凛の四 墓穴を掘って、掘って、堀り倒したみたいです
注意:二話投稿です。
凛ちゃん視点です。
橘さんによる特訓を受け、見事な愛想を手に入れた私は、今日、いつもとは異なる心情で二学期を迎えることとなりました。
すでに橘さんからは免許皆伝を頂いています。
これで、私も愛想の達人です。
話しかけてくださる相馬さんに、不快な思いをさせなくて済みます。
始業式の今日は、いわば新生・柏木凛のデビュー戦です。
今こそ辛く厳しい指導に耐えた成果を見てもらうときなのです!
登校中は体力の温存のために、私の顔の筋肉は休止モード(ただの無表情ですが)に入っていますが、学校が近づいてくるにつれて、段々不安になってきました。
よくよく考えてみれば、私の作為的な表情を評価してくれていたのは、師匠の橘さんただ一人。
他の使用人さんには、恥ずかしくてお見せできなかったのです……。
そして、私が一番訓練の成果をお披露目したいのは相馬さんですが、クラスには当然他のクラスメイトの方々もいらっしゃいます。
また、私が教室に入ったときに、相馬さんがすでに登校しているとは限りません。むしろ、相馬さんは遅刻ギリギリに登校してくる日の方が多かったように思われます。
名目上、私は人好きのするコミュニケーション能力を鍛えていたわけですから、相馬さんがいらっしゃるまで休止モードでいるのも、何だか勿体ない気もします。
……そうです! 相馬さんに私の勇姿を見ていただく前に、他のクラスメイトの方々の反応を窺えば、私の真の実力が分かるのではないでしょうか?
そうすれば、私の不安な気持ちも落ち着くかもしれません。
思い立ったら即行動です。
一人で色々考え込んでいた間に、私は学校に到着していたようなので、早速自分の教室に向かいます。
皆さんの反応への期待と不安でちょっと早足になってしまいます。心臓もバクバクです。
教室の前に立ち止まり、小さく深呼吸をします。
……よし、緊張が、ちょっとだけ抜けました。
引き戸に手をかけ、少しだけ力を込めました。
「…………あら?」
しかし、ガタガタと音がなるだけで、鍵がかかったままのようです。
「早く来すぎたのでしょうか?」
私は左手の腕時計を確認しました。
五時十六分。
……ちょっと早すぎたみたいですね。知らず知らずのうちに、気が逸っていたようです。
私は誰もいない教室の前で立ち尽くし、仕方ないので壁を背にして鍵を開けて下さるまで待つことにしました。
折角ですし、新しく読み始めた『相手に好かれる話し方、嫌われる話し方』という本を取り出しました。
私は表情の改善だけで満足しません。
良くしなければならないところは、とことん追求する所存です!
本を開いてから、約一時間は直立不動でした。
鍵を開けてくださった先生も、苦笑いを浮かべていらっしゃいました。ご迷惑をお掛けします。
~~・~~・~~・~~・~~
席についてからも私は読書に耽り、さらに一時間くらいは経過しただろう時でした。
不意に教室の扉が開きました。
「……あ」
視線を上げると、クラスメイトの男の子が驚いた表情で私を凝視していました。
恐らくは部活動で早く登校していたのでしょう。元々白だったはずの野球部のユニフォームが土で汚れています。
第一クラスメイト、遭遇です。
ちょうどいいので、彼で予行練習をしておきましょう。
「おはようございます(ニッコリ)」
橘さんの教えでは、私は感情をさらけ出すような笑い方ではなく、楚々とした微笑を心がけてください、とのことでした。
感情の起伏が顔に出ない私にとっては、ややハードルが低くなってよかったのですが、何度も念を押されてしまったことが気にかかります。
私が橘さんに最初に見せた笑顔は、そんなに酷い顔をしていたのでしょうか? だとしても、酷い笑顔って、どんなものなのでしょうか?
謎は深まる一方です。
「……あ、え、お、おは、よう……」
私が内心で考え込んでいると、男の子はしばらく固まったあと、詰まりながらも挨拶を返してくださいました。
見る限り運動部の方のようですから、もっと外向的な方かと思っていたのですが、案外人付き合いは苦手なのでしょうか?
