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冷酷無比な天狼伯が見初めた唯一の伴侶  作者: 錆猫てん


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02. 辺境

ユベールが本来の名前、男性。ユーベルが偽りの名前、女装。同一人物です。

 辺境伯領へ向かう馬車の中。


 揺れが続く。車輪が石を踏むたび、小さく身体が跳ねた。皇都の香水の甘さはとうに消え、代わりに乾いた土の匂いが増えていく。北が近い。


 ユベールは窓の外を見つめながら、そっと息を吐いた。


 どうしてこうなったんだろう。


 胸の内で何度繰り返しても、答えは出ない。出るはずもない。皇命、妹、家、噂、制度。いろいろなものが絡み合った末に、結果だけがここにある。


 彼は今、ユーベル・ローグレイ侯爵令嬢を名乗っている。


 髪は整えられ、肌には薄く化粧が施され、服は丁寧に仕立てられていた。けれど着心地は最悪だ。呼吸が浅くなる。背筋を伸ばすだけで苦しい。それでも、ばれてはいけない。


 向かいの席には、侍女エリザが座っていた。年上。目が鋭い。必要以上に喋らないが、言うべきことは容赦なく言う女だ。


「ユーベルお嬢様」


 その呼び方が、胃に刺さる。


「……はい」


「声が低いです」


「……努力しているつもりなんだけど」


「努力では足りません。息を上に。喉ではなく、鼻を通すように」


 エリザは淡々と指示を出した。情け容赦がない。だが、その厳しさが今はありがたかった。厳しくされなければ、ユベールはすぐに心が折れてしまう。


「あと、足。癖が出ています。男の歩幅です」


「馬車の中で歩いていないよ」


「立ち上がる時に出ます」


 呻くしかなかった。エリザはさらに容赦なく続ける。


「お嬢様。到着先は最前線の屋敷です。相手は天狼伯。噂通りかどうかは関係ありません。奥様として侮られれば、危険です」


「……分かってる」


「分かっているなら、姿勢を正してください」


 言いながら、エリザはユベールの髪を整え直した。指先の動きは手慣れている。こういう人が味方でなければ、たぶんもう終わっていた。


「……エリザ」


「はい」


「ボク、いや、わたし……」


「今は、ユーベルお嬢様です」


 釘を刺される。ユベールは黙った。黙るしかない。


 馬車はさらに進む。北の空は広く、雲が低い。風が強い。遠くに見える丘はどれも硬そうで、皇都の庭園の柔らかさとはまるで違った。


 怖い。


 けれど、逃げられない。


「お嬢様。大丈夫です。バレません」


 エリザが言った。


「どうして、そう言い切れるのさ」


 エリザは一瞬だけ目を伏せ、それからいつもの淡々とした声で答える。


「私が、お守りいたします」


 その言葉が妙に胸に残った。


 バレない、ではなく、守る。

 守ってくれる。その覚悟が、怖さを少しだけ薄める。


***


 辺境伯邸が見えたとき、ユベールは思わず息を呑んだ。


 石造りの建物は皇都の館より無骨で、しかし堅牢だった。装飾は少ない。壁は厚く、窓は小さい。冬を越えるための作りだと一目で分かる。庭は整っているが、花より実用の木が多い。薬草、薪になる木、果樹。美しさより、生き延びるための屋敷だ。


 門が開く。


 出迎えの列が整っていた。兵の匂いがする。空気が引き締まる。視線が痛い。


 ユベールは、ドレスの中で震える身体を必死に押さえ、馬車から降りた。裾を踏まないように。歩幅を小さく。背筋を伸ばして。笑顔を――作る。


「ユーベルお嬢様」


 エリザが小声で支える。ユベールは小さく頷いた。


 そして、その先にいた人物を見た。


 ベルナデット辺境伯――天狼伯。


 想像していた「二メートルの怪物」ではない。巨躯ではないのに、圧があった。使い込まれた皮鎧。よく手入れされた装備。顔立ちはどこか中性的なのに、目は鋭い。額には大きな傷が一本、斜めに走っている。


