路地裏アリス
命が温かさなんだということを知ったのは、もうすぐ夏だっていうのに、からりと乾いた風が緑の葉を揺らす、とても気持ちのいい朝のことだった。僕はその日もいつものとおり六時に起きて、母さんの焼くパンの香りに包まれながら洗濯物を干し、本の山にうずもれた父さんを救出した。子犬のフリードリヒがミルクを上手に飲むのをなでながら、砂糖をスプーン三杯入れたコーヒーをすすった。その日に予定されていた生物の実験が話題の食卓を七時半に切り上げ、学校に向かった。
うちの前の石畳は上り坂になっていて、僕以外の男子たちは息を切らしながらかけっこをしている。女の子は、そんな男子の様子をくすくす笑いで見送って、自分たちは昨日のラジオでかかっていた、海の向こうの音楽の話に歓声を上げている。僕もそのラジオは聞いていたし、それだけじゃなくて、女の子たちが話している音楽がジャズって呼ばれていることも知っていたけど、知識をひけらかして面倒な奴だと思われるのが嫌なので、後ろからその様子を眺めるだけにする。
何しろ、僕のひいおじいちゃんは、この町を救った英雄なのだ。英雄の子孫は、そんな細かいことにいちいち口を出したりしない。
というのは、半分嘘で、女の子たちの話を聞いた僕の頭は、もうジャズの響きでいっぱいになっている。跳ねるリズムに、ピアノのフレーズが絡みつき、その上を陽気なサックスの響きが踊る。巨大なウッドベースがうねるようなラインを生み出し、ギターのカッティングが鮮やかな輝きを加える。その、魔法のようなアンサンブルを思い出すだけで、僕の足取りは軽くなる。走ることのできない呪われた足が、その時だけは羽でも生えたように自由に感じられた。
でも、調子に乗ってくるくると回っていると、バランスを崩して倒れそうになる。石畳についた手の平が擦りむけて、血がにじんだ。後ろからやってきた別の男子の一団が、彼らもまた競走しながら、僕に大丈夫かと声を掛けて通り過ぎる。手を挙げて平気だと応じた時には、もう遥か彼方で、僕も学校に急がなくてはならない。
手についた砂を払いながら、ふと目を上げると、薄暗い路地から一匹の猫が現れた。この平和な町で、猫なんて珍しくもないのだけれど、そいつは様子が変だった。背中は丸まってるし、うなだれてるみたいに顔は下を向いてるし、足取りはふらついてるし、何より、泥水でもひっかぶったみたいにひどく汚れている。よし、お前の名前はイマヌエルだ。
僕はもちろん、動物にも優しいので、しゃがんでおいでおいでする。フリードリヒを拾ってきた時のことを思い出しながら、相手の警戒を解くために、手に持っていたカバンは置いて、両手を開いて敵意のないことを示す。猫は少しずつ、光の当たる場所へと出てくるが、少しずつその足取りは遅くなり、今にも倒れこみそうだ。僕は慌てて手を差し伸べて、その体を受け止めた。想像していたよりもずっと軽くて、胸がうずいた。太陽に雲がかかったのか、急に辺りが暗くなって、冷えた空気が背中に手を差し入れてきて、体が芯から震える。
視界の端で暗闇がずるりと滑るのが見えた。路地の先だ。もしかすると、イマヌエルのことを知っているかもしれない。いや、イマヌエルがこんな風にされたことに関わっているかもしれない。そして、そんな人がこの町にいるんだとすれば、英雄の曾孫である僕は、それを放っておくわけにはいかない。僕は両手に猫を抱いたまま立ち上がり、闇の中へと一歩踏み出した。
路地は狭く、何が入っているのかわからない木箱や、用途のよくわからない金物の道具類、曲がった鉄パイプや、何も植わっていないプランターなどが放置されていて、物置ともゴミ捨て場ともつかない場所になっている。何度もけつまずきながら、猫を落とさないように捧げ持ち、注意深く足を進める。
すぐに路地裏に出たが、右にも左にも、先程の人影は見えない。それどころか、朝の、これから町が活気づいていく時間帯だっていうのに、そこは絵本で見た世界の終りみたいに、何の生き物の気配もなかった。扉は固く閉ざされ、曇って中が見えない窓にはひびが入り、看板らしき四角い板は何が書かれていたのか読めないほどに黒ずんでいた。イマヌエル、お前はここから逃げてきたのか。小さな猫の顔に耳を近づけて声を聞こうとするが、そいつには語るべき何ものもないようだった。
突然、頭に冷たい滴が降り注いできた。雨だ。さっきまであんなに晴れていたのに。それとも、路地裏だけに発生する雨雲でもあるのだろうか。そう考えたくなるほど、この路地裏は暗くて湿っぽかった。
手の中でイマヌエルが震えている。この上、体を濡らして体温を奪われるようなことになれば、命の危険にさらされるに違いない。さっきの人影を見失ってしまったのであれば、これ以上路地裏にいる意味はない。
「どうしたの。迷ったのかな」
頭上に傘が差し出され、僕は背後に人が立っていることに気が付いた。
