花は語らず 聞きもせず
僕には歳が一つ上の姉がいる。
別段、可愛いとか綺麗とか特徴があるわけでも、秀でた才能があるわけでもない彼女。だが底抜けにお人よしで、心配性。子供の頃、夕刻を過ぎても家に帰ってこない僕をいつも探しに駆けずりまわっていたのは母でも父でもなく、姉さんだった。
「怜くん、帰ろう」
そう言って暗くなってしまった夜道を姉さんに手を引かれて帰っていくのが好きだった。もう覚えていないが、僕はそのためにわざと遅くまで帰らなかったのかもしれない。小学校の高学年に上がった頃からはもうそんなこともしなくなっていったが、高校になった今でもあの手のぬくもりは忘れることができない。
今となってはそんな風に一緒に歩くことすらなくなってしまったのだが。
喉の乾きを覚え、飲み物を取りに行こうと部屋を出ると、ダイニングから母さんのヒステリックな金切り声が聞こえた。
ああ、また姉さんが何か不愉快にさせるようなことをしたのだろう。相変わらず学習のしない奴だ。
あの二人に近付きたくはなく、夜も遅かったがわざわざ近くのコンビニにまで飲み物を買いに行くことにした。適当な雑誌でも読んで帰る頃にはほとぼりも冷めているだろう。
そう思っていたのに、家に帰り、部屋に戻ろうとすると部屋のドアの前で姉さんがおどおどして立ちつくしていた。左の頬がわずかに腫れている。また母さんに殴られたのかもしれない。
「何? 何か用?」
不機嫌な声で聞くと、姉さんは肩をびくりと震わせて僕の顔を見る。
「あ……怜君の姿が見えなかったから。あの……もう12時回ってたし」
「だから? 僕もう高校生なんだけど。それぐらい普通だろ」
「でも、もし何かあったら…………ごめん」
睨みつけるように視線を送ると、姉さんはうつむいてしまう。そんな様子に気も止めず、イラつくように部屋に入る。
姉さんもうつむいたまま部屋に入ってくる。本当に何故こんな作りの家を買ったのか知らないが、僕と姉さんの部屋は一緒の空間にある。12畳もの大きな部屋をパーテーションで区切った形で、それぞれの部屋を作ってはいるが、部屋の音は筒抜けでプライバシーも何もあったもんじゃない。さらにドアは一つしかなく、姉さんが自分の部屋に行くには、僕の部屋を通らざるえない。
「怜君、ごめん」
パーテーションを少し開け、自室に入る前に再び姉さんは謝る。
「何が? 悪いと思ってんならもう放っておいてくんない?」
それきり姉さんは何も言わず、部屋に戻って行く。
しばらくすると、姉さんの部屋からすすり泣くような声が聞こえてくる。布団に顔を押しつけているのか、くぐもったようなか細い声。本人は聞こえないようにしているつもりなのかもしれないが、嫌でも聞こえるんだよ。やめてくれ。
色々としたいこともあったが仕方がなく、電気を消す。部屋が繋がっているせいで、消灯すら自分の都合ではできない。
泣き声なんか聞きたくもなくて、布団をかぶるが、それでもか細い声が頭に響く。4年前に父さんが亡くなってから、母さんは何かにつけて姉さんにつらく当たるようになった。そしてその後に自室で泣く姉さん。毎日がそれの繰り返し。本当にもう嫌なんだ。
それがいつ頃だっただろうか、気がつくと姉さんが泣かなくなっていた。別に部屋だけでなく、風呂場とか、誰もいない公園で泣きはらすこともあったので、場所を変えて泣いているのかと思っていたがどうやらそれも違うみたいだった。
いつもは母さんに会わないよう朝早く家を出ていたが、今日は朝連もなく寝坊してしまったので、家族でご飯を食べる羽目になってしまった。
「あら、怜君めずらしい。良かったわ。今日オムレツがすごく綺麗に焼けたから、怜君に食べてもらいたかったの」
母さんは僕の姿を確認すると、にこにこと笑って、俺の前に朝ごはんを並べる。だが、事前に何も言っていないので、僕の分のおかずは作られてはいないわけで、これは恐らく姉さんの分だったのだろう。
その時ドアが開いて、姉さんがダイニングにやってくる。いつもはいない僕の姿を見て少し驚いた様子を見せる。
「小夜、まだいたの。あなたの分の朝ごはんないからね」
「いいよ、別に。適当にパンでも食べるから」
そう言って椅子に座ると、パンにジャムを塗って、食べ始める。母さんの気分で姉さんのご飯の有る無しが決まるのはいつものことなのだろう。慣れたものだ。
