亜美の一 柏木家の大事件
凛ちゃんの家の家政婦さん視点です。
注:二話投稿です。
私は柏木家の家事手伝いをやっている、橘亜美。
全国に名を連ねたあの柏木グループ本宅の家事手伝いをしているから、相当な勝ち組だと自負している。
主に食品関連の事業を広く行い、いくつかホテルやレストランも経営している、今や日本で知らない人はいないトップ企業。
ごくごく普通の家系で生まれ育った私が働く場所としては破格だろう。
中流家庭で頭のできも並な私。周囲は全員高学歴のエリート揃いの職場へ、どうして雇用されたのかというと、何てことはない。
親戚のコネである。
母親の妹、つまり叔母が柏木家で働いていて、就活の時に口添えをしてもらったのだ。
もちろん、内定は実力で勝ち取ったものだ。さすがに使用人の縁者だから即内定、では逆にこちらが心配になるから、当たり前ではあるけれども。
特に秀でたところのない私だが、その代わり大きな間違いも少なく、堅実に仕事をこなせている。
家事手伝いの仕事が楽なわけでは決してないが、職場の人間関係に恵まれ、いい上司からの指導のお陰で柏木家に馴染んできた。
さて、柏木家の本宅には柏木グループ社長の旦那様と奥様、そしてご子息である晃様とご息女の凛お嬢様がお住まいになられている。
旦那様は常にお仕事でお忙しく、本宅にご在宅の日の方が少ない方で、奥様は旦那様の仕事の補佐をしていらっしゃるため、やはり多忙な方だ。
晃様はまるで絵に描いたようなイケメン。容姿端麗、運動神経バツグン、しかも実家が大企業の大金持ちとくれば、玉の輿を狙うハイエナは多い。
正直なところ、私の同級生に晃様のような男の子がいれば、なりふり構わずアプローチしていた自信がある。
それくらいカッコイイ方なのだ。
ちょっと、かなり、いや、病的なまでの重度のシスコンを除けば完璧な人なのだ。
たった一つの汚点で、どうしてあんな残念な人になるのだろうか……。人というものは不思議な生き物である。
そして、旦那様や晃様を始め、使用人一同からも愛されて、かつ心配されているのが凛お嬢様だ。
まるで天使のような可愛らしい容姿は時を経る毎に磨きがかかり、女である私の目から見ても充分魅力的に成長されている。
ただ、お嬢様はあまり感情を表に出さない、いや、厳密には出せないお方だ。
どのような事情がお嬢様にあったのかは、使用人の中で一番の新参者である私にはわからない。
でも、お嬢様自身、そのことで随分と悩んでいらっしゃるのは、日頃の様子を見ていれば察することができる。
実際、鏡の前で一人、笑顔を作る練習を部屋で行っていたところや、愛想をよくするための本、などという怪しげなタイトルの書物を頻繁に読んでいるところは、柏木家にいる人間は全員一度は目にしている。
自分の短所を必死に克服しようとするお姿に、私たちはお嬢様を見守ると同時に、できるだけの手助けをしようと心に決めた。
そんなある日。
それは突然だった。
「橘さん、貴女が時折見せてくださる笑顔をいつも羨ましいと思っていました。私は表情豊かな女性になりたいのです。笑顔の素敵な女になるために、ぜひ橘さんにご教授願いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「……はい?」
このとき、間抜けな反応をしてしまったことは仕方ないと思う。
誰だって同じ状況だったら、ポカーンとするしかないだろう。
お嬢様が自分のコンプレックスについて、人に頼ることは今まで一度としてなかった。
お嬢様があらゆる方面で努力家であったということもあるが、お嬢様は自分の欠点を人に見せることを嫌っていらっしゃったところがあった。
でも、お嬢様は私に頼ってきた。勤続年数が短く、接点が少ない私に。
お嬢様にどういう心境の変化があったのか、どうにも落ち着かない私は多少どもりながらも返答した。
「えっと、凛お嬢様? お褒め頂けて光栄なんですけど、具体的にどのようなことをなさるのでしょうか? 私にできることがありましたら、いくらでもご協力はいたしますが……」
ご教授、とは言われても、私は対人関係のプロというわけではない。
確かに、自分の性格は社交的だと自負しているし、全くの他人に愛想を振り撒くことは多い。
が、特に意識してやっているわけではなく、自然と身についたものだ。指導できるほど理解できているわけではない。
