03. 視察
朝の光は、北では白い。
皇都の朝が金色に見えるのは、空気が甘いからだろう。ここでは光まで乾いていて、窓硝子を通った途端に冷たくなる。
ユベール――いや、ユーベルは寝台の中で目を開け、天井を見上げた。
高い。
昨日も思った。無駄に高いのではない。熱が逃げるのだ。だから火を焚く。だから北の家は、いつもどこかで音を立てている。薪の爆ぜる音。遠くを誰かが歩く音。金属が触れる音。
自分がここにいることが、まだ現実の重みを持たない。
「お嬢様」
カーテンを少し開けたエリザが、いつもの淡々とした声で呼んだ。
「起きられますか」
「……うん。起きる」
答えながら、ユベールは胸元を押さえた。夜のあいだ、呼吸が浅かった気がする。夢は見なかった。見たとしても、覚えていない。緊張が睡眠を削り、残ったのは、ただの疲労だけだった。
起き上がると、床が冷たい。すぐにスリッパを履かされる。エリザの動きに無駄はない。湯の入った水差しと布が用意され、顔を拭き、髪を整え、衣を重ねられる。
昨夜よりは軽い装いだったが、締め付けはやはり息苦しい。
「……息がしづらい」
「息がしづらいのは、息を止める癖があるからです」
容赦がない。ユベールは小さく呻き、言い返す余裕もなくなった。
「今日の予定を確認します」
エリザが言う。
「ゼノビア殿からの伝言です。午前は領地の案内。午後は形式的なお茶の席。閣下と並ぶ場面がございます」
「……並ぶ」
その一言が胃に刺さった。昨日の「奥様」という呼び方が、まだ皮膚の内側に残っている。
「歩幅、声、視線。全部です」
「全部って……」
「全部です」
ぴしゃりと断言され、ユベールは肩を落とした。鏡の中にいるのは、ユーベル・ローグレイ侯爵令嬢。笑えばそれらしく見える。笑わなければ、どこか不自然だ。なにより、自分が一番それを知っている。
「お嬢様」
髪留めを留めながら、エリザが少しだけ声を和らげた。
「怖いのは分かります。でも、怖い顔で行くと余計に怖くなります」
「……そんな理屈、ある?」
「あります。北の人間は、先に怯えた方を食べます」
「食べるって言うな」
エリザは口元だけで、ほんの少し笑った。笑うのだ、とユベールは思う。鉄のような人に見えて、そうでもない。
扉がノックされた。
「奥様。お支度は整いましたか」
ゼノビアの声だった。朝から気が抜けない。ユベールは背筋を伸ばした。
「はい。すぐに参ります」
高めの声を意識して答える。エリザが満足げに小さく頷いた。
***
屋敷の廊下は朝の匂いがした。
湯気。焼いたパン。金属。兵の匂いも、微かに混じる。北では生活と戦が同じ場所にあるのだと、匂いだけで分かる。
玄関ホールにはウルスラが立っていた。昨日と同じ皮鎧だが、今朝の光の下では、手入れの跡がよく見える。古い傷も、新しい擦れも、全部、使い込まれた道具のように馴染んでいた。
「おはよう、ユーベル嬢」
朗らかに言われ、ユベールは条件反射で礼をした。
「おはようございます、閣下」
その呼び方が正しいのか一瞬迷ったが、ウルスラは気にした様子もなく頷く。
「昨日は長旅で疲れただろう。今日は領地を案内する。形式だ。退屈なら遠慮なく言え」
形式、と言われると少しだけ救われる。これは仕事でいい。感情を出さなくていい。
そう思ったのに、ウルスラがふいに身を寄せて耳元で囁く。
「……噂ほど酷くないと、少しは思えたか?」
不意打ちだった。
ユベールは一瞬、言葉を失う。昨日、廊下で胸の内に浮かんだことを、まるで覗かれたような気がした。
「え、と……」
横でエリザの気配が強くなる。しゃべりすぎるな、という圧だ。ユベールは咳払いを一つして、令嬢の言葉を探した。
「昨日は……ご配慮いただき、ありがとうございました」
「礼はいい。私は責務として言っただけだ」
ウルスラは軽く肩をすくめ、先に歩き出す。
ゼノビアが後ろにつき、エリザがさらに後ろにつく。四人の列は少し奇妙だったが、屋敷の者たちは何も言わない。言わないように躾けられているのだろう。
外へ出ると、冷たい風が頬を刺した。痛い。けれど空は広い。白い光が降りてきて、空気は薄いのに、皇都より呼吸がしやすい気さえした。
「まず、城壁だ」
ウルスラが指さす。昨日、あの人が立っていた場所だろう。遠くまで見渡せる。
「冬支度が重要になる。北は噂ほど優しくない」
噂ほど優しくない。
言い方が少しおかしくて、ユベールは危うく笑いそうになった。笑うなら令嬢らしく、と思った瞬間、口角の上げ方まで意識している自分に疲れる。
城壁へ向かう途中、兵たちが訓練をしていた。金属音。号令。白い息。生きている音がする。
「閣下!」
若い兵が声を上げた。
ウルスラが軽く手を上げる。それだけで、訓練場の空気が一段締まった。恐怖ではない。尊敬より、もう少し近い。信頼の気配だった。
ユベールは胸の奥がちくりとした。皇都では、貴族が庶民に向けて手を振る姿など滅多に見ない。見たとしても意味が違う。ここではそれが合図で、返事で、連帯なのだ。
