私の家族
よろしくお願いします。
「それじゃあ、君が知っておいた方がいいことの説明をしようか」
そして翌日、ベッドに横たわる私の側で、カイル様はそう前置きをして、話し始めた。
「前にも言ったが、君の名前はヴィルヘルミナだ。そしてティルナート侯爵家に嫁いでくる前はマクラーレン伯爵家の令嬢だった。今は二十二歳で、結婚して一年と四カ月くらいになるのかな。そして私たちの娘であるシェリアは生後六カ月になる」
「へえ、そうなんですか」
何というか、改めて自分のことを聞いても他人事にしか思えない。驚くでもなく淡々と相槌を打つ私に、カイル様は苦笑した。
「まるで他人事のような反応だね。私としては寂しい限りだ」
「……他人事にしか思えませんから。それか、最初に驚いたせいで感覚が麻痺しているのかもしれません」
初対面のはずの男性が夫だと言い出した、最初以上の衝撃は中々ないかもしれない。
「……そうだな。突然貴方はこういう人ですよ、と言われて、はいそうですかと納得する方がおかしい。私も頭ではわかっていたつもりだが、君が記憶喪失だと信じきれてなかったのかもしれないな。いや、信じたくなかったと言うべきか……」
カイル様は目を細めて私を見る。懐かしいものを見るような切ない目。以前の私を思い返しているのだろうか。しばらく無言で見つめ合って、先に声を上げたのはカイル様だった。
「つい考え込んでしまった。勝手なことを言ってすまない。気にしないでくれ」
「いえ、そんな……政略結婚でしょうが、以前の私を思ってくださってのことでしょうから」
貴族社会では政略結婚は当たり前だ。そうじゃない例を探す方が難しい。だから私たちもそうだったのだろうと思ったが、彼は首を振った。
「……いや、政略結婚じゃないんだ。私たちは夜会で出会ったのがきっかけで結婚したんだ」
「そうなんですか。珍しいですね」
「……ああ、そうだな。だけど、ヴィルヘルミナ。そう思うってことは、その辺りのことは覚えているのかい?」
「そうですね……説明が難しいのですが、貴族社会では政略結婚が当たり前という知識はあります。でも自分がどうなのかはわからないんです」
「そうか」
そう答える彼は、どこかほっとしているように見えた。ひょっとしたら私の見間違いかもしれないけれど。
カイル様は、更に続ける。
「そして私はカイル・ティルナート。ティルナート侯爵家の当主で君の夫だ。君の四歳上で二十六歳になる。この屋敷はティルナート領にあるんだが、今は社交シーズンではないから、こちらで領地経営をしているよ」
「そうですか……」
やっぱり聞いてもピンとこない。また同じようにへえ、そうなんですかと思うだけだ。ただ、今度はカイル様は何も言わなかった。
余談だが、この国では領地に爵位が与えられている。だから、もしカイル様が別の領地を治めることになれば、カイル様はティルナート侯爵ではなくなり、その領地の名前を名乗ることになる。そして侯爵の上には公爵という爵位があるが、公爵領を治めるのは王家に連なる方々で、カイル様は王族と結婚しない限り公爵になることはない。
「そして私たちの娘であるシェリアだね。さっきも言ったと思うが、まだ生まれて六ヶ月目だ。顔立ちは私に似ていると言われるが、髪と瞳の色は君譲りだね」
「そう……なんですか?」
自分の髪は、背中の中程まであるようで、視界に入ってくるから色がわかる。だけど、瞳の色まではわからない。訝る私に、彼は小さな鏡を持ってきてくれた。
その小さな鏡を覗き込んでも、私には似ているかどうかはわからなかった。そもそも自分の顔さえ覚えていなかったのだ。私はこんな顔をしていたのかと思うだけだった。
だから思わず心に浮かんだ疑問を口にしてしまった。
「……本当にあの赤ん坊は私の子どもなのでしょうか?」
「一体何を……」
「いえ、少し思っただけです。私には産んだ覚えがありませんし、似ているのかどうかもわかりません。だから……」
それ以上言っていいものかと言い淀むと、カイル様は察したようで、険しい表情で続けた。
