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ネコは大事だが歌うたいはそうでもない  作者: ヤマノ ミィオ
35/95

(35)ジョンの話

35.

「なんてことだ」ぼくは思わず、いった。

「なんてこともない」サフソルムは答えた。

「なんてことあるさ。そうだよ、マグナスの彼女はどうなったんだ?」

「……彼は妻のことが分からず、戻ることを拒否した」

「なんだって?」

「記憶がなかったからな。イェンドート様のおっしゃることの意味が分からなかった」

「泣きたい気持ちだ。ぼくが代わりに泣きたいくらいだよ。今、ここで!」

「歌うたいに泣いてもらったところで一つも解決はせぬだろうな。彼は意味が分からないままに、面倒なことを言付かったものだとすら思いながら用意された特別な馬で妻のもとへ向かった。馬は道を知っていた。そのときの彼にとっては、戦いの場に出ることや宮殿での暮らし以外に大事なことがあるとは思えなかった。自分の体ひとつとっても、自らの心ひとつとっても、これ以上になく完璧で、強くて、何者にも劣ることはないと思っていた。

 馬に連れられてきた場所は田舎にある街の、一軒の小さな家だった。小さな庭を通り、入口の扉を押した。鍵がかかっていて、家にも誰かがいる気配はなかった。彼は入るのを諦め、背を向けた。そのとき小さく掛け金が外れる音がした。家に入ると、テーブルと椅子が目に入った。誰もいないと思っていたのに、椅子に女性が座っていた。入ってきた彼に驚いて立ち上がり、目をうるませて彼を見つめていたが、そのまま彼女は消えてしまった」

「なんてことだ」ぼくはまた思わずいった。

「なんてこともない」ネコが答えた。

「なんてことあるさ……」

「彼は彼女が消えた場所まで駆け寄ったが、どうすることもできなかった。改めて家のなかを見ると、長い間人が住んでいたようには見えなかった。彼は自分の入ってきた扉を振り返ると小さな白い鳩がこちらを覗いているのに気が付いた。鳩は彼が外に出てくると、今度は庭先の木にとまり、彼をどんどん外に連れ出した。鳩の後を追いかけていくうちに、彼はある墓地についた」

「なんてことだ」消え入りそうな声しか出なかったが、またそう繰り返した。

「なんてこともない」ネコが同じように答えた。

「ああ……、なんてことあるよ。なんてことあるだろう?」

「なんてことあるかもしれぬ」ネコが素直にいった。「彼は導かれるように一つの墓地の前に立った。永遠に何も思い出さずに立ち去ることもできただろう。でも彼はそこにひざまずいた。心から何かがあふれてきそうだった。考えることをやめて、心を空っぽにした。まず思い出したのは以前自分は楽しい気持ちでいたということだった。誰かを愛する心や興味のあること、心が惹かれることに素直になって思うがままに動いていたということ。それを思い出したのだ。そのあとは彼女と過ごした時間とそのときの気持ちを思い出した。それに羽根が生えていて自由に飛び回っていたことを思い出した。彼の目から涙が滲んでくるまでに時間はかからなかった。しかし涙が落ちる前に、彼の頬に何かがそっと触れるのを感じた。すぐに彼はそれが彼女だとわかった。天から光が差したように思い、上を見あげた。すると何人もの羽根を持つ者たちが彼女を支え、寄り添いながら上へ上へとのぼっていくのを見た。

 彼はついに自分を取り戻した。記憶を取り戻しただけではない。自分の強さとは剣をふるうことではない。他を認め、誰かを愛し、自分の本当の心を持ったまま生きることである」

「なんていっていいのかわからないよ」

「特に何もいわなくてよいのだ、歌うたい」

 ぼくは目頭を服の袖で押さえたあと、手持ちの布をだして鼻をかんだ。「それで、どうなったんだい? マグナスは」

「彼は再び宮殿へと戻った。彼は剣を返そうとした。しかしそれは許されず、イェンドート様たちの手足となる仕事を与えられることになった」

「寵愛を受けているってそういうことかい?」

 ぼくの問いにネコは返事をしなかった。「彼は悲しむこと、自分に腹を立てること、自らを恥と思うこと、それらすべてを呑み込み、表に出すことをせず、おのれの腹に抱えたまま生きることにした。それはだがしかし、心を使わず、優しさを持たずに生きるという意味ではないのだ」

「ぼくにはできないことだ」

「当然だろうな」ネコは静かにうなずいた。

「ひとつ聞いてもいいかい? これはマグナスが元々住んでいた世界から罰を受けたということだったのだろうか」

「分からぬ。それは誰にも分からぬことなのだ。……見るがいい」サフソルムが隣のソファを見るように促した。「アリステアが寝息をたてている」

 確かにアリステアはいつの間にかイーバに寄りかかってすやすやと寝息をたてていた。

 サフソルムが静かにいった。「重い歌うたいを乗せて走ってきたのだから当然だろう。続きはまた明日にしよう」

 お付きの者たちがアリステアを起こさないようにそっと抱えて去っていった。サフソルムがそれに続いて、イーバも去っていった。

 ぼくはひとり静かに夜空に浮かぶ無数の星を眺めた。立ち上がる気は起きなくて、しばらくはこのまま星を眺めていることにした。

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