05. 戦禍
この話には流血描写を含みます。ご注意ください。
夜は、音が少ない。
少ないはずなのに、聞こえてしまう。風のうなり。屋根を叩く雪粒の気配。遠くの犬の鳴き声。屋敷のどこかで薪が爆ぜ、金属が触れる音がして、すぐに止む。
ユーベル――ユベールは、眠れずにいた。
寝台に入っても、身体が休まらない。まぶたを閉じれば、執務室から聞こえた冷たい声が蘇る。襲撃。境界。越えさせるな。言葉が刃のように並び、そこに自分の居場所がないことを示しているようだった。
居場所はある。
奥様として。形式として。
そう頭で言い聞かせても、胸の奥が納得しない。昼間、城壁から見た景色が、今は暗闇の向こうに沈んでいる。守るというのは、昼の視察だけでは終わらない。夜にこそ本番があるのだと、もう知ってしまった。
扉の向こうで足音が止まった。
ノック。
心臓が跳ね、ユベールは起き上がった。エリザは隣室で休んでいる。起こすべきか迷うより先に、声が聞こえた。
「奥様。失礼いたします」
ゼノビアだ。短く、きっぱりとした声。
扉が開き、冷たい空気が流れ込んだ。ゼノビアの背後には数名の使用人と、医師らしき男が見える。灯りが揺れ、廊下に緊張が張り付いていた。
ユベールの喉が乾く。
「……何か」
「閣下が戻られました。負傷です」
ゼノビアが言った。言い方は淡々としているのに、その言葉だけが重い。
負傷。
胸が、一瞬で冷えた。昼間の皮鎧の匂いが蘇る。血の匂い。詰所の呻き声。
「命に別状は」
「今のところは。ただし出血が多いそうです」
今のところ。という言葉が、北の冷たさを含んでいる。
「奥様には……閣下の部屋へお越しいただきたい」
ユベールは息を吸い、吐けなくなった。奥様。夫婦。形式。そういう言葉が、今は別の意味を持つ。形式の盾ではない。ここにいる理由の刃だ。
逃げたい。怖い。けれど、足は勝手に床へ降りていた。
「……分かりました」
声が震えそうになる。ユベールは必死で押さえた。令嬢の声で。奥様の声で。
ゼノビアが頷き、歩き出す。
「エリザは」
「奥様の侍女として、同行を許可します。ただし、医師の指示に従うこと」
ゼノビアは振り返らずに言った。その背中が、戦場の背中に見えた。屋敷の人間もまた、戦をしている。
ユベールは隣室の扉を叩き、低い声で呼んだ。
「エリザ」
すぐに扉が開き、エリザが出てきた。寝間着の上に外套を羽織っている。準備が早すぎる。最初から眠っていなかったのかもしれない。
「聞こえました。行きましょう、お嬢様」
「……うん」
それだけで、足が少しだけ軽くなった。守ってくれる人がいる。その事実が、今はありがたい。
***
ウルスラの寝室は、執務室の奥にあった。広いが、装飾は少ない。地図と、武具と、暖炉。生活と戦が同居している部屋だった。
寝台の上に、ウルスラが横たわっている。
皮鎧は外され、白い布が胸元に当てられていた。血が滲んでいる。顔色は悪い。それでも目は開いていて、こちらを見た。
その目が、昨日や今日の柔らかさをどこかに落としてきたような目だった。冷たい。けれど、焦点ははっきりしている。
「……来たか」
声が掠れている。
ユベールは喉が詰まった。返事をするべきだ。奥様として。令嬢として。
「……はい」
やっと出た声は、小さかった。
医師が手早く説明を始める。
「斬り傷です。深い。ですが致命傷ではない。ただし縫合が必要です。閣下、動かないでください」
「動けと言われれば動く」
「軽口はやめてください」
医師は容赦がなかった。北の医師も、ゼノビアに負けないほど率直だ。
ゼノビアが布を用意し、湯を運ばせる。使用人が火を強くし、部屋が少し暖かくなる。血の匂いが濃くなる。
ユベールは、目を逸らしたくなる衝動を堪えた。詰所で感じた吐き気が、また喉元まで上がる。
でも、ここで逸らしたら。
その瞬間、自分はここにいる意味を失う気がした。
ウルスラが少しだけ顔を歪め、口元を引き結ぶ。その仕草が、痛みを耐える癖なのだと分かった。
「奥様」
ゼノビアがユベールに向き直った。目が鋭い。
「閣下は人払いを望まれています」
ユベールの胸が跳ねた。
「……人払い?」
「はい。縫合の間、余計な視線は不要です」
余計な視線。つまり、使用人を下がらせる。医師と家令と――そして奥様だけを残すということだ。
エリザが一歩前へ出ようとしたが、ゼノビアの視線がそれを止めた。
「エリザ殿。薬湯の準備を。今すぐ必要になります」
命令ではない。だが、断れない指示だった。
エリザは一瞬だけユベールを見た。その目が言う。大丈夫ですか、と。
ユベールは小さく頷いた。頷くしかなかった。
「……分かりました」
