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冷酷無比な天狼伯が見初めた唯一の伴侶  作者: 錆猫てん


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01. 霹靂

 北の風は、いつも乾いている。


 城壁の上に立てば、吐く息は白くほどけて、すぐに落ちる。境界の山並みは薄墨のように連なり、その向こうに、帝国が「蛮族」とひと括りにする者たちの土地がある。


 見えないものは多い。

 けれど、見えるものも少なくはない。


 風に混じる獣の匂い。焚き火の煙。遠い足音。

 北を守るというのは、そういう微かなものを拾い続ける仕事だった。


 ベルナデット辺境伯ウルスラは、城壁を降りると、鎧の継ぎ目を確かめるように手を滑らせた。使い込まれた皮鎧は軽く、硬い。身体に馴染み、戦場の土の匂いが染みついている。


 門の内側には、家令ゼノビアがいた。


 背筋の伸びた、隙のない女性。髪はきっちりとまとめられ、目は冷たいほど澄んでいる。彼女が守るのは戦場ではなく、屋敷と領地だ。守るものの種類が違うだけで、同じ戦い方をする者だとウルスラは思っている。


「閣下。皇都からの使者が到着しております」


「……またか」


 思わず、ため息が漏れた。ゼノビアは表情を変えない。


「今度は勲功の報奨の件ではございません」


「縁談だろう」


「……おそらく」


 それだけで十分だった。


 ウルスラは差し出された箱を受け取るでもなく、無造作に蓋だけを開けさせた。皇帝の紋が目に入る。呼吸が、わずかに浅くなる。


 美しい封蝋。

 封を切り、紙を広げる。


 丁寧な筆跡。整いすぎた文面。

 そういうものの裏に限って、こちらの事情など一片も斟酌しない意志がある。


 そこに書かれていたのは、驚くほど簡潔な命令だった。


 いい加減、諦めて結婚しろ。

 相手はこちらで見繕った。

 ローグレイ侯爵家のご令嬢。

 到着は――


「明日?」


 低い声が出た。呆れと苛立ちが、どちらも隠しきれていない。


 紙は薄い。

 だが、腹の底へ落ちてくる重さだけは妙にある。


 ウルスラはそのまま踵を返し、執務室へ入った。暖炉には火が入っている。北の屋敷は火を絶やせない。


 そして、書簡をそのまま火の中へ放り込んだ。


 紙はあっけなく燃えた。封蝋が溶け、皇帝の紋が歪む。

 その様子を見つめながら、ウルスラは長く息を吐く。


「……あいつ、絶対に楽しんでいるな」


 ゼノビアは静かに灰受けの位置を整えた。燃え残りが床へ落ちないように。

 そういうところが、彼女らしい。


「閣下。明日、到着してしまう以上、受け入れの準備が急務です」


「分かっている」


 分かっている。

 分かってはいるのだ。


 皇命は皇命だ。北部防衛という特殊な任務を担う辺境伯であっても、無視できるものではない。


 だが、結婚。


 ウルスラは無意識に額の傷へ触れた。まだ薄く疼く。戦場から帰還した夜、ふと鏡に映る自分を見て、知らない顔だと思うことがある。英雄だ、天狼だと呼ばれても、鏡の中にいるのはただの疲れた人間だった。


 社交には出ない。必要がない。

 必要なのは、兵と物資と境界の情報だ。貴族の笑顔など、北の風には役に立たない。


 だから実際の天狼伯を見た者は少ない。武勇だけが独り歩きし、「冷酷無比な天狼伯」という像が勝手に膨らんでいった。畏怖する者もいれば、名声に憧れて釣書を寄越す家もある。


