プロローグ
イスティーは塔の螺旋階段を駆け下りた。
硬い石でできた階段を、華奢なヒールを履いた足が叩く。生まれてから十七年、運動などほとんどできなかったが、身体はそれなりに俊敏に動いた。普通より劣るとはいえ、イスティーも吸血鬼のひとりだ。
――復讐してやる。絶対に……。
荒い息を吐きながら、イスティーは心の中で繰り返し呟いた。脳裏に〝あの男〟の、黄金に輝く二対の目が浮かびあがる。
イスティーの血には、特殊な力が宿っていた。
イスティーの血を吸った吸血鬼は、みなイスティーの虜となり、どんな命令も聞くようになるのだ。
そんな力のせいで、生まれたときから王城に隣接する塔の最上階に閉じ込められ、何度も血を搾り取られた。そして、そのあとには必ず、〝あの男〟に嬲られた。肌を撫で回す骨張った手の感触や、無理矢理に唇を奪われる屈辱は、イスティーの心に深く刻み込まれている。
――おまえの血は、悪魔をも惑わす美酒のようだ。
ふいに〝あの男〟の声が蘇った。ゾクリと背筋を震わせ、イスティーは走る速度を上げた。
今は朝。吸血鬼が眠りにつく時刻。なにも心配などいらない。
自分に言い聞かせながら塔の一階まで下り、辺りを見回す。
塔の一階は、円形の礼拝堂のような空間だった。最後に見たのはいつだっただろう。中央に、逆十字を背負った女神像が立っている。
この塔に、出口はない。通り道と言えば、最上階のイスティーの部屋から王城に続く渡り廊下だけだが、その扉は固く施錠されており、鍵は常に〝あの男〟が持っていた。
イスティーは、ざらざらした灰色の石でできた壁に近寄った。女神像の影になっている部分を押すと、石はゴトリと向こう側に落ち、四角形の穴ができた。逃亡の協力者にこっそりと開けさせておいたものだ。
イスティーは白いドレスが汚れるのも構わず、穴に頭を突っ込んだ。胸が引っかかるが、布が破れるのを覚悟で何とか通り抜ける。
「暗い……」
塔の外には、冷たい闇が広がっていた。
吸血都市グローディアには、夜明けが無い。光を殺す魔術が都市を支配しているからだ。だから外界では明け方に近いこの時刻でも、目に映るのは灰色で描かれる、ぼんやりとした家々の屋根の輪郭のみだ。
目が慣れるのも待たず、イスティーは城に背を向けて走り出した。
城を囲む木々をくぐり、慎重に斜面を下る。広場や大きな建物を避け、路地を駆けると、やがて城壁に辿り着く。協力者によれば、この壁の一部分に隠し扉があるらしい。
荒い石壁に目を走らせ、赤く丸印がつけられた石を見つけると、イスティーはそれを軽く押した。すると、隣の石がまるで取っ手のように飛び出してくる。偽装された扉らしい。よくよく見れば、長方形の形にうっすらと切れ目が入っていた。
――これで、やっと私は、この都市から逃げられるんだ……。
手が震える。これから、生まれて初めて都市を出るのだ。イスティーは何度も繰り返し読んだ本の挿絵を思い出した。降り注ぐ太陽。明るい想像が、背筋を駆け上がってくる不安や緊張をかき消した。
心を決め、扉を開けようとした時。
「……っ!」
視線を感じて、イスティーは勢いよく振り返った。
感情のない、蜂蜜のような色の目。路地の影から、華奢な少年がボンヤリとこちらに視線を投げかけている。
――きっと不審に思われてる。捕まったら、あの城に連れ戻される……!