エリザが踵を返し、部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、部屋の空気が変わった。逃げ道が減る音がした。
医師が縫合の準備を始める。針。糸。消毒。手際が良い。
「奥様には、布を押さえていただきます」
医師が言った。
「……わ、分かりました」
手が震えそうになる。ユベールは布を取り、ウルスラの胸元へ当てた。血が温かい。生々しい温度が、掌を通して心臓に届く。
ウルスラがじっとユベールを見る。
その目が、不思議なほど落ち着いていた。
「怖いか」
昼間と同じ言葉。けれど意味が違う。今は、血の匂いの中で問われている。
「……少し」
正直に言ってしまった。言ってから慌てて言い直そうとしたが、ウルスラが先に言った。
「少しで済むなら、立派だ」
立派。そんな言葉で褒められたくない。ユベールは顔が熱くなり、視線を落とした。
医師が針を通し始める。ウルスラの喉が小さく鳴る。痛みを飲み込む音だ。ユベールは布を押さえる指に力を込めた。
その時。
ゼノビアが扉の方へ顔を向けた。外の気配を確かめている。使用人が廊下を行き来し、扉の外に人が集まる気配がある。屋敷の者にとって、天狼伯の負傷は大事だ。心配で、覗きたくもなるのだろう。
「――下がりなさい」
ゼノビアの声が扉の向こうへ飛んだ。低い。刃がある。廊下の気配が引く。
その隙を縫うように、医師が言った。
「奥様。布を少し上げてください。……そこです」
ユベールは言われた通り布を動かした。
その瞬間、視界に入ったものに、脳が止まった。
肌。血。縫合のために露わになった胸元。
そこにあるはずのない膨らみ。
息が止まる。
指先が凍る。
ウルスラの目が、真っ直ぐこちらを捉えた。
分かってしまう。
天狼伯。女嫌い。冷酷無比。白い結婚。
その根元が、いま、目の前にある。
「……見たか」
ウルスラが、痛みの中でもはっきり言った。
「……い、いえ、その……」
言い訳が出てこない。出てこないのに、医師は待ってくれない。
「奥様、押さえて。針が」
「……は、はい」
声が裏返りそうになる。ユベールは必死で布を戻し、押さえた。心臓が暴れている。耳の奥で血が鳴る。
ウルスラが、ほんの一瞬だけ口元を歪めた。痛みのせいか、別の理由かは分からない。
医師の手が止まった。
「閣下。少し休みます。奥様、布をそのまま」
「……ああ」
医師は道具を整え直すため卓へ向かい、ゼノビアも必要なものを確認しにそちらへ寄った。二人の背がこちらを向く。
その隙に、ウルスラが小さく囁いた。
「すまない」
すまない。
その一言の意味が多すぎて、ユベールは言葉を失った。
ウルスラは、痛みで掠れた声のまま続ける。
「……まあ、同性同士だ。許されよ」
言い方は軽いのに、目は軽くない。逃げ道を作ろうとしているのだと分かる。
ユベールは、真っ赤になってそっぽを向いた。視線を合わせたら、心臓が破裂しそうだった。
ウルスラはそこで息を吸い、そして早口になった。
「帝国では同性の婚姻は結べない。あのクソ皇帝は、私が女だってことを忘れてるのか、単なる揶揄いなのか、どっちにしろ性別を公表して令嬢を叩き返すとでも思ってたんだろう。だが、私は北を守る身だ。余計な政治の渦は持ち込みたくない。だから、乗っかってやったんだ。馬鹿らしいだろう。……いや、馬鹿なのは皇帝か」
息継ぎなしの愚痴だった。
愚痴。
なのに、胸が詰まる。
ユベールは布を押さえる手に力が入っていた。血が滲む。布が赤くなる。現実が重い。
医師が戻ってきた。
「続けます。閣下、耐えて」
「耐えている」
ウルスラは言い、顔を背ける。声は強いのに、指先がわずかに震えている。
ユベールは、ふと気づいた。
この人は、怖いのだ。
痛みが怖いのではない。守れないことが怖い。北が揺れるのが怖い。
だから、ずっと一人で抱えてきた。
針が最後の一針を通し、医師が糸を切った。
「終わりました。包帯を巻きます。奥様、布を外して」
ユベールは布を外し、医師に渡した。手が震える。顔が熱い。息が浅い。
医師が包帯を巻き、最後に手を離す。
「数日は安静。動いたら縫合が裂けます。閣下、命令です」
「……分かった」
分かった、と言う声に不満が滲む。戦場へ戻りたいのだろう。戻れないことが悔しいのだろう。
ゼノビアが医師を廊下へ送り、指示を出す。使用人が湯を換え、血の付いた布を下げる。部屋の空気が少しずつ整っていく。
そして、気づけば。
ユベールとウルスラだけが、近い距離に残っていた。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
ブックマーク、☆☆☆☆☆、リアクションを頂けると
とても励みになりまます!