 それらを断り続けてきた。

 噂は便利だった。勝手に怯え、勝手に距離を取ってくれる。説明しなくて済む。


 そうして、ずるずると先延ばしにしてきた結果がこれだ。


 皇帝直々の婚姻命令。

 しかも、相手は明日来る。


「……ゼノビア。相手はローグレイ家と言ったな」


「はい。侯爵家でございます。陛下が贔屓にしておられる家臣の一つです」


「巻き込まれた方は、たまったものではないだろうな」


「陛下も承知でしょう。何かしらの保証はお付けになるかと」


 保証。

 言葉だけなら、いくらでも付けられる。


 ウルスラは椅子へ深く腰を下ろし、天井を仰いだ。北の屋敷の天井は高い。熱が逃げる。だから火を焚く。だから戦う。だから守る。


「明日、来るのか」


「はい。到着次第、客間へ通します。お迎えは閣下が」


「……私が、迎えるのか」


 迎える相手は、令嬢。


 その言葉が、頭の中で妙に引っかかった。


 ウルスラはしばらく黙り、それから口を開いた。


「危険な地に縛り付けるのは本意ではない。皇命を受ける以上、形式は整える。だが、互いに踏み込まない。二年、白いまま持ちこたえれば――」


「離縁の根拠になります」


 ゼノビアが静かに継いだ。すでにそこまで読んでいた声音だった。


「承知しました。閣下のご意向として準備いたします。必要な場面でその旨を伝えられるよう、使用人にも徹底しておきます」


「頼む」


 ウルスラは燃え残った灰を見つめた。


 親友。

 そう呼べるほど、長い付き合いだ。


 だからこそ腹が立つ。分かっていて、この命令を投げてきたのだ。

 白い結婚という盾で受けるしかないと、分かった上で。


 その結論だけが、北の火の匂いの中で妙に現実味を帯びていた。


***


 時は少し遡る。


 ローグレイ侯爵邸の応接間は、香水と紅茶の香りで満ちていた。皇都の空気は北と違って重い。甘くて、息をするだけで疲れる。


「アーリア。皇室からお前に縁談の打診が来ている。相手はベルナデット辺境伯――天狼だ」


 父の声は、いつになく硬かった。侯爵は皇帝の近臣である。だからこそ逃げ道がない。


「ええ、あの身の丈二メートルもあって蛮族すら食べてしまうと噂される冷酷無比の天狼伯ですの? 嫌です。絶対に」


 娘のアーリアは反射のように言い切った。手にしていた茶菓子を置く動作にまで勢いがある。


「打診とは言え、これは皇命だ」


「でも、お父さま。天狼伯は大の女嫌いでも有名な方ではありませんか。嫁いだとして、疎まれて、ボロボロにされて、私……耐えられません」


「……それでも、皇命だ」


 父は額を押さえた。胃が痛いのだろう。皇都の政治は胃に来る。


「うーん……」


 アーリアが考え込むふりをした。

 その目が、すうっと細くなる。良くない閃きの時の目だ。


「そうだ、兄さま。ユベール兄さまを嫁がせましょう」


「は?」


 椅子の端に座っていたユベールが、素っ頓狂な声を上げた。


 次男。気弱。引っ込み思案。黙っていれば兄妹というより姉妹に見えると言われることすらある。そのせいで、家の中でも目立たない位置に追いやられがちだった。


「兄さま、私と瓜二つの美貌をお持ちですし、しっかり着飾ればバレないのでは?」


「バレるに決まっているだろう」


「でも、お父さま。天狼伯は女嫌いで有名ですの。なら、夜のことは――」


 アーリアは妙に良い笑みを浮かべた。


「白い結婚になると思いますわ」


 父が咳払いをした。現実逃避の味がする咳払いだった。


「帝国法に、二年間の白い結婚維持は離縁の根拠に認められています。兄さまが二年我慢すれば、ローグレイ家としても面目を保てますわ」


「お前……」


 父は言いかけて、言葉を飲み込んだ。


 皇命だ。断れない。

 しかし、娘を送り出すのは過酷だ。

 息子を送り出すのもどうかしている。だが、形だけで済むなら――。


「むーん……」


 呻いた父を見て、アーリアが畳みかける。


「お父さま……。いいわ、私が兄さまに聞いてみるわ。兄さまは私に優しいから、きっと了承してくれるはず」


「き、聞いてみる、じゃない。……今ここで一緒に聞いていただろう」


 ユベールの抗議は、見事なまでに頼りなかった。アーリアの勢いに押され、言葉が紙のように薄くなる。


「ねえ、兄さま。お願い。家のためよ」


 その一言は、ずるい。


 ユベールは家のためという言葉に弱い。そう言われると、自分の気持ちはすぐ後回しになってしまう。


「……ぼ、ボクは……」


「大丈夫。私の侍女を一人つけるわ。口が堅くて、有能な者を」


 アーリアは勝ち誇ったように頷いた。


「エリザをつけます」


 その名が出た瞬間、父がわずかに安堵したのが分かった。エリザはローグレイ家に長く仕える侍女で、仕事ができる。秘密を守れる。何より、命を守る実力がある。


 ユベールは抗う言葉を探した。だが、口を開くほど家の空気が固まっていく。皇命は重い。父は潰れそうで、妹は必死だ。自分が断れば、誰かが泣く。


 それが分かってしまう。


 だから、ユベールは――負けた。


「……わ、分かった。ボクが……行く」


 アーリアがぱっと笑う。


「ありがとう、兄さま」


 その笑顔に、ユベールは少しだけ救われてしまった。


 だから余計に、運の尽きだった。


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