扉を開けて逃げるべきか、一旦この場から離れるべきか決めかねているうちに少年に近づかれ、手首を掴まれた。
「放してっ」
「……なにをしようとしているんですか?」
抑揚の無い口調で少年が問いかけてくる。
イスティーとそう変わらない背丈の少年だ。歳はイスティーのひとつ、ふたつ下だろうか。
柔らかそうな茶色の髪。暗闇に白く浮かび上がる滑らかな輪郭や、線の細い体格から中性的な印象を受ける。暗い色のズボンと上質そうな白シャツに、黒い外套を重ねている。胸元には赤いリボンタイ。まるで本の挿絵にあった貴族学校の少年のようだ。
「それは……」
答えに詰まっていると、少年の手がゆっくりとイスティーの首に絡んだ。力は込められていないが、唐突な行動とその指の冷たさに、身体が震えそうになる。
いや、冷たさのせいではない。虹彩までハッキリと見える距離にある少年の瞳が、深い沼のように虚ろだったからだ。
その奥にある感情や性格が、まったく見通せない。
――この都市の吸血鬼は、ほとんどあいつに支配されてる。多分説得は無駄だ。どうすれば……
混乱に覆われつつある視界に、チカリと光が瞬いた。一瞬の躊躇を振り切って、イスティーは自らの手の甲に牙を突き立てた。
「――飲んで」
溢れ出した血を、少年に見せつけるように近づける。
「私の血」
自分ではわからないが、イスティーの血は、一度嗅いだら吸わずにはいられない甘い香りを放っているのだという。
少年の瞳がほんのかすかに見開かれる。その瞳の奥で、欲望の気配が揺れるのを感じる。
蜂蜜色の虹彩に映る自分と目が合った時、腕を持ち上げられ、手の甲に生温かい感触が生まれた。鋭い痛みが走り、ピクリと手が震える。少年はさらに牙を突き立てると、血を吸ってきた。温かな蜜を流し込まれたように身体がくらくらする。
少年は最上級のワインを味わうように口を動かすと、溢れ出る血を林檎のように赤い舌で舐め取った。
長い時間をかけて吸血を終えると、少年は顔を上げ、熱のこもった瞳でイスティーを見つめた。
「……名前は」
あどけなさの残る声が紡がれる。
「名前はなんというのですか」
「イスティー」
「――イスティー様」
少年が睦言でも囁くようにイスティーの名を紡ぐと、どこか虚ろだった瞳が花開くように輝いた。
「あなたが、僕を支配してくださるのですか?」
トロリとした瞳。隷属が完了したのだ。イスティーはホッと胸を撫で下ろした。
「うん。……私と会ったことは誰にも言わないで。家に帰って、このことは忘れて?」
目を合わせて言う。これで終わった……と安堵したイスティーの思いと裏腹に、少年は痛みを感じたような表情になった。
「家……?」
「そう、家に帰るの」
「でも……僕には、帰る場所なんてありません」
「え?」
「覚えていないのです。どうしてここにいるのかも――自分の名前も、なにも……」
イスティーは目を見開いた。
「記憶が無いの?」
「はい」
「なら、どうしてこんなところに……でも、それならなおさら私と話してる場合じゃないわ。夜になれば他の吸血鬼たちも起きてくるはずだから、きっとあなたのことを知ってる人に会えると思う」
少年は首を振った。
「あなたはここから出て行くのでしょう? 僕は決して邪魔しません。役に立ちます。僕を置いていかないでください」
淡々とした口調ながらも必死に言い募る少年に、イスティーは悩んだ。
――ひとりよりも、ふたりのほうが安全かもしれない。女一人で都市の外に出るのは不安だったし……。
だが、自分よりも年下の記憶喪失の男の子を、連れて行っていいのだろうか。イスティーの血は、吸血鬼の性格を変えてしまう強力なものだ。その力で洗脳したこの少年を、都合のいいように扱っていいのか……。
躊躇する頭とは裏腹に、心臓はどきどきと高鳴っていた。〝あの男〟以外の他人と触れ合うことなどほとんど無かったのだ。
たとえ血の力による台詞でも、慕われ、求められることは、思わず笑みを浮かべてしまうほどに嬉しいことだった。
「……本当にいいの?」
イスティーは迷った末、声を発した。
「はい」
「都市の外には、危険なこともたくさんある。それでも、私に着いてきてくれるなら……」
「どこまでも、ついていきます。あなただけのために」
少年は、陶酔したような掠れ声で言った。
「だから……もし、あなたが僕を求めてくださるなら――僕に、名前を付けてください」
「名前?」
イスティーは、彼の瞳をジッと見つめた。とろりと深い、蜂蜜色の瞳。東洋の宝石の図鑑に、よく似た宝石が載っていた。
「いいわ。……あなたに名前をあげる」
少年が頭を垂れる。紅色の唇がイスティーの手の甲に触れた。
「あなたの名前は、コハク」
顔を上げた少年の瞳が歓喜に揺れる。
「ありがとうございます、イスティー様」
イスティーは石の取っ手に手をかけ、もう一方の手をコハクに差し出した。
「行こう、コハク」
差し出した手に、コハクの手が重ねられた。