「本当に何であなたはまだ家にいるのかしら。早く出ていってくれたらいいのに」
姉さんに向けて辛辣な言葉が投げかけられる。本当に朝からよくやるよ。僕は聞こえない振りをして、箸を進める。
「むしろ何でまだ生きているのかしら? あなたがいなくなってくれればよかったのにねぇ」
母さんの言葉はまだ続く。五万と聞いたセリフだが、飽きずに姉さんは傷ついて、またも涙目になっているのだろうか。ちらりと姉さんの顔を伺うが、意外なことに気に留める様子もなくもくもくと口を動かしている。
母さんの罵倒はまだ続くが、それに耳を傾けている素振りもない。どうしたことか。今まで姉さんはどんな些細な罵倒にすら、律儀に傷ついて、でもその場では泣かないよう耐えて、後で部屋に駆け込んでから泣きだしていた。今の様子は耐えているようにも見えない。本当に母さんの言葉などどうでもいいかのような態度だ。ついにこの姉にも耐性というものができたのだろうか。
どこか少しほっとして姉さんの姿を見ていると、不思議な光景に目がいった。
姉さんの腕から花が咲いていた。
腕といっても制服の上から生えているのだろうか。茎を伸ばし、青い小さな花を咲かせていた。
最初は何かの飾りが付いているのかと思ったが、すぐ横からもう一本茎が伸び初め、つぼみからまた青い花が開花する。そしてそのまま3本、4本と生え続けていく。
その様子に目を離すことができず、息を飲んでいると、7本目の花が開いたところで姉さんが立ちあがった。
「それじゃあ、母さん。学校行ってくるね。怜君もそろそろ食べ終わらないと間に合わないよ」
腕に花を咲かせたまま、姉さんは歩いて外に出て行く。
「ま、待てよ!」
追いかけるように僕も外に飛び出して呼びとめる。
「怜君? どうしたの?」
「なんだよ、その花?」
「はな?」
腕を指し示して尋ねるが、姉さんは首をかしげる。
「だからさっきから咲いてる花だよ!」
「お花? 何かあったの? そういえば、ここしばらく家に花なんて飾ってなかったね。買ってこようか?」
「そうじゃない! そうじゃなくて……」
姉さんにはそれが見えていなのだろうか。苛立つように訳のわからないことを言う僕に、優しく微笑み「それじゃあ、帰りに何か買って来てあげる」と言って前を向いて歩きだす。いつものように意味のない癇癪のようなものだと思っているのだろう。
姉さんが振り向いた時、腕から咲いた花は散り落ち、瞬きをした瞬間にはもう消えていた。
結局、花はあの時だけでなく、今後も咲き続けた。
それは決まって母さんが姉さんにつらく当たっている時。ひどい暴言を口に出すのに呼応するように、姉さんの体から茎が伸び、花を咲かせていく。腕からだけでなく、足からも手からも、決まった場所はないように咲かせる。
花にも決まった種類はなく、色も形も様々な物が咲いていた。僕が花に詳しくはないからだろうが、今まで見たことがない花だった。それはとても綺麗で、見ているとどこか心安らいだ。
だが、やはりそれは僕以外には見えていないようで、姉さんも母さんもそれに言及することはなかった。一時間に及ぶ暴力と罵倒で姉さんの腕から大きな花束ができそうな程の花が咲き誇ったが、二人ともそれが見えている素振りさえ見せないのだから間違いないだろう。
そしてもう一つ不思議なことがある。姉さんが全く泣かなくなっていた。泣かないというよりも、母さんの 罵詈雑言を気にしなくなっていた。
母さんがどんな悪言を姉さんに向けても、姉さんは首をかしげるようにぽかんとするようになった。不思議そうな顔をして母さんの顔を見つめている。
なあ、嘘だろ。まさか聞こえていないとかないよな。
「小夜!」
「なぁに?」
叫ぶように呼ばれ、姉さんは返事する。それを確認して安堵した。耳が聞こえなくなったわけではなさそうだ。だが次に出てきた、汚い言葉には相変わらず戸惑いの表情を浮かべるばかり。母さんはただ罵倒さえできれば満足なので、姉さんの様子に気づいていなさそうだ。
けれどもこれはどう考えてもおかしい。聞こえなくなった罵倒に、咲き続ける花。何か関係があるのかよ。分かんねえ。
姉さんの部屋の真ん中に陣取って座っていると、後から部屋に入ってきた姉さんはいたく驚いたようだった。
