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冷酷無比な天狼伯が見初めた唯一の伴侶  作者: 錆猫てん


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06. おはよう

 治療が終わり、ゼノビアと医師が部屋を出ていった。


 扉が閉まる音は小さいはずなのに、やけに大きく響く。

 それを境に、外の喧騒は遠のいた。廊下の足音も、指示の声も、厚い壁の向こうへ押しやられていく。


 残ったのは、二人分の息づかいだけだった。


 寝台のすぐ脇。逃げ場のない距離。

 近すぎて、目線の置き場が分からない。触れていないのに、熱だけが伝わってくる気がした。


「……令嬢。醜い傷を見せてしまい、申し訳ない」


 その謝り方が真面目すぎて、ユベールは喉の奥が痛くなった。


 違う。


 そうではないのだ。

 傷が醜いとか、そんな話ではない。


「い、いえ……そうでは……そうではないのです……」


 声が震えた。視界が滲みそうになる。涙ではない。熱だ。恥だ。恐怖だ。


 ウルスラが首を傾げる。


「なら、何だ」


 その一言で、逃げ道が消えた。


 ユベールは息を吸った。

 今、言わなければ、この先ずっと言えない。


 彼女が――いや、目の前のこの人が、秘密を言ったのだ。なら、自分も言わなければ釣り合わない。そう思ってしまった。


 怖い。消えたい。床に沈みたい。

 でも。


「あ、あの……あのですね」


 声が消え入りそうになる。


「……実は」


 喉が詰まる。言葉が引っかかる。

 ウルスラがじっと見てくる。その目が、逃げるなと言っていた。


 ユベールは、震える息で言った。


「実は……わた……ぼ、ボク……」


 言ってはいけない。

 言ったら終わる。終わるはずだ。終わるべきだ。


 でも、もう戻れない。


「……男なんです」


 沈黙が落ちた。


 ウルスラの目が、丸くなる。


「……は?」


 返事が遅れて、もう一度。


「え?」


 ユベールは顔を真っ赤にして、うなだれた。


「……ごめんなさい」


 謝るしかできなかった。


 ウルスラは、ゆっくりと瞬きをした。

 痛みで顔を歪めるでもなく、怒るでもなく、ただ、理解が追いつかない顔をしている。


 そして、次の瞬間。


 ウルスラの口元が、ふっと緩んだ。


「……ハハ」


 笑った。

 乾いた笑いではない。信じられない時の笑いだった。


「なるほど。だから……」


 何かに納得しかけて、途中で言葉が止まる。


 ユベールは耐えきれず、そっぽを向いた。壁の模様が目に入る。暖炉の火が揺れている。逃げたい。


 ウルスラも視線を逸らし、包帯の上から胸元を押さえて小さく咳払いをした。


 部屋の空気が、異様に熱い。


 ユベールは、思わず口をついていた。


「……令嬢ではないボクは、ここを去るべきですね」


 ウルスラは少し黙った。

 それから、低い声で言った。


「……いや。そうはならないだろう」


「お前は男で、私は……」


 言葉が途切れる。そこだけは、まだ言い慣れていないのかもしれない。


「……私は女で」


 ユベールの顔がさらに熱くなる。


 ウルスラはそこで、ふっと苦笑した。


「皇帝め。嫌がらせのつもりで令嬢を娶らせたつもりだろうが……」


 そして、目を細める。


「男勝りと、天狼とまで呼ばれた私の夫が、こんなに可愛らしいなど……ふふ」


 夫。


 その単語が、耳の奥で暴れた。


「え、あの……」


 ユベールは慌てて声を出した。何を言えばいいのか分からない。否定すべきか。受け入れるべきか。自分が何をしたいのかも、分からない。


 ウルスラが視線を落とし、ぽつりとつぶやく。


「……手負いだった天狼も、この温もりへの飢えには勝てないかもな」


 温もり。


 その言葉で、昼間の「違う」という一言が繋がった気がした。


 ユベールは、急に息ができなくなる。


 ウルスラが顔を上げた。真っ直ぐな目だった。


「……いやか」


 短い。

 逃げ道を残す問いだった。


 ユベールは喉が鳴るのを感じた。いやではない、と言ってしまったら何が起きる。起きていいのか。自分の計画はどうなる。白い結婚は。離縁は。


 けれど、胸の奥が先に答えを出してしまう。


「……いやでは……でも……」


 でも、の先が続かない。


 ウルスラが、ほんの少しだけ笑った。

 柔らかい笑いだった。戦場の冷たい目が、どこかへ溶ける。


