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黒の吸血鬼

 扉を抜けると、眩い朝の光がふたりを包み込んだ。

「っ……!」

 視界一面に広がる宝石のような日の光が目を刺す。光に目を慣らす訓練はしたし、日光を遮断する薬も塗っているのに、日に当たった部分がジリジリと焼けつくようだ。

 ――これが〝眩しい〟……。

 ただの記号にすぎなかった言葉が、ハッキリと意味を持って刻まれる。それは熱した鉄のように熱く、それでいて跳ねるような感覚だった。

 やっと目が慣れ、見ることができた景色に、イスティーは息を呑んだ。外はどこまでも広く、果てが無い。

 赤茶けた荒野には見渡す限り建物は無く、ポツポツと乾いた木々だけが点在していた。水平線が、わずかに弧を描いていることを初めて知った。空は心までも染めるような鮮やかな青色で、微妙な陰影を持つ雲がいくつも泳いでいる。太陽は今まで見たどんな宝石とも違う輝きを放っていて、塔の天窓から見た月より何倍も眩い。

「なにを見ているのですか?」

「空。それに、太陽。本でしか見たこと無かった……日の光は、こんなにも肌で感じられるものだったのね。綺麗……」

「そうですね」

 イスティーは後ろに立つコハクを振り返った。イスティーの言葉に同意したものの、琥珀色の瞳にはなんの感慨も浮かんでいない。

「私の言うことをなんでも肯定しなくていいから。綺麗だと思わないなら、嘘を吐かないで」

 そう言うと、コハクはほんの少しだけ眉を下げた。

「すみません……よくわからなくて」

「まあ、記憶喪失だからね。しょうがないか」

 イスティーは小さく笑った。

「でも、少しだけ、わかる気がします」

「もう、嘘吐かなくていいってば」

「嘘じゃなくて……本当に、とても綺麗だと思います」

 琥珀色の瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめている。

「……私は、太陽のことを言ってるのよ」

「吸血鬼は、太陽よりも月のほうが好きです」

 イスティーは恥ずかしくなって、月色の髪を押さえた。コハクから顔を背けた拍子に、今まで暮らしていた吸血都市が目に入った。

 あれほど冷たく、底知れぬ暗さを持っていたグローディアは、日の元で見るとただの人間の都市のようだった。砂色の城壁から飛び出た豪奢な城と、城に寄り添うように立つ塔をしばらく見つめてから、イスティーはコハクに目を戻した。

「とにかく……。地図があるから、それを頼りに進みましょう。東の方角に、二日ほどで街があるらしい」

「はい」

「追って来られないように、日が暮れる前にできるだけ歩こうね。体力はあまり無いけど、足手纏いにはならないから」

 イスティーは砂色の外壁に背を向けると、荒野へと歩き出した。振り返った時には、もう都市は砂にかき消されて見えなくなっていた。


† † †


 何時間歩いただろうか。

 足が棒のように重くなってきたころ、ふたりは旅の一座と巡り合った。地味な色の外套を被った20人前後の集団だ。

 ふたりきりで荒野を歩く若い男女に、最初は訝しげな目を向けられたが、交渉の末天幕のひとつを貸りることができた。

 コハクと共に天幕に入ったイスティーは、紫色の布の上に身体を投げ出した。

「疲れたぁ……」

「そうですね。足が壊れそうです」

 コハクも同じように座り込んだ。イスティーほど疲れている様子は無く、弱音を吐きつつも声に疲労は滲んでいない。

 イスティーは、背負っていた袋の中からを水の入った壺を取り出した。貴重な水分だが、今回ばかりは我慢できずにゴクゴクと飲む。

「コハクも疲れたでしょう。持ってきた分と、すこし食料を分けてもらった分があるから、一緒に食べよう」

 袋からパンを取り出し、コハクに渡したあとでそれに齧りついた。硬く乾いているが、疲れ切った身体には十分な栄養となる。

 あっという間にパンを食べきったイスティーと違い、コハクはパンを見つめたまま黙っている。

「食べないの、コハク?」

 問いかけると、コハクは表情を変えないまま頭を下げた。

「申し訳ありません。イスティー様に差し出された物を口にしないなど、傲慢が過ぎていました」

「ちょ、ちょっと待って! どういうこと?」

 噛み合わない会話にイスティーが戸惑うと、コハクが表情をわずかに怪訝そうなものに変えた。

「吸血鬼にとって、人間の食事は栄養となりません。むしろ、毒と言ってもいいくらいです。吸血鬼に必要なのは、人間の血だけです」

「え?」

 イスティーはポカンと目を見開いた。てっきり、血も普通の食事も食べられるのだと思っていた。塔でも、イスティーが食していたのはパンやスープなどといったものだ。

 ――どういうこと?