「私は愛想を振り撒くということがどうしてもできません 。それが、今後の人間関係でとても不利になることは間違いないのです。 なので、必要最低限の表情は作れるようになりたいのです。そのために、橘さんには私のお手本と同時に、私の表情を審査していただきたいのです。 どうかお願いします」
お嬢様のおっしゃることは正論だ。特に、柏木グループ令嬢のお嬢様は何かと人前に出る機会も増える。
いつまでも無表情では、お嬢様自身の評判や外聞があるから問題がある。
でも、お嬢様が自分の表情を気にしだしたのは、何だかそれだけじゃないような気がする。
根拠はないが、何となく、そう思った。
「はぁ、そういうことでしたら、ご協力いたします」
要するに、お嬢様がちゃんと笑顔を作れたかどうか指摘するだけだ。
それくらいなら、学のない私でもできる。
「では、早速なのですが笑顔を作る時のコツを教えてください。私一人でやっても、引きつった不自然な笑みになっ てしまうので」
私たちから見れば、お嬢様の表情はどれも凝り固まったポーカーフェイスばかりなのだが、お嬢様の中では引きつった部類なのだろう。
「コツ、ですか。何分、意識して表情を作ったことがありませんので、なんとも言いがたいのですが……」
ほとんど無意識の行為のコツ、と言われてもピンと来ない。
う~ん、笑顔かぁ……。
「例えば、笑顔であれば、一番見せたい誰かを想像してみればいかがでしょうか?」
やはり、これが一番だと思う。
表情は自分に見せるものじゃなく、相手に自分の気持ちを伝える行動だ。
笑顔のようなポジティブな感情を見せようと思えば、自分の好意を見せたい相手を前にすれば、自然と筋肉が動いてくれる。
そう思って、私は安易にお嬢様へアドバイスをした。
してしまった。
「!!!」
少し悩んだ様子のお嬢様は、ふと、その雰囲気をがらりと変えられた。
さっき、私はお嬢様の容姿を天使のようだと表現したが、あれは撤回せざるを得ない。
天使というのは、今の微笑まれたお嬢様のことを指すのだろう。
どなたを頭の中に思い浮かべたのかはわからないが、男性だけでなく女性までも虜にしてしまいそうな、そんな微笑。
清純無垢な乙女、と言っても過言ではない、ある種の神々しささえ覚えるお嬢様の笑顔は、使用人として見慣れたはずのお嬢様の顔を、これ以上ないほど魅力的にさせていた。
「…………凛お嬢様」
「何でしょうか?」
「その笑い方は、ダメです」
「え?」
しかし、お嬢様が浮かべたエンジェリックスマイルは、逆に破壊力が大きすぎるために危険すぎた。
あんな兵器を、お嬢様と同学年である中学生男子の目にさらしてしまえば、砂糖を察知した蟻のように群がり、お嬢様が窮屈な思いをなされるに違いない。
愛想という点では満点をはるかに超す出来だったが、お嬢様にはもっと加減というものを覚えて頂かなくてはならなくなった。
お嬢様の微笑みを放置していたら、いずれ耐性のない人たちの(鼻)血の雨が降ることは必至……!
それは、何としても食い止めなければならない!
「いいですか? 今からその笑い方は、全面的に禁止させて頂きます。私が処世術としての表情の動かし方を勉強しますので、特訓はまた後日にしてもよろしいですか?」
「え? あ、あの、橘さん?」
「それでは、これで失礼させていただきます。まだ仕事が残っておりますので」
「あ……」
私は一息で言い切り、お嬢様に一礼して足早にその場を去った。
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その後、先輩たちにも協力してもらい、お嬢様に一般人でも耐えられるくらいの表情筋の動かし方をレクチャーすることに成功した。
かつて、私が取り組んだことの中で最も力を入れたと思う仕事だったが、何とか成し遂げることができた。
しかし、お嬢様の悩殺スマイルを引き出させた「お嬢様の笑顔を見せたい人」とは、一体誰なのだろうか?
私の勘では、お嬢様の同級生あたりだろうとささやいている。
お嬢様が仲良くなりたいと思っているのが同性のご学友ならまだしも、異性であればあの親バカとシスコンが黙っていないのではなかろうか?
私は一部不安な部分を残しながらも、柏木家始まって以来の大事件を見事にやり過ごせたのであった。