「私たちが出れば、この騒ぎもちょっとは収まると思えないか?」
「...そうだな」
イデアの暗い気配が少し晴れる。
イリシスは少しの安堵と共に、イデアとステージの上へと上がった。
イリシスはマイクを貰い受け、満点の笑顔で言った。
「えー、今日の主役の1人。イリシス・アイリーンと言います」
会場が湧く。
さっきよりも騒がしくなる会場はさながら超有名グループのコンサートのようだった。
「そして、こちらが私の夫になる、イデアです」
さらに、盛り上がる。
龍の咆哮と2人を煽る声が会場を埋め尽くす。
イリシスは失敗かな、とはにかみ笑う。
だが、イデアは何を思ったのかそんな自分達に皆が注目している中で...言ったのだ。
「イリシス、イデアでは無く...グランと。イリシスの夫となるのだから、それくらいは構わんだろう?」
と。
途端、会場が静まり返る。
隣にいたイリシスも、ありえないものを見たというふうにイデアを見ていた。
「 ? どうしたのだ? イリシス」
イリシスは思い返していた。
思えば、家でもさっきまでも。
名前で呼ばれることすら無かったことを。
当たり前でありながら、思いつかなかったこと。
夫婦という関係で、お前、あんたの関係ではなくなった証として。
「...わかったよ、グラン」
自分が作れる最高の笑顔とともに、その名で呼んだ。
その龍は、幸せを望んだ。
その少女は、強さを望んだ。
互いに全く違う望みを持ちながら、その歩を共にするのはきっと。
その龍に強さがあり。
その少女に幸せがあったから。
ふと、グランはイリシスを見て気づいた。
「イリシス、目の元にうっすらと隈が見えるぞ」
イリシスは笑顔を微笑みに戻しながら言った。
「誰かさんが寝させてくれないから...ね」
これは、2人の物語。
その始まりに過ぎない。