カラッパ、それは踊るカニ。
「やったわ、やっと、やっと手に入ったわ。やった~!」
ある一人の女が、レジの前で、お札を店員に渡した後、大声を上げながらガッツポーズを決めていたのだ。
「水槽よし、人工海水の素よし、エアレーションよし、濾過器よし、砂利よし。そんでもってメインのカラッパちゃん!」
エアレーションとは、空気ポンプみたいなもので、水槽の中に不足しがちな酸素を送るためのものである。
人工海水の素というのは、海水と同等の成分の水を作るための素である。人工海水は、作り方間違えるとそこで飼う生き物は確実にお亡くなりになるので、きっちりと調べておくこと。
水道水使うなら塩素中和剤入れる必要があるとか、人工海水の素に初めから塩素中和剤入りのものがあるとか、水温の調整の仕方とか。作成時に比重計などの道具がないときついとか。
めんどくさいても、きっちりやるべき。
なお、カラッパの場合、水温は20度から23度くらいを保ってやる必要がある。夏場は特に注意。
砂利とは、水槽の底に敷く小石や砂である。カラッパの場合、砂に潜る習性があるため、粒がある程度細かい砂利を、潜れる程度の深さ底に積み上げておくといい。
声を出しながら買い物リストのチェックを始めたやたらテンションが高い女を見て店員はドン引きしつつ、「どうぞ……20円のお釣りです……」と、彼女にレシートと共にお釣りを渡す。
そして、彼女は、年に合わない、スキップで、その場を後にした。女は20代のOL。日曜日である今日が終わると、明日からまた仕事である。女は自身の癒しのためにカラッパを飼い始めることにしたのだ。
春先だから頭が湧いたというわけではないのである。
尚、このときは道具だけで、カラッパ本体は、お金を先払いして取り置きして貰っているだけである。というのも、水槽にカラッパを住ませられる環境にするまでに、今から凡そ一ヶ月程度は掛かるからだ。
立ち上げという、飼育する生き物の排出由来のアンモニアや亜硝酸といった毒物を無毒化してくれる硝化バクテリアの、水槽内への十分な量の確保の工程が必要だからだ。
彼女は店員にもしや、と指摘されそれを知り、まずはそこから始めることにしたのだ。店側がカラッパを取り置いてくれている水槽から水と砂利を貰って。立ち上げ用に、アンモニア生産役として金魚を一匹オマケしてもらって。
そして、それと並行し、どうやら飼育関係の仕入れた知識がガバガバ過ぎるようであると分かり、アクアショップで数日に一回のペースで訪れて、店員さんに話に付き合わせ、色々な穴を塞いでいきつつ、立ち上げを順調に進めていった。
そして、一か月後。
アクアショップにカラッパを引き取りに行って、不安が少しばかり、いや、結構あったから、店員に自宅まで来て貰い、飼育の為の環境に不備が無いか確認して貰い、店員が帰ったところである。
、水槽用の棚の上に置いたセッティングが終わった水槽にちょうどカラッパを入れ、器用に泳ぐカラッパの様子を見ているところだった。
『前から興味があった海のいきもの。何か一匹飼ってみたいと思ってたのよね。どうせなら珍しいやつ、どうせならかわいいやつ。で、目をつけたのがこの子。』
ネットで飼う生き物の候補を探しているとき、見つけたのがカラッパだったのだ。あるサイトに乗っていた写真に女は釘付けになった。
まるでボールのような外見。甲羅が半円状。両手を、まるでボクサーのガッチガチのガードみたいに胸の前で置いたようにしており、正面や真上から見ると、本当に真ん丸。
そして、最後に書いてある一文が決め手になったのだ。
【踊るカニとして知られています。】
あらかじめ調べておいてよかった、と女は胸を撫で下ろす。
水槽はカラッパとともにアクアショップで。水槽用の棚は調べてネットで買っておいたものだった。
普通の家具としての棚とかだと、水槽の重みに耐えきれなかったりする。そうなると、水槽は壊れ、中のペットもお亡くなりに。
それだけでは済まない場合もある。漏れでた水による漏電や火災の発生、マンションなどの場合は、下の階への浸水など。
女が用意した水槽は、縦30cm横60cm高さ36cm。俗に言う、60cm規格水槽というものである。水槽用の棚を買った地点でこのサイズのものを買うと決めていたのだ。
この規格の水槽はサイズの割に安く、周辺機器が充実している。熱帯魚を飼うにもお勧めである。
『町中のアクアショップを廻って、最後の一軒でやっと手に入れたカラッパちゃん。それも、私のほしかったトラフカラッパどんぴしゃ!』
トラフカラッパは、カラッパの一種である。
【トラフカラッパ 甲幅5cm 1980円】
女はその表示を見て、即買うことを決めたのだ。そして、店の中で大はしゃぎだったのだ。
「餌はアサリ。スーパーで買ってきた、まだ生きているこのアサリを入れると――」
『お~、泳いでキャッチするつもりね、かわいい!』
相撲の四股のような足の動きを八本の足で高速でやるような感じで、落下していくアサリをカラッパは見事キャッチした。見かけによらず器用なのだ。
その様子は、まるでUFOキャッチャーのアーム部分が縦横無尽に泳いでいるような感じに見えなくもなかった。
『さっすがね、カラッパちゃん、かっこいい! お、右手を缶切りのようにつかって、砂利の地面と左手できっちりホールドするのね』
バキッ!
