325話 月の女神の悪戯
「この星に降臨するのはいつぶりかな」
くっくっく……、と邪悪に笑うノエル女王――の顔をした月の女神様。
本当に俺のやったことは正しかったのだろうか、と恐れ慄いていると。
「おかしな感覚です。太陽の女神様の降臨とはまた違っているような……」
いつもの愛らしいノエル女王の表情に戻った。
「ノエル様、意識はあるんですね。てっきり乗っ取られたものかと」
「巫女へ女神様が降臨されても、巫女の意識は残っていますよ。ただ、本来はこのように降臨中に私は口を聞けないはずですが…………、あ!」
俺の質問に答えたノエル女王が何かを見つけたように、目を見開いた。
視線の先を合わせると、そこにはノエル女王配下の騎士たちが倒れていた。
「大丈夫ですか?」
俺は彼らの一人にかけより、顔色を確認する。
息はしており、大きな怪我は無い。
意識を失っているだけのようだ。
「僕の神気に当てられただけだよ。それよりも、こんなところで時間を使っている場合かな?」
つまらなそうな声を発したのは、ノエル女王に降臨した月の女神様だった。
その言葉にはっ、となる。
「ニャル様。海底神殿を攻略するお手伝いをお願いできますか?」
「ふふふ……、任せておけ、と言っただろう?」
腕組みをして不敵な顔をするニャル様。
そのままスタスタと海のほうへ近づく。
俺も慌てて、あとに続く。
今から向かうのだろうか。
が、月の女神様は浜辺の近くでぴたりと足を止めた。
「と言っても、バカ正直に海へ潜る必要は無い。深海ノ傷の下には海神の結界があるせいで精霊使いである騎士くんは十分な成果が得られないからね」
そう言いながら月の女神様は、空中へ指を向ける。
そして、くいくいと指を手前に小さく動かした。
それは猫か犬を招き寄せるような仕草だった。
「ニャル様……? 一体、何を」
「ククク……、すぐにわかるさ、すぐにね。その間に神獣リヴァイアサンについての話でもしようか。かの神獣には聖神族より二つの『神託』を任されている。一つは、君もよく知っての通りだ」
「ノア様の封印……ですね?」
「その通り。海底神殿を目指す『愚か者』を追い払う役目だね」
「…………」
散々追い払われた愚か者本人としては非常に苦々しい思いだ。
「もう一つは何なのでしょう? ナイア様」
ノエル女王が会話に参加した。
もっとも喋っているのは一人だが。
「この惑星の守護だよ、ノエルちゃん」
「守護ですか……、であれば今のこの状況を何とかしてくださらないのでしょうか」
ノエル王女の質問は、もっともだった。
現在、厄災の魔女により世界征服されてしまう危機の真っ最中だ。
「残念ながら神獣リヴァイアサンは星間戦争用の神獣だ。惑星の表層で行っている小さな諍いには関与しないよ」
「ち、小さいですか!? この星全体が魅了されてしまうほどの大事ですが!」
「関係ないさ。神獣が出張ってくるのは星自体が崩壊してしまうほどの未曾有の大災害の時くらいさ」
「大災害……ですか」
「ああ、そういえばそろそろだね」
「そろそろ?」
「空を見てごらん」
月の女神様の言葉に、視線を上げる。
そして、視界に入ってくる景色の意味がわからずに一瞬混乱した。
時刻は夜明け。
太陽が登り始めている。
ずっと空を覆っていた雲が、自分たちのいる周囲だけ無くなっている。
どうやら月の女神様降臨の余波らしい。
そして問題なのは、すでに輝きを失い白く空に浮いている月。
その大きさが……。
「ま、マコト様!!!!」
ノエル女王が悲鳴を上げた。
「月が…………近づいてる?」
普段は広い夜空の中で、ゴルフボールよりも小さいくらいの月。
それが今はバスケットボールくらいの大きさに見える。
いや、目を凝らして見るとさらにゆっくりと大きくなっているような……。
「ニャル様……、何をしたんです?」
震える声で月の女神様に尋ねた。
ニャル様がにやりと笑う。
「月を呼んだ。あと10分くらいで、この星に月が墜ちるよ」
「……………………え?」
「……なぜ、そんなことを?」
絶句するノエル女王と戸惑う俺に、悠然と微笑む月の女神様。
「君のためだよ、騎士くん。助けてあげると言っただろう?」
「月を落として欲しいなんて言ってませんよ!?」
何を言ってるんだ、この女神は!