「怜君、どうしたの? 何か用事かな?」
最低限、姉さんと関らないようにしていた僕の珍しい行動に、姉さんは当惑した様子で尋ねる。
「聞きたいことがあるんだけど」
そう切り出したものの、何と言っていいか分からず目線を泳がす。
姉さんの部屋はやけに片付いていて、白を基準としたインテリアのせいか寂しい印象がある。
ふと机の上を見ると、一輪の花が飾ってあるのが見えた。最近置きだしたのだろうか。今まではなかったの思ったのに。
「ああ、その花? 最近飾るようになったんだ。怜君が前にお花のこと言ってくれたでしょ。それで買ってこようと思ったんだけど、やっぱり一本あるだけでも部屋が明るくなるね」
僕の視線に気がついたのか、姉さんが嬉しそうに話し出す。
そんな風に僕に笑う姿は久しぶりに見た。
今日はもうこれでいいような気もしてきたが、本来の目的を果たすべく姉さんに問いかける。
「あのさ、あんた母さんの言葉聞こえてないの?」
姉さんがかびくりと肩を震わす。
「言葉? 何言ってるの? 聞こえてるよ」
そう言って不自然に笑う。嘘だ。コイツは嘘をついている。
「嘘つけ。聞こえてないんだろう。そうじゃなきゃ、今までぴーぴー泣いてたくせに、何で平然とするようになったんだよ」
「聞こえてるよ。本当だよ」
眉を下げながら、小さい声で呟く。
「いいから座れば。ちゃんと聞きだすまで、今日は戻らないから」
先程から入口で、困り果てるように突っ立ていた姉さんは壁に沿ってずるずると腰を下ろし、膝を抱えるように小さくなって座った。凝視したままの僕に、観念したかのようにポツリポツリと話し始めた。
「本当に聞こえてる。…………でもね、何て言っているか分からないの」
「はぁ? どういう事だよ」
「母さんが何か言ってるのは分かるよ。けど、最近母さんの言葉にノイズがかかったような雑音が入ってよく聞こえないの。聞こえてもよく意味の分からない言葉だったり」
それで常に戸惑う表情をしていたのか。しかし意味の分からない言葉とはどういう状態なのだろうか。
「あ、でもね、ちゃんと聞こえることもあるし、たまになの。……怜君には変に聞こえることないんだよね。じゃあ、やっぱり私がおかしくなっちゃたのね」
やっぱりと自分で言うからには、何か変なことは気が付いていたようだ。
「別にいいよ、あんな言葉聞く必要ない」
それは事実だ。むしろ聞こえなくなったのは良いことかもしれない。
「でもさ、何で殴られても平然としてるわけ。痛いもんは痛いだろうし、あんだけ喚いてりゃ、あんたに怒ってるってことぐらい分かるだろ」
「怒る……? 母さん、怒ってるの?」
とんでもない事を言い出す姉さんに愕然とする。
「言葉がよく分からなくて、あまり考えてなかったなぁ。そういえば最近、母さんどんな表情してたんだろう」
どこか意識がもうろうとした様子でぼんやりと言う姉さん。事態は思ったより深刻なのかもしれない。それでも、一晩中泣き明かす日が来なくなったのは喜ばしい。
「いいよ、そんなこと考えなくて。聞こえないのは母さんの言葉だけで、日常生活に支障はないんだろ」
ぶっきらぼう言い放つ僕の顔をじっと見つめたかと思うと、ふいに優しく微笑んだ。
「そうね。それにこんなにいっぱい怜君と話せたから、それで満足」
思わずぎょっとしてしまう。いっぱいと言っても、たかが10分程の時間だろう。それでも、それだけの時間すらもいつの間にか話すことが出来なくなってしまっていた。
ただ僕の前で無邪気に笑う姉さんに腹が立った。
「僕は不愉快だ。……嫌いだ……お前なんか嫌いだ。顔も見たくない」
絞り出すような声で姉さんに酷い言葉を投げかける。それを聞いて、どこか呆けたような表情で姉さんは首をかしげる。
かたむけた耳の後ろから一本の茎が伸びて、大きくて真っ赤な花が咲いた。
母さんの言葉だけではなかった。僕の言葉も姉さんに届かなくなっていた。
ある考察が頭の中で立てられた。
あの花はきっと姉さんに向けられた悪意の言葉の権化なのだ。悪言が頭の中に届けられる前に、花として咲かせ散らせていく。そうして自分を守るのだ。
弱い弱い、姉さん。でもいい。そうやって自分で自分を守ってくれ。
それからは何事もなく平穏と過ごせているようだ。
