歩み寄り
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翌日の夜、目を覚ました私は医師に診せられた。昨日は昼過ぎに起きてすぐ気を失ったから、丸一日以上眠っていたらしい。体が重いのはそのせいなのかと思っていたけど、その後に聞かされた事実に驚いた。
なんと私は約一カ月前に階段から落ちて、ずっと意識が戻らなかったそうだ。確かに体が動きにくかったけど、一カ月も眠っていたとは思わなかった。これも悪い冗談なのかと、また疑いそうになったくらいだ。
医師の診察の結果、私は記憶喪失と診断された。社会生活に関することは覚えているのに、自分に関することを忘れてしまったらしい。
「原因は正直に言ってわかりません。頭を打ったからか心の問題なのか、その両方か。もし心の問題だった場合、思い出すことが彼女の負担になるでしょう。だから無理に思い出させるようなことはやめた方がいい。それにその失った記憶は戻るとしてもいつ戻るかはわからないし、最悪、一生戻らないこともありえます。だから彼女の体調などを考えて焦らずにいきましょう」
そんな医師の言葉を、同席していた私の夫だという彼は、難しい顔で聞いていた。
◇
「それで、貴方のことは何とお呼びすればいいでしょうか?」
気持ちが落ち着いてきた私は、医者が帰って彼と二人きりになったので聞いてみた。何が正解なのかわからない以上、わかる人に聞くしかないと思ったからだ。
「それなら私のことはカイルと呼んで欲しい」
夫とはいえ、身分の高そうな彼を呼び捨てにすることは憚られ、私は素直に頷く振りをした。
「わかりました。カイル様」
「……いや、様はいらないんだが……」
彼は困ったように眉を寄せた。以前の私は彼を呼び捨てにしていたのだろうか。でも、覚えていないのだから、それで許して欲しい。
私は確かに自分や彼、私の娘だという赤ん坊のことを忘れている。
それでも、一般常識は覚えているのだ。この国では男性優位で女性の立場は低いということも。
以前の私もそういう知識はあったと思う。それなのに彼がこう言ってくれるのは、それほど夫婦仲が良かったということなのか。
「ヴィルヘルミナ、気分でも悪いのかい?」
考え込んでいて、彼のことを忘れていた。声をかけられ顔を上げると、彼は心配そうにこちらを見ていた。
「いえ、何でもありません」
「それならいいが、私は君を困らせたんだな。すまない。君が思う通りにしてくれれば、それでいいんだ」
「……ありがとうございます」
ここまで気を遣われると、どうしていいかわからない。今の私には彼に優しくされる理由に覚えがないのだから。私は彼と目を合わせることができずに目を逸らした。
でも彼は私を責めるでもなく、話を変えてくれた。
「……それじゃあ、何か食べるかい? しばらく眠っていたから体力を取り戻すためにも少しずつでも口にした方がいいと、医者も言っていたからね」
「お腹は空いてないのですが……」
「自分で気づいてないだけだと思うよ。温かいスープだけでも用意しよう。もし無理なら残せばいいから」
「ありがとうございます」
そうして彼はテキパキと指示を出し、すぐに用意してくれた。
だけど、そこで私は予想以上に体力が落ちていることに気づいた。一ヶ月も眠り続けたせいか、私は痩せ細ってしまい、スプーンを持つ力さえなかった。無理に持とうとすると震えるので、ナタリーという最初に会った女性に食べさせて欲しいとお願いしようとした。
でも、このカイル様が夫なのだからと食べさせてくる。恥ずかしいのと近い距離感に慣れず、困っていると、苦笑された。
「君はまだ病人なんだよ。筋力が衰えているんだから、食堂まで歩けないだろうし。 なんなら私が食堂まで抱いて行こうか?」
それはカイル様なりの気遣いだったのだろうと思う。でも、私はまだ、彼との距離感を掴みかねている。だから思わず嫌そうな顔をしてしまい、それを見たカイル様が一瞬傷ついた顔をした。
心配し、面倒を見てくれている人にとる態度ではなかった。申し訳なさでどんな顔をしていいかわからず、私は俯いてしまった。
その後少しだけ気まずい沈黙が流れ、その静寂を破ったのはカイル様の穏やかな声だった。
「……今の君には私は知らない男だ。怖くて当然だと思う。だから気にしなくていいんだよ」
思わず顔を上げるとカイル様は優しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「……申し訳ありません。覚えていないのではっきりとはわからないんですが、貴方が嫌いとかそんな気持ちはない……みたいなんです。ただ私には貴方は知らない男性としか思えなくて……」
「……君の気持ちも考えずにすまなかった。そんな男に言われても困るだけだったな。私が悪かったよ」
「いえ、そんな。私こそ良くしていただいてる方に失礼な態度をとって申し訳ありません」
「いや、私こそ。すまなかった」
何度かそんなやり取りをしていたら収拾がつかなくて、おかしくなって笑ってしまった。そのせいか少し肩の力が抜けた気がする。自然な笑みを浮かべた私に、カイル様も笑ってくれた。
「もうお互いが悪かったと言うことにしようか」
「ええ、そうですね」
そこで笑いをおさめたカイル様は、ふと真顔になった。
「……それで、もしよければなんだが、私と友人から始めてもらえないだろうか?」
「え?」
突然の申し出に、私は驚いた。咄嗟に返事ができなかった私に、カイル様は慌てて続ける。
「ああ、いや、確かに私たちは結婚しているが、今の君にとって私は知らない男だ。怖いだろうと思う。それでもこれからも一緒に暮らすことが決まっている以上、お互いに知り合っていきたいと思うんだ。私も今の君の気持ちがわからないからね。もちろん、君が嫌がることはしない。不安だったら二人きりにならないように侍女を立ち会わせるようにもする。どうだろうか?」
不安そうに私を見るカイル様は、本心で言ってくれているように見えた。
正直に言うと無条件に人を信じることは怖い。それでもそれしか選択肢がないのなら信じるしかないのだ。
それに彼はこんな私を甲斐甲斐しく世話をしてくれている。悪い人じゃないと思う。信じてみてもいいのかもしれない。
「ありがとうございます。お友達からお願いします」
その言葉に彼は嬉しそうに笑って頷いた。今の私と彼の関係はこうして始まったのだ。
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