アリビオ号
「……」
「……おい」
「……おい、ボウズ」
声が聞こえる。
はっと飛び起きると、目の前にHIGEDURAがあった。
「おお、生きてるな。ボウズ。よし、よく生きてた。がんばったな」
人だ。
たとえHIGEDURAだろうがなんだろうが人だ。
俺はこっちの世界に来て初めての人と会えた事で感激して思わず抱きついてしまった。そして泣き出してしまった。
あれ?
俺ってこんなに感情的だったか?
あるいは12歳の体に感情が引っ張られているのだろうか。
たぶんそうじゃない。
前世の日本では感情を表さないことが自然と訓練されていたと思う。冷静に、従順に。個性の時代とか言われていても、そうした歯車的な働きをする人材をこそ日本社会の大多数では求めている。学校生活はまさにそれで、小中高と染み付いたそれは1年すこしの大学でも抜けはしなかった。
ただ、そこからの体験、交通事故死、神にあったこと、無人島でのサバイバル、日本の学生とは比べ物にならない異常な体験をした俺は、感情を表に表すことが恥ずかしいという気持ちではなくなっていたかもしれない。
声を上げて泣き続ける俺の頭をなでながらHIGEDURAは言った。
「よし、よし、もう大丈夫だからな。どこの難破船かしらねえが、わしらが故郷に連れてってやるからな」
そういってこちらが落ち着くのをそのまま待ってくれた。
「ところでボウズ、お前の名前はなんていうんだ」
「名前……」
「ああ、俺から名乗るが、俺はジャック・ドワイト。ジャックと呼んでくれや」
名前、そう考えてないわけじゃあなかった。何せ時間はあったのだ。
主な問題は2つ。
1つは、日本風の名前でいいのかどうか。
こちらに日本的な国・地域があるならばそうすればいいかもしれないが、今度はその地域の知識が無いことが問題になる。もし無いなら無いで名前の響きが異様に思われてしまうことがある。
2つ目は、姓持ちかどうかということ。
この世界が中世的な世界観だと、姓名そろっているのは王族・貴族と富裕層だけということがありうる。その場合には、姓名で名乗るとこれまた怪訝に思われてしまう。
だが、この男、ジャックは姓名を名乗った。このHIGEDURAが貴族や富裕層であるとは考えにくいから、そういうものなのかもしれない。俺は……
「お……僕は、ケイン、ケイン・サハラです。ジャックさん」
俺の本名佐原健二、少年時代の通称ケンをなまらせて、ケイン。サハラは砂漠の名前と同音だから、そんなに日本風ではなかろうということで、そのまま名乗った。
「そうか、とりあえず立てるようなら、うちの船に行こう。船長に報告もせんといかんからな」
俺は、粗食で多少やせてはいたものの健康であったので、そのまま立ち上がってジャックさんに付いていった。
立ち上がってわかったが、12歳の、大体140cm前後の俺の身長とジャックさんの身長は同じぐらいだった。そして、やたらがっしりした、それこそ人間ではありえないぐらいの体躯と突き出た腹。これはいわゆるもしかして……
「ジャックさんはドワーフ、ですか?」
「おお、そうだよケイン。珍しいだろうが、これでもアリビオ号の艇長だからな」
珍しい、っていうのは絶滅危惧種とかだろうか。それより艇長、つまりコクスンと認識できたそれで、俺は前世で読んだ小説を思い出していた。
船は水面下に沈んでいる部分があり、船底が海底に接触すると座礁となって身動きが取れない。だから上陸するときには船を沖合いに泊めて、小船で上陸する。この小船を上陸艇というが、艇長というのは上陸艇の指揮をとるというのとはちょっと違う。むしろ、船長ないし艦長に付き従い、あれこれ世話をしたり、水夫たちのまとめ役的な仕事をする職務だ。
その職務上通常の水夫の指揮系統からは半ば独立するが、あくまで身分は水夫で、船での指揮命令を行うわけではないが、それなりに尊重される古参でベテランの水夫という立場だ。
なるほど、船に世話になるということはそういった知識も役に立つのかもしれない。
しばらく行くと、全長5mぐらいの小船が砂浜に上陸しており、森からやってきて何かを放り込んで森に帰っていくという作業をしている数人が見えた。ジャックさんと同じで、ひざまでのズボンと白いシャツという水夫の格好をしていた。
覗き込んでみると、放り込んでいるのは森にあったレモンっぽい果実だった。