姉さんとは同じ高校なので、嫌でもその様子が目に入る。あの姉は学校では、信じられないほど明るく笑う。暴言癖の母と、無視してくるばかりの弟に囲まれれば笑う暇もないだろうが、家と外のあまり違いに苛立ちを感じる。
それは放課後のこと。僕は部活の最中で、ランニングを終え体育館に戻ってきた時だった。体育館の横で知らない男に付いていく歩く姉さんを見かけて怪訝に思った。姉さんは合唱部で放課後の体育館には縁がない。悪趣味かとも思ったが、気になって、しゃがんで物陰から様子を伺う。
体躯の良い男が、顔を赤らめながら姉さんに向かって何か言っている。まさかの告白ってやつか。姉弟のそんな場面に出会いたくもなかったが、どうしてもその場を離れることができなかった。男が一層大きな声で姉さんに向かって言葉を発する。
「その……俺、好きです。頼りないと思われてるかもしれないけど、1年の時からずっと好きで、……付き合って下さい!」
あまりの緊張にどもってはいるが、案外ストレートな物言いだ。
「あの……ごめんなさい、よく分からなくて」
今まで男に縁のない姉さんだ。どうしていいか分かっていないのだろう。慌てふためくように体を動かし、それでもやんわりとお断りをしているようだった。
「そうか、今まであまり話したこともなかったしな。でも! 今から知ってもらえたら……」
男は諦めがつかず、まだ言いよっていた。まだ気になりはしたが、これ以上部活中に抜けてる訳もいかず戻ろうと、立ち上がった。その時、ふわりと風に乗ってきた花弁が目の前で空気に溶けるように消えた。
驚いて体育館裏の二人の方を振り向く。奇妙な花には今のところ一つしか心当たりがない。でも、何故この瞬間に花が?
見ると姉さんの足首から生えたツタが伸び、それが太ももまで絡まっている。男が好きだと伝える度、そのツタから小さなピンク色の花が咲き、すぐに散っていく。姉さんは困ったような表情で「ごめんなさい」と繰り返すばかりだ。
あの困った表情には見覚えがある。母さんの言葉が分からなくなっている時の表情と同じだ。
「ごめんなさい」は告白を断っている訳ではなく、分からなくて「ごめんなさい」という事なのだ。
馬鹿な姉さん。もうあんたには好意の言葉すら通じない。
ある日、僕が家に帰るといつもと様子が違っていた。
部活が遅くまであるので、夕飯は家族で先に食べてもらい、僕の分はテーブルの上に置いてもらうように言ってあるが、今日は何の準備もなかった。それどころか帰るとすぐに寄って来る母さんもいない。
電気をつけ部屋の様子が露わになって驚愕した。ダイニングからリビングにかけて部屋がめちゃくちゃだったのだ。家具が散乱し、食器は割れ、散々たる状態だった。母さんがヒステリーを起こすとたまに食器が飛ぶことはあるが、それでもここまで酷いことはない。
慌てるように階段を駆け上がり、自室に向かう。ドアの前でちょこんと座っている姉さんの姿を見て安堵する。全身にアザはできているが、それほど酷い外傷はない。
「怜君、おかえり」
「何? さっさと部屋入れば」
この姉はパーテーションのすぐ隣が僕の部屋だというのに、何か伝えたいことがある時はこうしてドアの前で座って待っている。冬の廊下は寒いだろうに、考えなしもいいところだ。
部屋に入るとすぐに暖房をつけ部屋を暖める。指先まで冷えたのか、姉さんは手をこすり合わせている。
「それで、何か言いたい事があるんじゃないの?」
「うん。これ」
そう言って脇に挟んでいた、封筒を僕に渡す。中を開けると大学の願書が出てきた。僕が行きたいと思っていた大学。でも行けない大学。
「それで? 何で願書? 受験はまだ先。あんたの受験だってまだなんだからさ」
「まだっていっても来年の今頃でしょ。行くところくらい決めておかないと」
「県外の大学行くなって言われてるの知ってるだろ。しかもよりによってここの願書渡すとかイヤミ?」
「行けるよ」
「だって母さんが」
「その母さんが許してくれるって」
ありえない。僕がどれほど頼み込んでも家から出ることだけは許してもらえなかったのに。
「学費は出してくれるし、下宿になるんだから仕送りもしてくれるって」
「なんで……どうやって? お前何したんだよ!」