「……私と浮気相手の間に生まれた子どもを引き取った、そう言いたいのかい?」
「……」
貴族の家庭には珍しくないことだろう。当主がメイドや侍女、下働きの者に手をつけて孕ませるというのは。引き取ることは稀かもしれないが、夫婦間に子どもができなければそういったこともあり得る。
例えそうだとしても、今の私には何の感慨も浮かんでこない。彼を責める気も起きないのだ。
淡々とした私に、彼は悲しそうに顔を歪めた。
「……これは結構くるものがあるね。そう思わせた私の自業自得なのかもしれない。それに……」
──これが私への罰なのかもしれない。
一旦区切って彼が呟いた言葉は、私の耳に辛うじて届いた。聞き間違いかもしれないが、彼の罰とは何なのか、どうして浮気を疑うことが罰になるのか。
「それはどういう……」
私が不思議に思って問いかけようとすると、カイル様はハッとしたように私を見て、首を振った。
「いや、何でもないよ。シェリアは間違いなく君と私の娘だよ。これは断言できる」
「そうなんですね……」
カイル様は真剣だった。目を逸らさずに真っ直ぐ私を見ている。浮気を疑われたくないだけにしては、真剣過ぎる気がした。それは私の穿った見方なのだろうか。
「いきなり多くの情報を聞いても君が辛いだろうから、残りはおいおい話すよ。ただ、私やシェリアが家族であることは覚えておいて欲しい。君は一人ではないんだ」
「……ありがとうございます」
自分が何者かわからない状態で、誰とも繋がっていないのは不安だった。だから、素直に彼の言葉は嬉しい。それでも、まだ無条件に彼を信じていいのかという不安は残っている。
これから新しい関係を築いていく中で、その不安は消えていくのだろうかと、この時の私は思っていた。
◇
そして今、私の腕の中にはシェリアがいる。
「お母様に抱かれて、ご機嫌みたいですね」
「あー、う?」
乳母のマーサがシェリアを覗き込んでいる。私の意識ではこの子を抱くのは初めてなのだ。しかも腕の力もまだ戻ってきていない。だから緊張して腕が攣りそうなのに、シェリアはもぞもぞ動くので落とすのではないかとハラハラする。
どうしてこうなったのか。
カイル様と話した後にシェリアと会ったが、まだ一人で身を起こすことができずに抱くことができなかった。
それで私がせめて起き上がれるようになったらシェリアを抱いてみたいとお願いしたのだ。そうすれば私の記憶に何か引っかかるものがあるかもしれないと思ったからだ。
そして数日経ってようやく起き上がれるようになったので、マーサにシェリアを連れてきてもらった。
ぎこちなく抱きながら、シェリアを見つめる。子供はどの子も無条件に可愛いと思う。でも、この子を愛しいかと聞かれたらわからない。私は以前もこうしてシェリアを抱いていたのだろうか。私は思わずマーサに問いかけていた。
「……ねえ、マーサ。私は記憶が無くなる前もこうしてこの子を抱いていたのかしら」
私の問いに、マーサは虚をつかれたようで、少しの間があった。
「あの、奥様。申し訳ありませんがわからないのです。私が乳母になったのは一月ほど前なので」
「そうなの? それなら私はそれまでどうしていたのかしら」
「旦那様から聞いたところでは、奥様が自分で育てるとおっしゃって、乳母はつけなかったそうです」
「貴族にしては珍しいわね」
貴族というのは乳母を雇って子供の面倒を見させるのが常識なはずだ。以前の私は何を考えていたのだろうか。
「きっと奥様はお嬢様を愛しておられたのですよ。だからこそ、ご自分でお世話をされていたのだと思います」
「そう……かもしれないわね……」
この子はかつては愛し慈しまれた子なのかもしれない。なのに今の私はそんな愛情を失っている。この子には、以前の母と今の私の違いなんてわからないのだろう。機嫌よく暴れる幼子に、罪悪感で胸が痛んだ。
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