穏やかな日々と変わりゆく思い
よろしくお願いします。
それからの日々は穏やかなものだった。
私は少しずつ食べる量も増え、立ち上がることもできるようになった。そうやってできることが増え始めると私の自信になって、より挑戦したいという意欲に繋がった。それがよかったのかもしれない。
私は今、歩く練習を始めている。最初はどうなることかと思うくらい覚束なかった足取りは、少しずつよくなっていると思う。
カイル様は仕事が休みの時や、空いた時間に私の練習に付き合ってくれている。
最初は忙しい彼に付き合わせるのは申し訳ないと断った。だけど、理由はわからないながらも酷く私に責任を感じている彼は頷かない。夫とは思わなくていい、友人として君を助けたいと言ってくれた彼の言葉に甘えさせてもらうことにした。
だけど、彼に支えてもらうのは初めは抵抗があった。やっぱり知らない男性に触れられることが嫌だったのだ。それでも性的な意図を感じさせない彼に、少しずつ私の拒絶反応は無くなっていった。
今ではどちらともなく誘って過ごすことが当たり前になっている。
そうしてカイル様と過ごす時間は増えていった。
◇
「今日もいい天気だな」
「ええ、そうですね」
今日はカイル様の仕事が休みなので、二人で庭の散歩をしている。まだ疲れやすいので休み休み歩いているけど、彼は嫌がることなく付き合ってくれる。
庭師が丹精込めて整えてくれた庭は色とりどりで綺麗だ。見所があり過ぎて、会話をしながらもあちこちに視線が移る私に、カイル様は苦笑した。
「余所見していると転ぶよ」
「そんなわけないじゃないですか……って、あっ!」
足元に石があったようで、つまずいた。そんな私を抱きとめてくれたカイル様は呆れ顔だ。
「言ったそばから……」
「……返す言葉もございません」
恥ずかしくて顔が熱い。今は真っ赤になっているだろう。見られたくなくて、顔を俯けたままカイル様から離れる。そんな私を見てカイル様は見当違いなことを言った。
「すまない、嫌だったか?」
はっと顔を見たら、心配そうに私を見ていた。誤解させたのだと思い、慌てて首を左右に振った。
「違います! 恥ずかしかっただけで……」
「それならよかった」
カイル様は安心したように笑った。その笑顔にほっとする。こんな風に穏やかな気持ちで過ごせるのは、カイル様のおかげだ。彼は私に無理強いをせず、友人から始めようという約束を守ってくれた。
関わっていた人全てを忘れてしまった私だけど、少しずつ自分の立ち位置と、置かれた状況を理解し始めていた。それに抗うよりも受け入れる方が楽だと気づいたからだ。それは一種の防衛本能なのだと思う。
自分が何者かわからないのは足元が崩れていきそうで思った以上に不安だった。だからこそ、自分に役目を与えることで足元を固めたかった。
そうして侯爵夫人であることを受け入れようと思ったが、侯爵夫人の役割を果たすことは難しかった。
役割は主に後継の男児を産むこと、社交を行うこと、女主人としてカイル様の代わりに屋敷を管理することの三つ。
一番大切なのは後継を産むことで、本来なら妻としての私の義務なのだが、私には彼の記憶がなく、そういう強引なことはしたくないとカイル様が言ってくれた。だから、そのことはおいおい考えようと二人で話し合った。
それならば社交を頑張ろうと思ったけど、貴族年鑑の知識はあっても、顔と名前と人間関係が一致しない。
誰がどの派閥で、敵対関係で、ということがわからないのだ。貴族というのはそういうバランス感覚も必要になる。下手に敵を作らず上手く立ち回ることも必要になってくるのに、このままだと私はただの足手まといになるだろう。
そして屋敷の使用人の采配だが、以前の私もあまり行っていなかったようだ。それは旦那様がなさっていましたと執事長が教えてくれた。
それは今もカイル様がしているようなので、私が余計なことをしない方がいいのかもしれない。
結局、私は何もしなくていいとカイル様は言ってくれる。
でも本当にそれでいいのか。
これでは私はただここにいるだけの役立たずだ。記憶が戻るまでずっとこんな生活を送るのは耐えられない。だから今日はカイル様に会ったらお願いしようと決めていた。
「……あの、カイル様。私にも何か仕事をさせてもらえませんか。何もせずに置いてもらうのは心苦しいのです」
唐突に切り出した私に、カイル様は困ったように眉を下げた。
「長くなりそうだから、とりあえず座ろうか」
そう言われ、近くの四阿で腰かけて、側に控えていた侍女のナタリーにお茶の用意をお願いした。彼女は手早く用意をすると、再び下がった。彼女が離れるのを見計らってカイル様は口を開いた。
「それでどうして急にそんなことを言い出したんだい?」
「急ではありません。ずっと思っていたんです。私にも何かさせてください。このままでは私は単なる厄介者です。記憶が戻るまで何もせず、このままいるのは耐えられません。それに何かしていれば思い出すかもしれませんし」
その途端、彼は辛そうな顔をした。
「……君は思い出したいのかい?」
「え? ええ。このままじゃ、困りますから」
彼は何が言いたいのだろう。思い出したいのは当たり前だと思うのだけれど。
「……思い出さなくてもいい。君はそのまま幸せに暮らせばいいと思うよ」
「どうして……?」
「……君には幸せになる権利があるんだ。それに君はこれまで充分に頑張った。だから、君は何かをしようと思わなくてもいいんだ」
もう話は終わりだとばかりに、カイル様は視線を逸らした。私は彼がどうしてこんなことを言うのかわからず困惑するのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。