天秤の両端
「どうして?」
俺は冷や汗が流れ出るのを止められなかった。ここでストランディラの貴族に正体を知られてしまっているのは致命的だ。
「いやいやいや、いくつかあるよ。たとえば、アクレシアに住んでいる者が河川派と海岸派の争いについて無知なのはおかしい。だって河口のあの町には両方が来るから、しょっちゅう喧嘩や何やら騒ぎを起こしているんだよね。いやいやいや、まったく、自国民のこととはいえ情けないよ」
さすがに行った事のない町の喧嘩事情なんかは俺には知る由も無いことだった。
「それにね、本の虫と言う割には日焼けしていることもそうだね。あと、一番不自然なのがそれ、ほら、そんなふうに気を抜くと船の揺れに合わせてバランスを取っているだろう?明らかに船が初めてって感じじゃない。むしろ熟練の船乗りめいたものを匂わせるよ」
最悪だ。言い逃れできる範囲を超えている。逃げるにしてもお互いにさっき言ったとおり、船の上では無理だ。
「ま、何より偽名ぐらいは使うべきだったね。河川派は商売で成り立っているから、いろいろな情報を集めるのは基本だよ。海賊船に見せかけた私掠船、リーデ号を撃破したアリビオ号と、その戦いで活躍した『豪腕』『魔人』の噂は、本国にいるときから収集済みだったからね」
「……で、それで、俺をどうするんですか?」
「うん? どうもしないよ。君にはこのまま護衛を続けてもらう。向こうに行って一週間たったら、そのままセベシアに戻ってもらう。何も心配することはないよ。もちろん報酬も払う」
「え?」
「信用ならないかね? いやいやいや、ケイン君、私はね、むしろトランドと河川派は交流を持つべきだと考えているんだ」
意外な言葉に、俺は返事をすることも忘れていた。ストランディラとトランドといえばトランド建国以来の不倶戴天の敵同士だと思っていた。そんな俺からすると、トレリー卿の話は信じられるものではなかった。
「まあ、そこに立っているのもなんだから、こっちに来て座りなさい。船乗りだからワインはいけるだろう? こいつはミノラック産の、ああマース湖西岸の町だよ。そこのワインで、まあ年代物とはいかないが、なかなかいけるよ?」
そうして、トレリー卿自らグラスに注いでくれたワインを、俺は一口飲む。正直、彼の口から何が飛び出してくるのかの方に気が行っていて、年代物だろうが船底の垢水溜まりの水だろうが、今の俺なら区別がつかないだろう。
「まず大まかな話をしよう。ストランディラは湖畔派、河川派、海岸派に分かれているということはいいね? うん、よろしい。それで、それらは湖畔派が農業、河川派がカリタヤ川での交易、海岸派がマーリエ海での交易で成り立っている」
それぞれの地形の違いが産業構造の違いを生んで、そして派閥に分かれたということだろう。
「このうち豊かさでは湖畔派、河川派、海岸派の順で、それがストランディラ内での発言力の順になっている。というか、海岸派が一人で足を引っ張っている状況だ」
「海の貿易をしているのに儲かっていないんですか?」
それは意外だった。トランドだって小国だけど海上貿易だけで成り立っている。そんなに儲からないものだとは思えなかった。
「うん、問題は西隣がセンピウスだということでね。一応は中立ということだけど、あそこはなかなかに油断ならない国だからね」
センピウス王国、アリビオ号が次に向かうソバートンもセンピウス領だ。西のミナス大陸にあるミニュジアと小競り合いをしていることは知っていたが、ストランディラにも手を出そうとしているとは初耳だ。
「センピウスは軍事国家だからね。もともとダカス帝国で成り上がった将軍の領地が元だから、軍が強くてね。しかも旧ダカス帝国に属していた諸国とは今でも交流があるから物資も豊富だ。それに対して海岸派は、トルボ山脈で他の二派と隔てられて補給に不安がある。おまけに土地も乾燥していて、自国での生産もままならない状況だ。いやいやいや、難しいねえ」
トランドがもし、ストランディラと陸続きだったら同じ状態だったかもしれない。海に集中しようとしても、陸の守りをおろそかにするわけにはいかず、そちらに労力を取られて海軍の強化が難しくなってしまうだろう。
「ということで、ここだけの話だけど、海岸派は切り捨ててしまおうなんて意見も一部にはあるんだ。で、そうなると海上での貿易が出来なくなって足元を見られるから、代わりにトランドと組もうって話になる」
これは、とんでもない話だ。彼はトランドとストランディラ海岸派を天秤に乗せて、どちらが重いか比べているということだ。