 イスティーは困惑しながら、自らの歯に触れた。

 華奢だが、皮膚など容易に切り裂ける。人間はこんな牙は持っていないはずだ。だが、吸血鬼だとしたらなぜ人間の食事をとれるのだろう。

 ――私は、なに……?

 イスティーは手をギュッと握りしめた。

 自分という存在がわからない。それが、地面がグラリと揺らぐほど不安だった。

「それにしても」

 このままでは心が冷たいほうへ傾いていきそうで、イスティーは話題を変えた。

「本当になにも覚えてないの? 過去のこととか、どうしてあそこにいたのかとか」

「過去のこと……」

 コハクは霧がかかったような声で呟き、視線を宙に彷徨わせた。

「僕は……。暗くて、冷たくて、誰もいないところにいました。――生まれた時からずっと……」

「暗いところ?」

「それで……それで、僕はそこから逃げて……気づいたらあそこに」

 イスティーは、コハクの話に胸を打たれた。

 ――私と一緒だ。

 イスティーのいた塔も、暗く孤独な場所だった。誰もいなかったわけではないが、イスティーの周りにいたのは、イスティーを傷つけようとする相手だけだった。

「これ以上は、無理に思い出そうとしなくていいよ。教えてくれてありがとう」

「……あの」

 笑って首を振ると、コハクが視線を向けてきた。

「イスティー様のことも、教えてくれませんか? なぜ、都市から出ようとしたのですか」

「それは……」

 話すべきだろうか。

 けれど、あの男にされたことを話せば、失望されるかもしれない。イスティーは自分を導く主などではなく、ただのか弱い少女であると。

 言葉を紡げないままでいると、コハクが切実な声で謝った。

「くだらない質問をしてしまって、申し訳ありません。ただ、イスティー様のことを知りたくて……」

「謝らないでよ。コハクが信用できなくて黙ったんじゃないから」

「イスティー様が僕を信用などする必要はありません。ただ奴隷として、使ってくだされば僕はそれで満足なのです」

 そう言って視線を下げるコハクに、ジワジワと罪悪感が湧いてきた。自分はおそらくまだ成人もしていない、しかも記憶を失っている少年に血を吸わせ、奴隷にしたのだ。

 謝罪の言葉が口から出ようとしたが、謝るのは違う気がした。自分の判断でコハクを旅に同行させたのだ。謝るのは、ここまで着いてきてくれたコハクを蔑ろにするのと同じだ。

「そう。わかった、コハクがそれで満足なら、私も好きにするわ」

 イスティーはあえて高慢な話し方をした。弱い自分は捨てなければならない。冷酷な、復讐者にならなくては。

「でも、勘違いしないで。コハクがすこしくらい自分を見せたって、私はいちいち気に留めたりしない。それくらい好きにしなさい」

 イスティーの言葉に、コハクは半眼気味の目を大きくした。

「では……イスティー様、教えてほしいのです。さっきから、ずっとよくわからない感情が生まれるてくるのです。温かいような、もどかしいような……。太陽の光を浴びて輝くあなたの横顔を見たとき、全身が心臓になったように脈打ちました。なにか熱いものが噴き出したようでした。――これは、いったいなんなんですか?」

 無意識にか、コハクは布に手をつき、距離を縮めてきた。遠慮深げに伏せられていた瞳が、戸惑うような光をたたえてこちらを見つめている。

 コハクの言葉を聞いているうちに、同じように熱い感情が生まれてくる気がした。

「それは……」

 答えようとした時だった。

 ツンと鼻につく匂いが漂った。酸っぱいような、腐った果実を連想させる匂い。

「イスティー様、これは……」

 コハクも硬い表情になった。これは――

「――まさか、吸血鬼の血?」

 あまりにも濃厚な匂いだった。まるで大量の吸血鬼を殺し、全身にその血を浴びたような。

「吸血鬼の気配がします。イスティー様はここで待っていてください。探りに行きます」

「ううん、私も行く」

 ゾクリと震える身体をごまかして立ち上がった。記憶の無いコハクひとりで行かせることはできない。それに、相手が吸血鬼ならば、隷属させることもできる。

 天幕をくぐると、冷たい空気が肌を覆った。藍色の夜空に、砕いた宝石のような星々が散らばっている。

 しかし、その景色に見とれている暇は無かった。旅の一座に気づかれぬよう、足音を殺して乾いた土の上を走り、匂いのするほうへ向かう。降り注ぐ月光が煌々と辺りを照らしていた。