 その傷が、噂の代わりにすべてを語っていた。


 この人は、本当に戦っている。


 ユベールは一瞬でそう理解した。怖いのは噂の怪物ではない。この、目の前にいる現実の人だ。


 そのウルスラが、朗らかに笑った。


「やあやあ、ご令嬢。遠路はるばる我が辺境の地へようこそ。ウルスラ・ベルナデットだ」


 声は高くない。だが柔らかい。笑い方には武人らしい荒さがあるのに、不思議と嫌な感じがしなかった。


 ユベールは慌てて、教え込まれた通りに礼をする。


「はじめまして。ユーベル・ローグレイと申します。以後、よろしくお願いいたします」


 少しだけ声が裏返りそうになり、必死で抑えた。


 ウルスラは一瞬、ユベールの顔をじっと見た。視線がまっすぐで、嘘が通じない気がする。心臓が大きく跳ねる。


 だが次の瞬間、ウルスラは小さく笑った。


「可愛らしいな」


 ユベールの耳が熱くなる。横でエリザが咳払いをした。ユベールは必死に表情を保った。


 ウルスラは軽く首を振って、続ける。


「……皇帝陛下からの縁談。これほど可愛らしい方と縁を結べるとは思わなかった。だが、私の噂は知っていよう」


 その言葉の端に、ほんの少しだけ棘があった。噂を便利だと割り切っているのか。それとも、もううんざりしているのか。ユベールにはまだ分からない。


「私は常に最前線に立つ。蛮族の侵攻から帝国を守る地だ。そんな危険な場所に、あなたのような方を留めておくのは心苦しい」


 そこでウルスラは一度息を吐いた。ほんの僅かに疲れが見える。武人の疲れだ。


「だが、皇帝の意向も汲まねばならない。だから――」


 そして、正面から言った。


「白い結婚を約束する。その時は、相応の対価も支払おう」


 ユベールの胸の奥で、何かがほどけた。


 助かった。


 妹の言った通りだ。噂通り、女嫌い。だから夜のことはない。二年耐えれば離縁できる。家は守れる。自分も、男としての尊厳を踏みにじられずに済む。


「申し訳ないが、二年。耐えてはもらえないか」


 ウルスラの表情は真剣だった。からかいではない。哀れみでもない。本当にそうするつもりなのだ。


 ユベールは令嬢としての笑顔を作り、頷いた。


「……承知いたしました」


 言った瞬間、胸が痛んだ。


 承知してしまった。

 これで、もう戻れない。


 ウルスラは小さく息を吐き、視線を外した。安堵と、別の何かが混じった表情だった。責任を果たす時の顔だと、ユベールは思った。


 その場を整えるように、一人の女が前へ出る。


 家令ゼノビア。

 視線がまっすぐこちらを射抜く。屋敷の空気そのものを支配しているような目だった。


「奥様。お部屋へご案内いたします。旅装の片付け、湯の用意も済ませております」


 ――奥様。


 その呼び方が、現実を押しつけてくる。


 ユベールが一歩下がりかけた時、エリザが滑らかに前へ出た。


「奥様のお支度は私が承ります。長旅でお疲れですので、ご配慮いただけますと幸いです」


 丁寧な言葉。

 だが、はっきりとした壁。


 ゼノビアは一瞬だけエリザを見た。互いに有能だと分かる者同士の視線だった。火花は散らない。けれど、簡単には譲らないと告げ合うような静かな圧がある。


「……承知しました。必要なものがあれば、こちらで手配いたします」


 ゼノビアが引く。


 ユベールは息を吐きそうになって、慌てて堪えた。令嬢は盛大にため息を吐かない。エリザの教えが頭を叩く。


 案内される廊下は、冷えた石の匂いがした。だが暖かい。火が、ちゃんと行き届いているのだろう。


 階段を上がる途中、背後でウルスラの声が聞こえた。


「……二年だ。二年」


 誰に言ったのか。自分に言ったのか。分からない。


 けれど、その声にほんの少しだけ胸が痛んだ。


 この人は、噂ほど冷酷無比な人物ではないのかもしれない。


 そう思った瞬間、同時に別の気配も感じる。


 屋敷の視線は鋭い。

 とくにゼノビアの目は、優しさとは別の意味で逃げ場がない。


 扉の前で立ち止まる。指先に汗が滲む。ドレスの中身が、情けないほど騒ぐ。


 明日は、きっともっと大変になる。


 そう確信しながら、ユベールは震える手で静かに扉を押した。


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