ここまで言葉が途切れ途切れになっていらしてますから、人とお話しすることに苦手意識を持っている方なのかも知れません。
……なんでしょう、物凄くこの方に親近感が湧きました。
「朝がお早いんですね。部活動の練習ですか?」
「え! そ、そうだけど……」
自然と次の言葉が出てきたのは、かつての口下手な自分と彼を、多少重ねてしまったからでしょう。
一学期の私なら、挨拶だけで精一杯でしたが、今の私なら会話に二言三言付け加えることもできます。
話しかけるのが初めての方でも、客観的に普通に応対できるようには、私も成長したということですね。
「精が出ますね。頑張ってください」
「は、はぃ……」
ニコニコと笑顔を意識して、男の子にエールを送ると、シャイな彼は顔を赤らめてうつむいてしまいました。
どこか具合が悪いのか、と少し心配になりました。
しかし、彼は視線を私から外しつつ自分の席に行き、机の中から制汗スプレーらしきものを取り出して、すぐに走り去っていきました。
ふむ、どうやら照れていらしたようです。
本当にシャイな方のようですね。私とはベクトルが違いますが、彼の人見知りが治ればいいと、密かに祈っておきましょう。
それから、時間が経つにつれて、ポツポツと教室にクラスの方々がいらっしゃいました。
「おはようございます(ニッコリ)」
私は野球部の彼と同じように、登校されてきた皆さんに作り笑顔で出迎えました。
「! お、おはよう……」
「へっ? ……お、はよう、柏木、さん」
「えっ? ……おはよう、柏木さん。何か、印象変わった?」
「おはよー、って、柏木さん? あなた喋れたの?」
すると、私が見る限り反応は良好のようです。
男の子はシャイな方が多いようで、挨拶は返してくださるのですが、すぐに自分の席へ向かってしまいます。
逆に、女の子はとても気さくに話しかけてくださいます。しかし、皆さんからの質問は矢継ぎ早であり、私はとっさに反応出来ません……。
性別により対応に差はあるようですが、以前のように避けられている雰囲気はなく、女子の皆さんは私を中心に人垣を作るほどでした。
橘さんのレッスンは思いの外効果を発揮し、一気に私の周囲は賑やかになりました。
しかし、一見大成功に思えた私の安易な行動が、徐々に予想外の方向へ進んでいきました。
「そういえばさ、柏木さんって一学期に博士にまとわりつかれてなかった?」
「あ~、そうだったね。アイツって階堂とよくつるんでるし、どうせ何かのオタクなんでしょ? キモくない?」
「ぐるぐる眼鏡のさえない博士が柏木さんにアプローチとか、今考えたら笑えるよね?」
「言えてる~。ちょ~ウケるよね~」
……何がうけるのかは分かりませんが、皆さんは相馬さんの行動が可笑しかったようです。
ちなみに、相馬さんが皆さんから博士というあだ名で呼ばれていることは知っていたので、聞きなれない愛称でも何とか個人を特定できました。
「だいたい、身の程を知れ! って話よね。博士みたいな地味で目立たないヤツが、柏木さんと釣り合うわけないじゃん」
「だよな! 俺もそう思ってたんだよ!」
「俺も、俺も! でも、アイツバカだから、柏木さんに嫌がられてるのに全然気づいてなかったよな」
「ま、見た目だけのインテリで、中身ハリボテな博士らしいけどな」
そこから、相馬さんへの中傷めいた言葉が飛び交い、女子の後ろから集まってきた男子の皆さんも、口を揃えて相馬さんを貶すような台詞を並べ立てました。
このときの私は、橘さんに教えられた笑顔を維持することで精一杯でした。
どうして、私のことを気にかけてくださった相馬さんを悪く言うのか?
どうして、私と相馬さんが一緒にいることに、外見上の『釣り合い』などというものが必要なのか?
どうして、相馬さんの優しさを、私が嫌悪していると思われているのか?
どうして、相馬さんを貶めることを、誰も疑問に思わないのか?
色んな『どうして?』が、私の頭の中を駆け巡り、耳からは聞きたくない言葉が何度も流れてきます。
そして、私は、この人の輪の中に、相馬さんがいないことに、ようやく気づきました。
私は皆さんに分からないように視線を方々へ散らせ、相馬さんを探しました。
すると、私の周囲の人の隙間から、相馬さんがこちらを見ていることに気づきました。
(……あっ)
しかし、相馬さんはすぐに顔をそらして、正面に立つ男の子と話し出しました。恐らく、その人が件の階堂というご友人でしょう。
(私は、何をしているのでしょうか?)