思わず掴みかかりそうになって叫ぶと、月の女神様がひょいと肩をすくめた。
「ほら……来たよ」
…………ズ……ズ……ズ……ズ……ズ
「これは?」
海が揺れている。
島から一斉に鳥たちが飛び立っていった。
いや、鳥だけでなく虫たちもだ。
島にいた犬や数少ない家畜たちが、悲鳴のような鳴き声を上げ始めた。
海が揺れ、地面もわずかに振動している。
地震だろうか?
にしては揺れがずっと一定だ。
小さな揺れはそれ以上大きくならず、しかし収まりもせず振動し続ける。
小さな地震が数十秒ほど続き、その間にも空の月はどんどん大きくなる。
天変地異の様相だった。
俺が説明を求める目を向けても、月の女神様はニヤニヤしたままだ。
そして。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド!!!!!!!!!!!!!!!!
地震の揺れに合わせるように、突如爆音が響いた。
それは爆発のような音でなく、水と水がぶつかる音だった。
近いのは大迷宮で聞いた大瀑布。
さーさんの住処だった巨大な滝の数々があった地底湖。
その音を『千倍』くらい大きくした音だった。
「あ、あれ……?」
ノエル女王が、指差す方向に奇妙な物体があった。
さっきまではなかったものだ。
ついさっきまで、そこには大海原が広がっていた。
が、もう海は見えない。
代わりにあったのは、巨大な壁だった。
どこまでも続く長い壁。
それが海面から突如せり上がってきた。
壁はどこまでも上がっていく。
やがて雲を貫き、それでもまだ上がっている。
永遠に続くかのような壁の上昇は、
………………ズ…………ン
と、ゆっくりと停止した。
それはその雲を貫く高い高い壁を見上げた。
「津波が来ています!」
ノエル女王が悲鳴を上げる。
「ディーア」
「はい、我が王」
水の大精霊がすぐに現れ、十数メートルの津波をあっさりと止めてくれた。
あの津波が俺たちの居る島々を飲み込んでいたら、そこにいた生き物はすべて押し流されていただろう。
だから、ディーアにお礼を言わなければいけないのだが、俺は呆然としたままだった。
何度も見ているはずなのに。
いつもは暗い深海の中だった。
それにずっと距離が離れていた。
こんなに間近に迫ったのは初めてだ。
「リヴァイアサン……」
俺の呟きを聞いたノエル女王がぎょっとした顔で振り向いた。
「…………マコト様、いま……何といいました?」
「ノエル女王は見るのは初めてでしたね。あれが海底神殿を守っている神獣リヴァイアサンですよ」
「えっ……? え…………、で、でも……あれ……が……?」
俺の言葉への理解が追いつかないのか、目を白黒させたのち、気を失ってしまった。
「…………あぁ」
「おっと」
ふらっと倒れそうなノエル女王を慌てて抱きとめる。
が、ぱちっとすぐに大きな目が開き意地悪そうな顔に変わった。
「さぁ、神獣リヴァイアサンがノコノコと海神の結界の外に誘き出された。しかも、『月の落下』という別件に気を取られている真っ最中だ。これは絶好のチャンスだと思わないかい?」
月の女神様は実に楽しそうだ。
が、俺は心配になった。
「…………こんなことをして大丈夫なんですか?」
ノア様が度々言っていた『神界規定』。
神族は地上へ干渉してはいけない。
女神様は巫女を介して、民に声を届けている。
直接手を貸すのはもっての他。
俺を千年前に送り出した運命の女神様は、それを破った罰として巫女への降臨を禁じられている。
だが、目の前のこれは……どう考えても干渉し過ぎでは?