「奥様~!」
別の兵が元気よく叫んで、ユベールは反射で肩をすくめた。
「静かにしろ」
ウルスラが低く言う。怒鳴ったわけではない。けれど声に刃があり、兵はすぐに口を閉じた。
顔が熱くなる。奥様、と呼ばれることに慣れない。慣れてはいけない。
そんなユベールの横顔を、ウルスラがちらりと見た気がした。
城壁の上から見える景色は、昨日よりもはっきりと胸に刺さる。広い。荒い。寒い。守るという言葉が、単なる美辞麗句ではなく、生活そのものだと分かる。
「……怖いか?」
ウルスラが言った。
ユベールは正直に頷きそうになって、慌てて首を振る。令嬢は怖いと言うのだろうか。言うとしても、もっと柔らかく。
「少し……驚きました」
「驚くくらいでいい。怯えて動けなくなると、死ぬ」
あっけらかんと言うのが、この人らしい。怖いことを、怖がらせるために飾らない。変に格好をつけない。そういうところが、噂と違う。
***
城壁を降りたあとは、備蓄庫へ案内された。
穀物の匂い。乾いた木の匂い。ゼノビアが鍵束を鳴らし、扉を開ける。中には整然と積まれた袋と、帳簿を抱えた使用人たち。
「厳冬に備え、昨年より備蓄を二割増やしました」
ゼノビアが淡々と言う。誇るでもなく、ただ事実として。
「昨年より蛮族の動きが活発です。道も荒れます。供給は遅れがちになりますので」
ユベールは、思わず口を開いていた。
「二割で……足りますか」
しまった、と思った時には遅い。
声が令嬢のそれを忘れていた。横でエリザが小さく息を呑む気配がする。ゼノビアが目を上げる。鋭い。刺さる。喉が詰まった。
だが、ゼノビアは一瞬だけ黙ったあと、事務的に答えた。
「足りる見込みです。ただし、冬が長引けば追加が必要になる可能性は、あります」
そして、ほんのわずかに言葉を足す。
「……ご心配いただき、痛み入ります」
礼だった。形としての礼。けれど、その一言が意外だった。ゼノビアは冷たい人だと思っていた。冷たいのではなく、無駄がないだけなのかもしれない。
横で、ウルスラが低く笑う。
「こういう話をする令嬢は珍しい。釣書では、穀物より宝石の話題が多い」
ユベールの耳が熱くなった。宝石の話など、していられるか。北の厳しさを目の当りにすると、ただの飾りにどれほどの価値があろうか、と思えてしまう。
けれど、令嬢としては宝石の話をする方が正しいのだろう。自分は正しくない。だからこそ危ない。
「……失礼しました」
咄嗟に言うと、ウルスラは肩をすくめた。
「失礼ではない。助かる」
短く、それだけ言って歩き出す。
助かる。
そう言われて、胸の奥が少しだけ温かくなるのが分かった。危ない、と思う。温かくなってはいけない。ここは演技だ。白い二年。離縁。目的を忘れるな。
そう思うのに、視察は続く。
***
負傷兵の詰所には、薬草の匂いがした。
包帯の白。呻き声。低い唸り。命の匂い。
ユベールは足が止まりそうになった。血の匂いに、胃が持ち上がる。怖い。吐き気がする。
でも、逃げたら終わる。
スカートの裾を握り、息を浅くして、中へ入った。
ウルスラは迷いなく進み、負傷兵の一人の肩に手を置く。
「痛むか」
「閣下……いえ、大丈夫です」
「嘘をつくな。痛むだろう」
そのやり取りが、妙に優しかった。優しいというより、当然の確認だ。痛いものは痛い。隠すな。生きろ。そう言っているように聞こえる。
ユベールは思わず、その兵に目を向けた。顔色が悪い。汗が滲んでいる。
気づけば口が動いていた。
「……大丈夫ですか。お水、飲めますか」
声が柔らかい。
令嬢らしい柔らかさではなく、ただの人間としての柔らかさだった。
兵が驚いた顔をした。ウルスラも、一瞬だけ目を丸くする。
次の瞬間、ウルスラは低く咳払いをして視線を逸らした。照れたのか、怒ったのか分からない。分からないのに、ユベールはなぜか心臓が跳ねた。
ゼノビアが一歩前へ出る。
「奥様。ここは空気が濃いかと。お疲れが出ます」
濃い、ではなく、淀んでいる。そう言いたいのだろう。北の言葉は率直で、ゼノビアはその率直さをさらに削って使う。
「……失礼いたします」
ユベールは礼をして外へ出た。
冷たい風が肺に入って、少し楽になる。生き返る。皇都ではありえない感覚だった。
視察を終えた頃には、足が棒になっていた。慣れない靴。慣れない歩幅。慣れない緊張。頭の中が砂のように乾く。
それでも、胸の奥には小さな変化が残っていた。
冷酷無比な天狼伯は、噂ほど酷い人物ではない。
酷いどころか――不器用で、真面目で、怖いほど責任感が強い。
そんなふうに思ってしまった。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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