偽りの笑顔を浮かべて、今まで避けられていたクラスメイトに愛想を振り撒いている私。
唯一、関わりを持とうとしてくれていた相馬さんを意図せず遠ざけている私。
こんなにたくさんの人に囲まれていて、今まで以上に強い孤独感を感じている私。
(私は、一体何がしたかったのでしょうか?)
結果は望むべき方向へ進んだはずなのに、私の心にポッカリと穴が開いたような、そんな感覚が私を苛みました。
「よし、ホームルーム始めるぞ~、席につけ~」
教室に担任の先生がいらっしゃって、ようやく席に戻っていくクラスメイトの皆さんを見送りながら、私は悲しい表情が表に出てこようとするのを、必死に抑えつけました。
すでに、朝に抱いていた晴れやかな気分は吹き飛び、暗雲が立ち込めたようなモヤモヤとした気持ちで一杯でした。
~~・~~・~~・~~・~~
本日の予定が恙無く終わり、夏の課題を提出したら、帰宅の流れになっていました。
しかし、私は中々その場を離れることができませんでした。
「ねぇねぇ、柏木さんって一学期とはずいぶん雰囲気違うけど、何かあったの?」
「あ、俺も聞きたい! すっげぇ話しやすくなったもんな!」
朝と同じように、クラスメイトの皆さんに囲まれてしまっては、動きたくても動けません。
結局今まで、私は相馬さんに近づくことができませんでした。
席が離れていましたし、今日は始業式だけなので自由な時間も少なかったですから。
それに、今日の相馬さんは何だか空気がピリピリしているような気がしました。いつものフワフワした柔らかい空気がなかったので、話しかけづらかったのです。
私はとても悲しい気持ちになってきて、今では周りの皆さんへは軽い相づちくらいしか返せていません。
一番に私の変化を見てほしかった人が、こんなにも、遠い。
ずっと近かった分、余計に遠く感じてしまいます。
でも、相馬さんとの距離が近いと感じていたのは、結局は私の勘違いでした。
私は、相馬さんの優しさに寄りかかっていただけ。
自分から行動を起こそうとしても、空回りしてしまって、話すこともできません。
私は自分ではとても進歩したと思っていました。しかし、実際は以前の私と何も変わっていません。
相馬さんが来てくださるのを、ただ待っているだけの意気地無し。
それが悔しくて、恥ずかしくて、切なくなります。
「……ぁ!」
そろそろ笑顔が維持できないほどの疲労が蓄積し、顔の筋肉の限界が訪れた時でした。
人垣の隙間から見えたのは、相馬さんの後ろ姿。
階堂さんに一声かけたと思うと、相馬さんはすぐに教室を出て行ってしまわれました。
あれから、私に一度も視線を向けてくださることもなく、私から離れていく彼の背中。
私は、去っていく相馬さんを目で追うことしかできなくて。
胸が締め付けられるように痛み、どくん、どくんと、強く脈打ちました。
とても苦しくて、息が詰まりそうな、今まで感じたことがない気持ちになりました。
もう、いてもたってもいられなくなりました。
「あ、あのっ!」
突然、私が大きな声を出して、立ち上がったからでしょうか?
クラスメイトの皆さんは驚いたように目を開き、私を見つめてきました。
「わ、私、今日は用事があるのを思い出したので、先に帰らせていただいてもよろしいでしょうか?」
少し言葉を詰まらせてしまいましたが、声を張ったおかげで皆さんに伝わったようです。
戸惑いながらも首を縦に振り、数人の方が道を譲ってくださいました。
「ありがとうございます。では、失礼します」
焦る気持ちを隠し、自分の鞄を手にとって、私は教室を出ました。
駆け足でドタバタと廊下を移動します。普段はそんなはしたないことはしないのですが、今回は無意識にスピードが上がっていたようなので、足を緩められませんし気づきません。
(早くしないと、相馬さんを見失ってしまいます!)
相馬さんが教室を出ていってしまわれてから、どれほど時間が経過していたでしょうか?
私は先行してしまった相馬さんの後ろ姿を求め、急いで下足箱へ向かい靴を履き替えました。
少し息が切れてきましたが、構いません。
体力には自信がありますから、このまま追いつけるはずです。
外へ出た私は校門まで走り、左右を確認しました。
(……いました!!)