「雨に濡れると風邪をひくよ」
振り向こうとするが振り向けない。なぜだろう、その声はイマヌエルの口から聞こえる。
「その猫、ケガをしているね」
さっきの人影とは別人だという気がする。怖さをまるで感じないということが恐怖だ。僕には、もうそれが人間だとは思えなくなっていた。
「そのまままっすぐ歩いて――そう、その家。中に入って。裏口を出ると、そこに動物病院がある。そこでどうにかしてもらいなさい」
僕は魔法にでもかかったみたいに、その言葉通りに裏通りを渡り、どう見ても開きそうになかった扉が勝手に開くのを目の当たりにした。視界の端に傘が見えるので、後ろにはまだいるのだと思うが、振り向くことができないので確かめられない。
家の中には焦げた臭いが充満していて、思わず咳き込む。手の中の猫も同じようにけほけほやっていて、僕はちょっとほっとする。イマヌエルが後ろにいる何者かに乗っ取られたのではないかと思ったのだ。あいかわらずうなだれたままだったが、その反応は紛れもなく命を永らえたことを示している。僕は親指でイマヌエルのほっぺをつついた。
壁と天井だけの部屋を抜けると、光の射さない廊下があって、その先に扉が見える。足元に気を付けながら板張りの廊下を行くと、きいきいと悲鳴のような音がする。イマヌエルに耳を近づけるが、彼の声ではないらしい。両側の壁を見ると、左側には古ぼけたタペストリーがかかっていて、その中では英雄が巨大な竜に立ち向かっていた。
「なあ。その猫、どうするつもりなんだ」
よく見ると、英雄が僕の方を見ている。
「食べるのか。食べないなら、ここに置いて行ってくれよ。何十年も、何百年も、こいつと睨み合ってて、退屈なんだよ」
英雄の言葉に反応して、竜が身じろぎする。真っ黒な瞳からは今にも涙がこぼれそうだ。再びきいきいと床がきしむような音がする。竜の鳴き声らしい。そんなに退屈なら竜と話せばいいのに、と思うけど、英雄が竜と仲良くするわけにいかない、というのも、英雄の曾孫である僕にはよく分かる。僕も、クラスのいじめっ子連中から遊びの誘いを受けた時には、丁重に断るようにしている。
時間の中に取り残された二人を置き去りに廊下を進むと、裏口の脇に、一人の少女がうずくまっていた。それが少女だと思ったのは、長い黒髪をおさげにしていたからだ。僕の周りの大人の女の人は、みんな長い髪を後ろで一つに束ねているだけで、こんな風にきれいに三つ編みにしているのは、時間の有り余っている子供に限られていた。
「時間が有り余っているのは、少女だけじゃないよ」
左右に分けられた前髪の間から覗いた瞳が、僕の心を射抜く。反射的に、僕は頭を下げていた。
「そこの竜だって、もちろんその前に縛り付けられた騎士だって、時間は有り余ってる。といっても、あたしが髪を編んでいるのは、自分の美しさを知っているからだけどね」
老婆の乾いた笑いが、天井に吸い込まれていく。まるで響かないその声に、慌てて周囲を見回す。知らぬ間に、荒野に連れてこられたのかと思ったのだ。
「裏口を抜けて、ここから出ていきたいんだろ。その、なんだ、そいつ、その、けがらわしいやつのために」
肩をすくめる仕草には、本当にこのイマヌエルが嫌なんだという気持ちが込められていたが、小さな動物が嫌なのか、汚れきった姿が嫌なのか、それとも死に瀕している生き物が嫌なのか、それとも、その全てが嫌なのか、よくわからない。ただ、その老婆自身が、小さくて汚くて死にそうだということは、僕にもわかった。かわいそうなハンナ、と小さな声で呼びかけた。
「だったら、そいつの、その、役立たずの足を置いておいき」
役立たずの足――僕の。視野が急に狭くなり、頭の芯が冷たく縮こまっていく。走ることも、遊ぶこともできない、役立たずの。すると、手の中からイマヌエルがこぼれ落ちた。あわてて目を凝らすと、捧げ持った両手の中にまだイマヌエルはいて、ところがその体からは四つの足が抜け落ちてしまっていた。ハンナが僕の足元に取りすがって、四本の足をかき集めている。イマヌエルが上目遣いで僕をにらんでいる。僕はおさげ髪を振り乱して足にむしゃぶりついているハンナをよけて、裏口から外へ出た。
広く張り出した庇にたたきつける雨音は、さっきよりもずっと強く、夏が近いはずの空気は半袖の腕を粟立たせた。目の前に現れた路地は、さっきの裏通りよりもさらに寂れていて、家並みのあちらこちらに闇が煙のように滞っている。こんな場所に動物病院なんて、と思っていると、通りの向かいの窓が開いて、しわだらけの手がおいでおいでした。足を失って大きな毛玉みたいになったイマヌエルは、浅い息をうつろな眼差しに乗せて、その手を見据えている。雨がかからないように胸に抱えて通りを渡り、建物の脇にある、小さな扉をくぐった。