 まるで舞台の照明のような清らかな光のなか――フラフラと今にも倒れそうな足取りで、黒髪の青年が歩いていた。

 革のベストに、紐付きのブーツはどちらも血塗れだ。武器などは持っているようには見えない。

「あれは……」

「傷を負ってる? けど、それだけにしては匂いが強すぎるよね」

 野良吸血鬼、という言葉を思い出した。

 吸血鬼のすべてが都市に住んでいるわけではない。人間の街に潜んでいたり、森に隠れ住んでいる吸血鬼たちを、野良と呼ぶの

だ。

 イスティーと同じように都市から逃げてきたという可能性もある。

 もしくは、追放されたか。

「放っておいたらなにをするかわかりません。今すぐ殺しておいたほうがいいのでは」

「コハク」

 危険な発言をするコハクを諌めた時、青年がフラリと地面に倒れ込んだ。イスティーは、警戒しつつもゆっくりと近づいてみた。

 仰向けに倒れた青年が、血塗れの手で乾いた土に爪を立てながら、こちらを睨む。その瞳を、イスティーはハッキリと見た。

 炎のような憎悪を宿す、黒曜石のような鋭い瞳。

 ただ見つめ返すことしかできないでいると、やがて怒りの炎が揺らぎ、ふっと消えた。青年の身体から力が抜け、黒曜石の瞳が閉じられる。

「……どうしよう、コハク」

「殺して、早く始末したほうがいいです。吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)でも来たら危険です」

「でも……事情も分からないんだし、まずは手当てをしたほうがいいんじゃ」

「ですが、この男が危険でないという保証はありません」

 少し拗ねたような口調で言われ、イスティーは黙り込んだ。もしこの青年が吸血鬼殺しであるとするならば、意識が戻った瞬間にイスティーやコハクを襲うかもしれない。

「だったら、彼も隷属させる」

 イスティーは腕をまくった。露わになった腕を傷つけようとする。

「ですが……!」

「見て」

 イスティーはコハクの言葉を遮り、青年の首を指差した。首筋から鎖骨にかけて走る、赤黒い亀裂。はだけた胸にも数えきれないほどの傷がある。

「この傷。紙一重で避けてる。ほら、ここも……。少しでもずれていれば死んでいた。彼は相当な実力者だと思う」

 戦いのことなどよくわからないが、青年が強いというのは間違っていないだろう。これほどの傷を負ったうえで、ここまで走ってきた生命力がなによりの証拠だ。

「彼は、救う価値のある相手。彼を手に入れられれば、きっと……」

 脳裏に甦った憎い男の顔を打ち消し、イスティーは倒れている青年の口元に傷つけた腕を近づける。しかし、青年の牙が突き立てられることは無い。

 たとえ気絶していても、イスティーの血の匂いを嗅げば吸いたくて堪らなくなるはずなのに。

「どういうこと?」

 呟いてコハクに視線を向ける。手伝ってくれることを期待したが、苛立ったように青年の顔を見つめているだけで、協力はしてくれないようだ。

 途方に暮れかけた時、傷が服に擦れたのだろう、青年が呻き声をあげた。その途端、口が開いたので、咄嗟に手首を差し入れる。

「きゃっ」

 その途端。青年がイスティーに覆い被さってきた。目が覚めたのかと思ったが、違う。目蓋を閉じたまま、獣のようにイスティーを貪る。手首から流れる血を乱暴に舐め取り、手探りするようにイスティーの身体に手を這わすと、辿り着いた首筋に思いきり牙を突き立てる。

「あっ……」

「……やめてくれ、やめろ……!」

 痛みに視界がチカチカと弾けるなか、掠れた声が届いた。青年に引っ張られ露出した肩に、温かい水滴が滴った。

「……泣いて、るの?」

「返せ……母さん、父さん」

 身を切るような慟哭はそこで終わった。青年は浮かびかけた理性を再び狂気の底に沈め、イスティーを貪った。

 血管を空にする勢いで血を吸うと、それでも足りないというように今度は二の腕に噛みつく。遠慮もなにも無い乱暴さに、イスティーは悲鳴を上げた。

「コハク……た、助けてっ」

 コハクは助けるべきか悩んでいるようだが、青年の舌が右手の甲――昨日自分が吸血した場所を舐めたのを見て、即座に青年を羽交い絞めにした。獣のような抵抗を見せた青年だが、やはり怪我人。わずかな時間で抵抗は終わり、再びグッタリと動かなくなった。

 イスティーは地面に手をついて身を起こす。青年が、穏やかとは言えないまでも正常な顔色に戻ったことを確認し、ホッと息を吐く。

「これで、彼は私の奴隷になった。コハク、天幕まで運ぶのを手伝って」

「……わかりました」

 不満そうなコハクと共に、イスティーは青年を天幕まで運んだ。


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