下の階の荒れた様子は、母さんとの言い争いだったのか。だが、いくら姉さんが言ってくれたところで、母さんの意見など変わるわけがない。
「うん、条件付きだけど大丈夫」
「条件……?」
「大したことじゃないんだよ。むしろ何でその条件なのかが私も不思議なの。まずは私の大学先の変更。家から通えるとこにしてたけど、遠くに行くことって」
「そんなの急すぎるだろ。大体あんたこそ、行きたい大学行けないじゃん」
「私は別にこだわりってなかったし、行きたい学部があれば十分。一人暮らしできるのも少し楽しみだし」
あっけらかんと笑う姉さんに僕の方が心配になる。
「もう一つは、家を出たら二度と怜君に会わない事」
頭を鈍器で殴られたような心地がした。
「何……だよ、それ」
「不思議だよね。約束なんてしなくても、会う事なんてなさそうなのに」
「何だよ、それ!」
カッっとして手にした書類を姉さんに投げつける。ただの書類は軽い音を立てて地面に落ちる。
「あのね、もういいんだよ。怜君が母さんのことで悩む必要なんてないの。あと一年。あまり家にもいないようにしたら大丈夫」
「そうじゃない! お前は、それでお前は……!」
姉さんは軽く息を吐いて、いつものように微笑む。
「私の事でもうイラつくこともないんだよ」
分かっていない、こいつは何も分かっていなかった。
「嫌いだ! 姉さんは僕の事なんて何も分かっていない!」
癇癪を起したように叫ぶ僕の声に呼応するように、姉さんの手の甲から赤い花が咲いた。何か法則があるのだろうか。僕の言葉はいつも赤い花になる。
嫌いだ、嫌だと言っても、その言葉も姉さんには伝わらない。心の中にぽっかり穴が開いたように空しくなった。
どうしていいか分からず、ただ感覚だけで動いていて、姉さんを抱きしめていた。勢いで抱きついたせいかバランスを崩し、そのまま後ろのベッドにまで倒れる。
押し倒すような体制になってしまい、少し距離を空けて姉さんの顔を見ると、今までにないぐらい困惑していた。
戸惑ってどうしていいか分かっていない、それでも優しくあろうとするその表情。一番僕の好きな顔。
「……好きだ。僕、姉さんが好きなんだ」
言ってしまった。ついに言葉に出してしまった。
姉さんは目を見開きじっと僕の顔を見つめる。姉さんの首元からするりと茎が伸び、つぼみが顔を覗かせた。
ああ、やっぱり。彼女には何も届かない。
「好き……好き、大好き。お願いだからどこにも行かないで」
それでも一度口に出した思いは止まらず、好きだと繰り返すことしかできない。
体中から咲きだす花も止まらない。だが今度の花はめずらしく真っ白だった。小さく儚い白い花。
ぽたりぽたり涙を流す僕に、姉さんは分かってもいないくせに頭を優しく撫でる。たまらず姉さんの胸に顔をうずめるが、涙は止まらない。ただただ好きだと言うばかり。
どれくらい泣いていたのだろうか。気が付くとベッドの上は溢れんばかりの花が乱れ、床にまで落ちていた。姉さんも疲れたのか、寝息を立てて眠っていた。
抱き上げて姉さんの部屋のベッドに寝かせた。パーテーションを閉めて、自分の部屋を見渡すと、あれだけあった花の山は消えていた。
僕の思いも一緒だ。山のようにあっても、姉さんの中には残らない。
だが、これでいい。家族から家族以上の愛情を突き付けられることの嫌悪感は、自分が一番知っている。姉さんにそんな思いはさせたくない。そんなことで悩ませたくはない。
それでなくとも、母さんの歪んだ愛を見てきた姉さんにとって、愛情とは嫌忌の塊と同義なのだから。
4年前、父さんが亡くなってから、何故か母さんは僕に父親の影を見るようになった。何をされたかは思い出したくもない。泣いて嫌がる僕が姉さんの名前をひたすら呼ぶ事に母さんは嫉妬し、姉さんに酷く当たるようになった。それがこの家の悲劇の始まり。このままでは駄目だと思い、僕が姉さんに冷たくするようにしてもそれは変わらなかった。
でも、3カ月後に姉さんはこの家を出て行くだろう。そして母さんとの約束通り僕にはもう会わなくなる。
その1年後には僕も家を出てそれで終わり。それでいい。
自分を納得させるように深く息を吐き、ベッドに腰掛ける。
その時、枕元に一輪だけ、真紅の花が消えずに残っていることに気が付いた。
それを見て僕はもう一度だけ、涙を落して、その花をぐしゃりと握りつぶした。