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冷酷無比な天狼伯が見初めた唯一の伴侶  作者: 錆猫てん


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04. 茶席

 午後は、邸内の小さな茶の席だった。


 大げさな茶会ではない。人数も少ない。けれど、形式は形式だ。夫婦として並ぶ。そういうことを、ここで示さねばならない。


 部屋には陽が入っていた。暖炉の火が小さく揺れ、茶の香りが立つ。焼き菓子の甘さが漂っている。北の甘さは控えめだ。皇都の砂糖の暴力とは違う。


 ユベールは椅子に座り、背筋を伸ばした。指先を揃える。目線を落としすぎない。笑顔。


 エリザの教えが、頭の中で一つずつ声になる。


 向かいにはゼノビアがいた。帳簿を片手に持っている。茶の席に帳簿。似合いすぎて、少しだけ笑いそうになる。もちろん笑わない。令嬢は、そこで笑わない。


 隣に、ウルスラが座った。


 近い。


 皮鎧の匂いがする。乾いた土と、鉄と、火の匂い。戦場の匂いだ。


 嫌ではない、と思ってしまう自分が怖かった。


「……形式だ」


 ウルスラが小声で言った。まるで、自分に言い聞かせるように。


「はい」


 ユベールも小さく答える。


 ゼノビアが茶を注いだ。動きに一分の隙もない。皇都の貴族なら、家令が自ら茶を注ぐことに驚くだろう。けれど、ここでは誰が何をするかは見栄ではなく合理で決まる。


「奥様。領地をご覧になって、いかがでしたか」


 試されている。


 そう思った瞬間、喉が乾いた。


 令嬢なら、何と答える。

 美しいですね。

 素晴らしいですね。

 勇ましいですね。

 大変ですね。


 どれも嘘ではない。けれど、どれも薄い。


 ユベールは言葉を選びながら、ゆっくり口を開いた。


「……皆さまが、閣下を信頼しているのだと思いました」


 ゼノビアの目がわずかに細くなる。冷たい目ではない。正確に測る目だ。


 隣で、ウルスラが微かに息を吐いた。その音が、妙に近い。


「信頼されるのは、楽ではない」


 ぼそり、とこぼすような声だった。


「はい……」


 返事が小さくなる。


 令嬢は、こういう話題に踏み込まない方がいい。踏み込めば演技が崩れる。演技が崩れれば、どこかで綻ぶ。綻べば終わりだ。


 分かっている。分かっているのに。


「……閣下は、お疲れではありませんか」


 言ってしまった。


 瞬間、背後のエリザの気配が強くなる。やめなさい、と言われた気がした。


 ユベールは背筋を固くした。


 ウルスラは少しだけ目を丸くし、すぐに視線を逸らした。誤魔化すように笑う。


「疲れる。だが、ここで倒れるわけにはいかない」


 冗談のような口調だった。けれど、冗談で流していい言葉ではない気がした。


 ゼノビアが淡々と口を挟む。


「閣下が倒れれば、北は倒れます」


「……そう言うな」


 ウルスラは苦笑した。


 苦笑が似合うのが、妙に腹立たしい。噂の冷酷無比はどこへ行ったのだと、そんなことまで思ってしまう。


 その時、ユベールの胸の奥で、何かが少しずれた。


 ――苛立ち。


 ふと、その言葉が浮かんだ。


 ウルスラは、ユベールに苛立ちを見せない。

 いや、苛立っていない。

 領地を歩いた時からずっと、穏やかだった。


 そう思ってしまった。


 危ない。


 期待するな。

 期待してはいけない。


 白い結婚。二年。離縁。目的。


 頭の中で何度も繰り返す。けれど、その繰り返しが少しずつ音を立てて崩れていく。


 茶の席が終わり、部屋を出る時だった。


 ウルスラが、ユベールの隣で立ち止まる。


「……今日、来てよかった」


 小さな声だった。ゼノビアにも、エリザにも聞こえないような声。


 ユベールは固まった。


「来てよかった、とは……」


「領地案内だ。令嬢に見せる必要はないと思っていた。だが……」


 ウルスラは少し言いよどみ、軽く肩をすくめた。


「貴族の話は、苛立つことが多い。だが、お前は……違う」


 違う。


 その一言だけが、胸に落ちた。


 エリザの気配がさらに強くなる。たぶん、顔が赤い、と言っている。ユベールは必死に視線を逸らし、令嬢の微笑みを作った。


「恐れ入ります」


 それしか言えなかった。


 ウルスラは短く笑い、先に歩いていく。


 その背中を見ながら、ユベールは思った。


 噂ほど酷くない、どころではない。


 この人は、怖い。


 別の意味で。


 自分の中の何かを、変えてしまいそうで。


***


 お互いの距離感がうまく測れないまま、月日は流れる。

 もうすぐ冬も終わろうとする夕方。窓の外が薄青くなる頃、遠くで鐘が鳴った。


 合図だ。


 屋敷の空気が変わる。足音が増える。声が低くなる。


 ユベールは部屋でエリザに髪をほどかれていた。疲れがどっと来て、目の奥が痛い。


 その時、扉が叩かれた。


「奥様。閣下がお呼びです」


 ゼノビアの声だった。短い。余計な説明がない。その短さが不吉だった。


 ユベールは喉が乾くのを感じた。


「……何か、ありましたか」


「境界からの報です」


 それだけで十分だった。


 胸が苦しい。怖い。逃げたい。けれど、逃げられない。


 エリザが素早く外套を手に取る。


「お嬢様。行きますよ」


「……うん」


 立ち上がり、足の震えを隠すようにスカートの裾を整えた。


 廊下へ出ると、屋敷の空気がもう戦になっていた。


 ウルスラの執務室の扉が開いている。そこから低い声が漏れていた。


「……襲撃の規模は」


「小規模です。ただし、偵察の可能性が高いと」


「なら、こちらも見せる。境界を越えさせるな」


 声は冷たい。


 冗談もない。朗らかさもない。まるで別人のようだった。


 噂の天狼伯が、そこにいた。


 ユベールは背筋が凍るのを感じた。怖い。けれど同時に、奇妙な納得もあった。


 この人は、こうやって守っているのだ。


 ウルスラがふと顔を上げ、ユベールを見る。


 ほんの一瞬だけ、目が柔らかくなった。


「ユーベル嬢。聞こえた通り、これから戦になる」


「……はい」


「あなたの安全は保証する。安心して部屋へ戻り、万が一に備えて欲しい」


 言われた瞬間、安堵が来た。


 自分は何もできない。令嬢としてここにいるだけ。そういう役割でいい。そう思えるはずだった。


 でも、なぜか胸が少し痛い。


 戻れと言われて、戻る自分が、情けなくて。


 ユベールは礼をし、踵を返した。


 背後で、鎧の擦れる音がした。武具を取る音。命令が飛ぶ音。ゼノビアの指示の声。


 屋敷が、戦の屋敷になる。


 そして、ウルスラは出ていく。


 ユベールは部屋へ戻り、扉を閉めた。


 火の匂いがする。暖炉の火。安全の火。外の冷たさを遮る火。


 その火の前で、ユベールは立ち尽くした。


 白い結婚。二年。離縁。


 それで終わるはずだった。


 ――なのに。


 何かが確かに動いてしまった気がする。


 窓の外、北の空がさらに暗くなる。


 遠くで、風が吠えた。


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