「なら、いい」


 その言葉が、ひどく優しかった。


 ユベールは、逃げるように目を閉じた。


 夜は深まっていく。


***


 早朝。


 光は相変わらず白く、乾いていた。窓の外の雪は薄く、風は静かだ。昨日の夜の音が嘘のように、屋敷が穏やかな呼吸をしている。


 ユベールは、まぶたを開けた。


 隣に、ウルスラがいた。


 寝台ではない。寝台のそばの椅子だ。包帯のまま、背もたれにもたれかかっている。眠っているのかと思ったら、目が開いていた。


「……起きたか」


 声が掠れている。痛みのせいか、眠れなかったのか。


 ユベールは顔が熱くなるのを感じた。昨夜の記憶が一気に蘇る。温もり。息。言葉。全部。


「お、おはようございます」


 声が高くなる。意識して高くするわけではない。勝手に高くなる。


 ウルスラが、ほんの少し笑った。


「おはよう」


 その一言が、あまりにも普通で、ユベールは泣きそうになった。


 扉がノックされる。


「閣下。奥様。失礼いたします」


 ゼノビアの声だった。


 ユベールは跳ね起きそうになり、慌てて布団を握った。エリザの不在を思い出し、さらに慌てる。昨日から、ずっと予定外だ。


 扉が開き、ゼノビアが入ってくる。目は鋭い。だが、部屋の空気を一瞬で読み取ったように、何も言わない。


 彼女の後ろには、エリザがいた。盆を持ち、顔はいつも通り無表情だ。


 エリザの視線がユベールに刺さる。


 刺さるが、驚きではない。叱責でもない。

 ただ――確認だ。


 生きていますか。

 折れていませんか。


 ユベールは小さく頷いた。

 エリザも、ほんの少しだけ目を和らげる。


 ゼノビアが淡々と言った。


「閣下。医師が申しておりました。数日はです」


「分かっている」


「分かっているなら、動かないでください」


 昨日と同じやりとりに、ユベールは危うく笑いそうになった。笑っていいのか分からない。笑ったら何が起きるのかも、まだよく分からない。


 ゼノビアは書類を差し出す。


「境界の報です。襲撃は退けました。死者はありません」


 ウルスラの目がわずかに細くなる。安堵が、ほんの少しだけ滲んだ。


「よし」


 短く言う。

 その短さが、北の重みだった。


 ゼノビアは視線をユベールへ向ける。


「奥様」


 呼び方が、昨日より自然に聞こえたのが怖い。


「本日はお休みください。昨夜はお疲れでしょう」


 それは気遣いの言葉だった。ゼノビアが気遣いを言葉にするのは珍しい気がする。だからこそ、何かを察したのだと分かる。


「……はい」


 ユベールは小さく答えた。


 ゼノビアは頷き、踵を返す。


「それから――」


 出口で立ち止まり、振り返らずに言った。


「屋敷の者の口は固い。余計な噂は立てさせません」


 その一言で、肩の力が抜けた。


 皇都なら、噂は火より早い。

 けれど、ここでは家令が火を制御する。そういう安心が、北にはあるのかもしれない。


 ゼノビアが去り、エリザが残る。


 エリザは盆を置き、ユベールの顔を見た。


「お嬢様」


 声は低い。昨夜の混乱を吸い込んだ声だ。


「……あとで、話を聞きます」


「え……」


 ユベールは真っ赤になり、布団を握りしめた。


「話を聞きます」


「……はい」


 ウルスラが、隣で小さく咳払いをした。包帯の上から胸元を押さえ、目を逸らす。


「……エリザ。あまり彼を叱るな」


「叱るかどうかは、話を聞いてから決めます」


 淡々と返され、ウルスラが苦笑した。


 ユベールは、そのやりとりが妙に温かく感じてしまい、ますます顔が熱くなった。


 昨日までなら、こんな朝は想像もできなかった。


 白い結婚。二年。離縁。

 その筋書きは、まだ消えていない。消えていないはずなのに。


 目の前には、傷を負って、それでも普通に「おはよう」と言ってくれる天狼伯がいる。

 秘密を知っても、追い出そうとはしなかった女がいる。

 黙って支えてくれる家令と侍女がいる。


 それが、どうしようもなく胸を温かくした。


 怖い。


 昨夜とは違う意味で、やはり怖い。


 ここにいてはいけないのではないか。

 ここにいたいと思ってしまうのではないか。


 その両方が、同じだけ本当だった。


 窓の外では、白い光が静かに雪を照らしている。

 北の朝は冷たい。けれど、思っていたほど、冷たいだけではないのかもしれなかった。


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