「そんな話を俺にして、大丈夫なんですか?」
というのは、この話が広まったら海岸派が黙っていないだろうということだ。
「かまわないよ。どうせ海岸派なんて今にも滅びそうな連中だ。基本ユースティス以外は雑魚だし、ユースティスにしたってセンピウスにかなうもんじゃない。むしろ君には無事にトランドに帰ってこの話を広めてもらいたい。出来れば国の上部の人につてがあればいいんだけどね……」
国の上部の人、と聞いてふとケーバス宰相の顔が浮かんだ。だが、直接の面識はないし、とすれば師匠が国で仕事をするようになってから伝えてもらうのがいいか……
いや、慎重にならなくては。この話が本当かわからないし、トランドをだまして油断したところを、海岸派が攻めてくるということも考えられる。ただそれでも、受けると見せかけるだけで、現在の俺の安全が格段に高まるのは間違いない。
「わかりました。俺自身は大したことは出来ませんが、師匠が国の仕事をするそうですから、師匠を通じて話を伝えてもらうようにします」
「そうかそうか、いやいやいや、まったく、素晴らしい」
結局俺は受けることにした。そして、あいかわらずトレリー卿は調子のいい感じで俺にワインを勧めてきた。
この選択、どう出るやら……
残りの航海の間、ずっと自分の選択について考えていた。
というか、トレリー卿の思惑についてだ。
まず、俺をだまそうとしている場合から考えてみる。
その場合、一つの筋書きは、河川派が海岸派と組んでトランドを攻めるというもの。すると当然、占領したのは海岸派だから、トランドの支配は海岸派が主体となる。
そうすると、河川派と海岸派が相当深く結びついていないと、無駄に海岸派が力を持って、河川派の優位がおびやかされることになる。
ということで、これはありそうにない。
もし、河川派と海岸派に深い同盟関係がすでに存在するなら、今でも二派で貿易路を固めてしまえば、たちまち湖畔派を干上がらせることができる。現状そうなっておらず、湖畔派が一番力を持っているという事実が、そうした同盟関係が存在しないことを表わしている。
念のためにマテリエさんにも裏を取ってみたが、やはり三派の構造というのはトレリー卿の言った通りでいいそうだ。
もう一つの筋書きは三派が一致団結してトランドを攻めるというもの。
こちらは筋書きとしては可能性があるが、問題はトレリー卿の行動だ。
俺が彼の護衛をすることになったのは偶然だ。仮にマテリエさんがぐるであったとしても、俺がセベリアにいないこともありうるし、いたとしても病気でアリビオ号から降りているという偶然の状況がなければ、成立しない。
それでも疑うというなら俺の病気自体を疑わなくてはいけない。医者が言っていたとおりに、この辺の人間ではあの病気が重症化しないのなら、俺が病気の免疫を持っていないという、誰にもわからないはずのことをあらかじめ知っていなくてはいけない。
やはり、俺をだまそうとしているという筋書きはどっちも理屈が合わないように思える。
一方、本当にトレリー卿の言ったとおり、トランドと組んで海岸派を見捨てるという場合について考えてみる。
こちらの場合は俺への接触は偶然でいい。
たまたま会ったから、たまたまずっと考えていたことを話した、とすればつじつまは合う。
ただ、そうだとしても問題になるのは、「誰が」そう考えているのかということ。
例えば、湖畔派と河川派全体の意志である場合、河川派が湖畔派に優位に立とうとしてトランドを引き込む場合、あるいは成り上がるためにトレリー卿だけがそう考えている場合などだ。
どれもありそうで、ただ、どれであるかによってトランド側としての対処が変わる。
色々考えてみるが答えは出ない。
まあ、とりあえずは俺をだましていないという方がありそうに思えたので、ひとまず帰ってから師匠達の意見を聞いてみよう。
どちらにせよ、トレリー卿は俺を無事にセベシアまで帰してくれることには違いないので、それからでも時間はある。
むしろ、余計なことを考えていて、危険の予想されるマローナでへまをするほうが問題だ。
俺は、とりあえずの結論を出して、残りの船旅の間は考えることをやめた。
だが、今しも入港しようとするマローナで、俺はそんなことが吹っ飛ぶくらいの衝撃を受けた。
港に、アリビオ号が係留されていたのだ。
今回の豆知識:
ケインに限らず、登場人物はたぶん全員日焼けしてると思います。
かつて無いほど日焼け率の高いファンタジー小説になっているかもしれません。