聞いてみると、積み込んでいた果実が腐っていて廃棄したそうだ。
「これがないと壊血病になっちまうからな」
そういう知識も知られているということか。俺は心の中で、この世界の文明レベル認識の針を進めた。
地球では出血や骨折、細胞の壊死につながるこの病気の予防には、柑橘類が良いということが18世紀にはなんとなく知られていた。しかしその知識は広まらず、原理とともに広く知られるようになったのは20世紀のことだったりする。
壊血病はビタミンCの欠乏症であるから、野菜や果物を取らないといけないのだが、船の積載量の関係で、濃縮のジュースを用いたが、加熱してあるのでビタミンCが残っておらず、結局果実ジュースは効かないと誤解されることもあった。
そういうわけで、こちらの世界の文明レベル的には、航海術においては18世紀レベル以降だろうと考えられる。
そんな心中はさておき、俺はジャックさんといろいろ話をした。
沖合いに停泊しているかっこいい帆船がトランド船籍のアリビオ号。船長はガルシアさんといい、北の大陸のミスチケイアと南の大陸のクウェロンの二国間を貿易している。
このあたりは、マーリエ海の中央ぐらいということで、実際いかだでどこかにたどり着くことは難しかったそうだ。
マーリエ海というのは北のラクア大陸、西のミナス大陸、南のキュール大陸、そして少しはなれて東の魔大陸の間で囲まれた内海に近いそうだ。内海といっても広いので波は高い。
で、問題は話をするとして、こちらの情報をどこまで出すか、どこまで偽るかだ。
国名も何もわからない状態で、「○○出身で、△△から××までの船旅で嵐にあって難破したんです」とかも言いづらいし、かといって「地球の日本という国から異世界に転移してきました」というのもどうかと思う。
妥協といえば妥協だが、「難破時のショックで記憶喪失」ということにしておいた。
「ふむ。そうか、故郷は暑いとか寒いとかは覚えてないか?」
「そうですね、こんなに暑くはありません。雪が積もっていたことがあるのも覚えています」
「とすると西方、ダカス帝国系の国か、東のノヴァーザルだろうな。クウェロンだと人族の入植地あたりで積もるほど雪が降ることはないだろう」
ダカス帝国というのは100年前にラクア大陸西方をほぼ制覇した国だったらしい。今は分裂して、かつての王統や大公などそれぞれ独立してダカシア、ローレント、フランジット、センペシア、シンシェットとタロッテ自治領などがその名残だそうだ。
ノヴァーザルはラクア大陸の東岸の大国で、つい5年ほど前にジマという遊牧民族の支配を覆し、若い王とともに復興の真っ最中だそうだ。
地球で言うと、ダカス帝国系というのがヨーロッパで、ノヴァーザルが中国、ジマというのがモンゴルという感じの位置関係のようだ。なるほど、地理的に似ていれば異世界といえども大体同じような位置に同じような国ができるところに行き着くようだ。
「まあ、ともかくしばらくはうちの船で面倒をみてもらおう。働けるならうちは大歓迎だ」
「はい、よろしくお願いします」
そうこうしているうちに果実の積み込みも終わり、全員上陸艇に乗り、アリビオ号へと漕ぎ出す。
ちなみに、果実の名前を聞いてみたら自分には「レモン」と認識された。
どうも、こっちにも地球にもあるものは地球の名前で認識され、こっちにだけあるものはその音で認識されるようだ。地球にしかないものは、思考では認識できるが言葉とて発音しようとしても意味を成さない。
都合がいいように思えてくるが、そうなのだから仕方が無い。
それより、ジャックさんにはちゃんと話が通じていたが、言語は全世界で共通なのだろうか?
そう思ったが、もっと気になるものが頭を占めて、それきりになった。
そう、船だ。
全長で50mぐらい、そこそこ大型で細身の船体、3本マストでシップ型帆走、ミズンマストにはラテンセイルではなく、ちゃんとガフセイルがついている。
ええと、正直帆船好き以外にはなんのことだかわからないと思うが、ともかく18~19世紀ぐらいのかなり進んだ感じでスピードが出そうな船ってことでよろしく。
ともかく、そのかっこいい船にゆっくり近づいていくのを、俺はわくわくしながら小船に揺られていた。
今回の豆知識:
異世界でも壊血病にはレモン