すると、校門を出て左の道に、ちょっと丸くなった男の子の背中を発見しました。
「…………相馬さんっ!」
私は相馬さんの方へ近づき、大声で呼び止めました。
これほど大きな声を出したのは何年ぶりか、と自分でも驚くほどの声量だったため、喉に負担がかかってしまい、ちょっとだけ噎せてしまいました。
「……柏木、さん?」
驚いたような相馬さんの声が聞こえましたが、息を整えるのに前屈みになっていたので、相馬さんがどんな表情をしているのかはわかりませんでした。
「どうかした? 僕に何か用?」
次いで、相馬さんの口にした言葉は、私を突き放すような、淡々とした声音でした。
荒くなっていた息が、一気に喉奥で引っかかりました。同時に、背中を冷たい汗が流れていきます。
もしかしたら、私を囲んでいたクラスメイトの皆さんが話していた内容を、聞かれてしまったかもしれません。
それに何も反応しなかった私に、腹を立てているのかも、しれません。
相馬さんに、嫌われてしまったのではないか?
そう思っただけで、膝についた両手に、手のひらが真っ白になるほどの力が込められました。
「はい。相馬さんに、お話ししたいことが、あります」
呼吸の速さは元通りになっているはずなのに、言葉がつかえてしまうのは、恐かったからでした。
拒絶されたくないと、初めて思えた人だったから。
私から離れてほしくないと、本気で引き留めたくなった人だったから。
私の感情を、こんなにも動かしてくれた、人だから……。
「……!」
私は意を決して顔を上げました。
橘さんに言われた作り笑顔を浮かべる余裕がなかったので、今、私がどのような表情でいるかは自分でもわかりません。
しかし、相馬さんの顔を見れて(何故か驚いた表情でしたが)、嬉しさと安堵で一杯になった私に、そんなことを考える余裕はありません。
頭の中で何度も反芻するのは、ずっと伝えたかった、私の本心。
「相馬さん、私は嬉しかったです」
「……え?」
話の脈絡なんてなく、唐突に話し出した私に、相馬さんは戸惑っていらっしゃいました。
それに気づいても、私は相馬さんへの配慮なんてできそうにありません。
何故なら、こうして口を開いているだけでも、ドキドキしすぎて、今にも倒れてしまいそうでしたから。
「私は、あの日、相馬さんに話しかけて頂けて、とても、 嬉しかったです」
思い出すのは、一人で本を読んでいたあの日。
やや緊張した様子で、私と繋がりを作ろうとしてくださった、相馬さんの声。
「迷惑だなんて、思っていませんでした。むしろ、楽しかったですよ。お話の内容は、ちょっと分からないことが多かったですけど」
でも、相馬さんの私を気遣う優しさは、いつも届いていました。
「これからも、私とお話ししてほしいです。私は相馬さんとのお話しは、とても好きですよ」
そのために、変わろうと思えたのですから。
相馬さんと、笑いたくて。
愛想笑いなんかじゃなく、心から笑い合いたくて。
少しでも貴方に、近づきたくて……。
「私が言いたかったのは、それだけです。では相馬さん、また明日、学校でお会いしましょう」
私は、自分ができる最高の笑顔を意識して、相馬さんにお別れの言葉を告げました。
学校が終わってすぐに帰路に着こうとしていたのですから、恐らく相馬さんにはこれからご用事がおありなのでしょう。
長く引き留めては迷惑に思われてしまいます。
ですから、私の想いの一部は、まだ胸の奥にしまっておきます。
いつか、普通に話すことができる間柄にならせて頂いたのなら、かつてこんなことを想っていたのですよ、とお伝えすることにします。
「……うん! また明日!」
相馬さんは笑顔で大きく手を振って下さいました。
そして、すぐにきびすを返して走っていってしまいました。
……そんなにお急ぎの用事だったのでしょうか?
やはり、相馬さんを呼び止めてしまったのは良くなかったのではないでしょうか?
私は小さくなった相馬さんの背中を見送りながら、知らず知らずの内に相馬さんのことばかり考えていました。
その事に自分自身気づかないまま、私も家路に着こうと歩き出しました。
私の中に芽生えたこの感情の名前を、私はまだ知ることはありませんでした。