「僕の心配までするとは、流石はノアくんの使徒だね。なぁに、僕はこの星での女神運用には力を入れていないから気にしなくていいよ。勿論、やりすぎるとアルテナくんに怒られるんだけど……、幸いネヴィアちゃんの結界のおかげで地上の様子は天界から視えていない」
「では、これはセーフだと……?」
「そうだよ、ま、これくらいの悪戯ならね☆」
小さくウィンクして月の女神様は笑った。
……月を堕とすことを悪戯と言い切る恐ろしさに、こちらの身体が小さく震えた。
「とはいえ僕にできるのはここまでだ。これ以上はノエルちゃんの身体へ負担になるだろうし、さすがに天界の聖神族たちも気づいてしまうだろうね。さぁ、場は整えたよ? どうする、騎士くん?」
挑戦的な目で、俺を見つめる月の女神様。
想像とは大分違った方法だが、助けてくれたことには変わりない。
「……機会の創出、ありがとうございます、ニャル様」
俺は覚悟を決める。
目の前には、海面から飛び出た巨大な壁。
神獣リヴァイアサンの頭は、雲に隠れて下からは見えない。
今からこいつを攻略しないといけない。
「ディーア! 水の大精霊たちを集めてくれ!」
大声で指示を出す。
「わかりました、この星の水の大精霊たちですね?」
「違う」
「我が王?」
「全部だ。可能な限り全ての水の大精霊に声をかけてくれ」
「……かしこまりました、少し時間はかかりますが集めます」
ディーアの準備の時間に向け、俺は目的地を確認する。
神獣リヴァイアサンは全身を地上に出しているわけではなく、身体の半分は海の中に残している。
ノア様のいる海底神殿は、リヴァイアサンの背に乗っているはずだ。
『千里眼』スキルでその場所を探す。
(あった!)
海底神殿が、巨大な壁の一部にぽつんと建っているのを発見する。
あれが、俺の目指す場所だ。
――あそこにノア様が居る
気持ちが高ぶる。
が、慌ててはいけない。
まだ準備は二割も終わっていない。
(足が欲しい……)
いつもなら海中のため、自分一人のほうが身軽だった。
しかし、今回は海底神殿が外に出ているという異常事態。
水魔法を巨鳥や飛竜に見立てて、足にすることはできるが本物よりは劣る。
それに空間転移の使い手が居ないのも痛い。
ノエル女王は空間転移を使えないだろうか? 聞いてみようかと思っていると。
バサ、バサ、バサ……
という巨大な風切り音が上空で響き、俺たちのいる島を巨大な影が覆った。
「すいません……マコト様、気を失ってしまい…………ひぁっ!」
意識を取り戻したノエル女王が、再び悲鳴を上げる。
俺たちのすぐ目の前に、小山ほどもある巨大な黒竜が現れた。
「……古竜の王?」
「いかにも」
「ま、魔王アシュタロト!?」
そう言うや、巨大な竜の身体がするすると縮み厳つい大男の姿へ変わった。
ノエル女王は、俺の服を掴んで少し震えている。
「ここに居たのか、高月マコト」
「ああ、厄災の魔女の魅了を逃れるためにね。そっちも無事だったんだな」
「私を除いて古竜族は全員、ネヴィアの魅了にやられた。どうしたものかと思っていたが……、これは何事だ?」
古竜の王の視線の先は勿論、海面から突き出している神獣の巨体だ。
もっとも今は静止しており、巨大な壁のようにしか見えないが。
「僕が月をこの星に堕とそうとしているから、それをリヴァイアサンが慌てて防ぎに来たのさ」
答えたのは月の女神様だった。
「貴様、……いや貴方様は」
「僕は月の女神だ。にしても竜の神の末裔くん。全ての生物が逃げ出しているこの場所へ、わざわざやってくるとは随分と命知らずだね」
「初にお目にかかります、月の女神様」
古竜の王は、ニャル様の言葉に動じず頭を下げた。
毎度思うに、魔王なのに神様には礼儀正しいよな、古竜の王さんは。
なんて思っていると。
「高月マコト! 貴様はアレに挑むつもりなのだな!」
ぐわっと、歯をむき出しにしてこちらを振り向く古竜の王。
え? 怒っているの?
「一応、神獣リヴァイアサンの背にある海底神殿を目指す予定だよ」
「私にも手伝わせろ! 嫌とは言うまいな!」
まさかの手助けの申し出だった。
返事は決まっている。
「勿論、とても助かります」
「ふふふ……まさか、神獣に挑む機会が得られようとは、無駄に長く生きたかいがあった! 私の生は今日のためにあった! はははははっ!」
古竜の王は、楽しそうだ。
どうやらさっきの表情は、喜びの表情だったらしい。
「ノアくんの使徒も中々のものだけど、こっちの竜の神の末裔くんもクレイジーだね」
そう言う月の女神様も「面白くなってきた」と言いたげな表情だった。
ただ一人、この状況についてこれていない人は……。
「えっ? えっと……え……、ちょっと、私の頭では理解が………………あぁ」
ノエル女王が再び気を失ってしまった。
……勝手に色々話を進めすぎて、悪いことをしたかもしれない。