カラッパはあっさりと殻をむしり割り、アサリはカラッパの胃袋へ収められる。
『きれいにじょうずにむけました!!! かわいいっ!』
カラッパが食べるのは基本生き餌のみ。生き餌とは、生きている生き物。つまりカラッパはハンターなのである。長期飼育を考えているなら、生き餌オンリーで飼うことをお勧めします。餌代けっこう掛かるのでご覚悟を。
アサリとかは手に入りやすいのでおすすめ。餌代きついのであれば、クリルと呼ばれる乾燥餌がおすすめ。カラッパ以外にも使えるので。
魚は対象外なので、飼う際に魚をいっしょの水槽で飼うのは可能。
余談ではあるが、巻貝をあげると缶切りっぽい手の動作が際立つので一度は与えてみるのがおすすめ。
しばらくすると、貝殻を投げ捨ててカラッパは歩き出す。
『あら、何かしてくれるのかな?』
女は餌のお礼に何かしてくれるのかと期待しつつ、カラッパの動きを追う。
『ちっちゃくてかわいい足のうえにボールがのっているかんじなのね、かわいい。』
しばらくカラッパを眺めていて、女は思う。
『なんかと似てない、これ?』
そして、少し考えた末、『あ、これファージだわ。』と思い出した。
(↓こんなの)
l^l
Y
ヘ∧l∧ヘ
【ファージ】
《細菌に感染するウイルスの総称。バクテリオファージともいう。その姿は、何か小型の機械っぽくも見える。姿が気になった方は"ファージ"と検索窓に入力して画像検索を。》
「ほ~んと、かっわいいわぁ。」
感想が思わず声に出てしまった女。かわいいは正義なのである。するとカラッパは急に立ち止まった。
すると、――『おどるおどる、』「おどってる?」と、あまりに驚きに女はまた声を上げてびっくりしていた。
8本の足を動かして軽やかに歩く姿は本当に踊っているようなのだから。
『カラッパは踊るらしいときいていたけれど、本当にそうなんだなあ。なんかリズムいいなあ、かわいい。』
あまりのかわいさに、女はその踊りにアフレコしてみた。
「からっぱっぱ、からっぱぱ、からっぱっぱっぱ」
『お、私の声に合わせておどってる、かっわいぃ!』
満面の笑みを浮かべ、「あなたの名前はぱっぱちゃん。これからもよろしくね。」と、女は水槽の表面上部にシールを貼った。ピンクのマーカーで【パッパちゃんのおうち】と書いて。最後にハートマークも付け加えた。
カラッパは女の相手をするのが疲れたのか、土に潜る。ばたばたと、しかし素早く。それを見て、女はまたにやにや笑っているのだった。
夢中になってカラッパの観察をしていたため、もうすっかり夜になっていたのだ。
「パッパちゃん、おやすみ~」と、水槽の前から立ち去り、女も床に就くことにした。
ところが。カラッパは夜行性である。本当は今からがゴールデンタイムであることを女は知らなかったのだ。
夜たまたま目を覚ました女は、やたら元気に動き回るカラッパを見て、そこから寝ずにカラッパをにやにやと観察し、気付いたら朝、それも就業時間ぎりぎりになっていた。
『カラッパちゃん、恐るべし……!』
女はこの日初めて、ノーメイクで出勤することとなったのだった。
カラッパはかわいらしいですが、飼育するのには結構手間のかかる生き物です。一歩間違えればわりとあっさり亡くなってしまいます。
水槽の環境を作るのは絶対にしっかりやらないといけません。本文には詳しく書かれていません。海の生き物を水槽で飼う際には必要な知識ですので、本気で飼いたいと思うなら、自分でしっかりと調べてみることをお勧めします。というか、ちゃんとやらないと、まともに飼えません。
カラッパの飼育は水生生物の飼育の中でも難易度は高いですが、それでも飼ってみたいと思った方は、飼い方をしっかりと調べてからアクアショップに行って、プロのアドバイスを聞いたり、相談してみてください。