鼻を突く消毒液の臭いに驚いて、玄関にへたり込むと、看護師らしい女性が僕の足を確かめるように手を差し出した。あわてた僕はイマヌエルを差し出す。看護師はイマヌエルの首をつまみあげると、背後の闇に向かって放り投げた。抗議の声を上げようとした僕を人差し指で制すると、看護師は仁王立ちになって僕に言い放った。
「先生が、ちゃんと命を天秤にかけてくれるから、安心して待っていなさい」
しばらくすると、奥から三匹の猫が現れ、僕に頭を下げると、玄関から出て行った。どの猫もイマヌエルではなかった。看護師を見上げると、立ったまま眠っていたので、僕は這うようにして奥の部屋へ向かった。あちらこちらに割れ目の入った木の床のとげが刺さらないように注意して進むと、廊下の端には動物の足やら耳やら、あるいはぬらぬらと赤黒く輝いている何かがたくさん落ちていて、僕は生物の実験のことを思い出した。
「すっかりよくなった。先生は本当に名医だ」
ねずみが一匹、僕の目の前を横切ったので尻尾をつまむと、抗議の目を向けてきた。顔の中心に縫い痕があって、右目と左目が別々に動いている――その右目には見覚えがある。
「せっかく新調した尻尾なんだ。あまり、乱暴しないでくれたまえ」
その瞬間、尻尾は根元からちぎれた。ねずみは顔から床に落ち、自前の左目からは涙が溢れ出した。
「心配することはない。尻尾ぐらい、すぐに生えてくるさ」
廊下の奥から聞こえてきた地響きのような低い声に、つまんだままの尻尾を見ると、それはトカゲのもので、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げるねずみのお尻では、既に新しい尻尾が生まれ始めていた。足音もなく現れた白衣の男は、床に這いつくばったままの僕を見ると、手の中のものを放ってよこした。両手で受け止めると、それは小さなわっかで、路地で見た金属のゴミのように、何に使うかまったくわからない代物だった。
『生きているところだけを残した。連れて帰ってあげなさい』
白衣の男の口から漏れた言葉は、小さなわっかの中からも聞こえた。それはイマヌエルの口だった。よく磨いたスプーンみたいに光沢があって、それが震えると声になるのだ。お礼を言おうと、立ち上がると、男の顔に見覚えがあることに気がついた。それは、あのタペストリーの中の英雄の顔だった。
「それは違う。私は君のひいおじいちゃんだよ」
だとしたら、それは結局のところ同じことだよね。僕はイマヌエルの残骸をポケットに大事にしまうと、ひいおじいちゃんだと言うその男の顔をよく見ようとした。でも、目を凝らせば凝らすほど、男の顔は遠くなり、やがて天井の暗闇に混じりあってしまい、白衣の裾を捕まえた。
「町も時間もつぎはぎばかり。めぐりめぐって誰かの手足」
シャッフルのリズムが流れると、足元のねずみが軽快に回りだし、玄関の看護師も一緒に踊りだした。
「悲しい時間もいつかは終わる。まわりまわって何かの兆し」
男が一回転すると、僕の手からすり抜けた白衣が広がり、壁も天井も、くまなく覆い尽くした。サーカス小屋の天蓋ように僕の周りを包み込んだ白い世界は、消毒液の臭いはそのままに、つぎはぎだらけのぬいぐるみがレビューを始める。ビッグバンドの音楽に乗せて、ゾウの耳のついたクマや、三つ首のキリンや、ウシの柄をしたブタが、縫い合わされた手をそのままに、列を成して足を振り上げている。僕のポケットの中でも、イマヌエルの口がご機嫌なライムを紡ぎだす。
「男と女は次々変わる。愛し愛され不倫の合図」
「子供のかけっこ朝からずっと。どこまで行っても尽きせぬ迷図」
ポケットから出したイマヌエルの口が、朝の日差しを反射して僕の目を射した。目をそらすと、そこには誰かの手が落ちていた。
「ほら、早く行かないと、学校に遅れちゃうよ」
競走をしていた男子の一人が、僕の前にしゃがんで手を差し伸べていた。僕が何の反応も示さないでいると、彼は手を取って立ち上がらせ、道の脇に落ちていたカバンを拾って、僕の手の中に押し付けた。
「ありがとう」
僕に代わってイマヌエルの口が礼を言う。誰なんだろう。クラスメイトなのかもしれない。左手に彼の手の感触が残っている。柔らかくて強くて温かい。右手の中のイマヌエルの口に問いかける。これは何なんだろう。これは一体、何の実験なのだろう。イマヌエルが僕の右手に噛み付く。
「俺はゲオルク。隣のクラスのゲオルクだ。君は、アルトゥルだろ――有名人だ。よろしく」
右手が差し出される。僕はイマヌエルを振り払って手を握った。足元で乾いた音がかすかに響く。二つの手が力強く縫い合わされる。僕はその手に引かれて、学校への道を歩き始めた。
ゲオルク――口の中で繰り返し呼ぶ。ゲオルク。
空には雲ひとつない。うちの前の石畳は上り坂になっていて、それをまっすぐ歩いて行けば、いつかはあの青にたどり着く。その中を登校する子供たちの声は、この町を救った英雄の祝福を受け、陽気なリズムを奏でていた。