5.伝わる温もり
クロエとフレッドはウィンドウショッピングをしながら、ディナーの時間まで街をのんびり歩くことにした。
だが、ドレスショップを出たと同時に、クロエは羞恥で顔を赤らめながら抗議の声を上げた。
「もう……フレッドお兄様がちゃんと否定して下さらないから、誤解されてしまったわ!」
「ははは、顔が真っ赤になってたね」
そう、店を出るときマダム・エメルダに微笑まれながら言われたのだ。
『フレッド様がこんなに素敵なドレスをオーダーされる恋人はどのようなご令嬢かと思いましたが、やはりクロエお嬢様でしたか! ご結婚される際には、ぜひウェディングドレスも当店にご用命なさってくださいね。腕によりをかけてお作りしますわ!』と。
それに対してフレッドは
『ええ是非、よろしくお願いしますよ。近いうちにオーダーします』
などと、さも当たり前のように、いけしゃあしゃあと言ったのだ。
祝福の微笑みを向けるマダムの笑顔が忘れられない。
「それにお前だって、否定しなかったじゃないか? それって俺と結婚してもいいって思ってるからじゃないのかい?」
確かにフレッドのことは嫌いではないし、むしろ好意はある。
だが、異性として好きなのかと問われると、クロエ自身も分からなかった。
それに女避けを堂々と頼むくらいだ。フレッドの気持ちがクロエにはないのは分かっている。
それなのにフレッドと結婚などというのは考えられない。
研究の虫でモグラと揶揄されるクロエだが、やはり叶うことなら相思相愛の相手と結婚したいのだ。
「う……そ、それは……お兄様のことは好きですけど、それとこれとは話が違うでしょ?」
「でもあそこで否定するのも、マダムに恥をかかせてしまうだろうし。彼女は口が硬いから変なことにはならないはずだよ。そもそも勘違いしたのはあちらのほうだしね」
しれっとそう言われると、それはそうかもと一瞬納得しそうになってしまった。
(でもあのドレスの配色を見たら、勘違いしてしまうのも無理はないわ)
そう考えると、やはり悪いのは悪ノリしたフレッドのように思える。
火照った顔を誤魔化すように、クロエは深いため息をついた。
むくれ気味のクロエの機嫌を取ろうと思ったのか、フレッドは苦笑しながら宥め始めた。
「悪かったよ。せっかく久しぶりに一緒に出かけられるんだ。そんな顔をしないでおくれ。お詫びにクロエの行きたいところに付き合うよ」
そう言われてしまっては、いつまでも臍を曲げるにはいかないし、フレッドを困らせるのはクロエの本意でもない。
だから、仕方ないと言うように苦笑して答えた。
「分かりました。でもね、お兄様こそ久しぶりのお休みでしょう? 今日こそはお兄様の行きたいところに行きましょうよ」
フレッドはいつもクロエの行きたいところへ連れて行ってくれる。
だがクロエの希望だけを叶えてもらうのはフェアではない。たまにはフレッドの行きたいところに行くべきだろう。
「あ、『クロエの行きたいところでいいよ』っていうセリフは無しよ?」
フレッドがいつも言うセリフをクロエが先んじて封じると、フレッドは苦笑した。
「本当に、俺はクロエがいればいいんだけどな」
だがクロエは頑として譲らないという意思を込めてフレッドを見ると、フレッドは少しだけ逡巡した。
そして、ふと思い出したように言った。
「……ああ、一か所行きたいところがあるんだ。付き合ってくれ」
「もちろんです!」
フレッドの言葉に二つ返事で応じたクロエは、フレッドと再び歩き出した。
だが、連れて行かれたのは、大通りから一本入った通りだった。
通りをしばらく歩くと今度はさらに曲がり、裏路地に入る。
そこにはすでに大通りの喧騒はなく、ただただ静かだった。
薄暗い道を、フレッドは迷いなく進んで行く。その後姿を追いつつ、クロエは少し不安になってきた。
フレッドのことだから、変な店に連れて行かれるとは思っていないが、この先に店があるとは思えない。
気づけばすっかり人の気配は消え、道は石畳からむき出しの土に変わっていた。
さすがに不安になったクロエは、慣れた道のようにすいすいと進むフレッドの背中に声をかけた。
「あの、お兄様。本当にこの先にお店があるの?」
「ふふふ、大丈夫だよ。きっとクロエも気にいる店だ」
フレッドは何か面白いことを企んでいるような、サプライズを仕掛けているような、そんな悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
これ以上尋ねてもフレッドはきっと答えないだろう。
そう察したクロエは、そのままフレッドについて歩いた。
だが、突然クロエの足元がぐらりと動いた。
「きゃっ!」
バランスを崩して倒れそうになる。このままでは転んでしまう。
そう思ったクロエの手を、フレッドの大きな手が掴んで引き上げた。
「ほら、この辺りは道も悪い。気をつけて進んで」
「あ、ありがとうございます」
そう答えると、フレッドは再び歩き出した。クロエの手を握ったまま……。
子供の頃に手をつないで歩いたことは度々あったが、久しぶりに繋いだフレッドの手は、あの時よりもずっと大きく、ずっと逞しく、がっちりとしていた。
そして、重なり合った部分からじんわりとフレッドの熱が伝わってくる。
(お兄様の手、大きい。大人の男性の手だわ)
それを意識した途端、クロエの心臓が跳ね、音を立てて動き始めた。
体の中にフレッドの体温が流れ込んだかと思う程、クロエの体温もまた上がっていくようだった。
頬が色づいているのが自分でも分かるほどだ。
本当は、「子ども扱いしないで」と手を解けることもできたはずなのだが、クロエは何故かその言葉を言うことができなかった。
何故か、離れがたく思ってしまったから。
フレッドはクロエを幼馴染だと思っているし、クロエもまたそう思っているはずだ。
(そう、お兄様にとって、私は幼馴染で女避けなのだろうし)
そのことを思い出した瞬間、それまで熱を持っていたクロエの胸が、チクリと痛んだ。
突然の胸の痛みに、思わず息が止まった。
その時、不意にフレッドが足を止めた。
「ほら。ここだよ」
そこは、路地の突き当たりにある一軒の店だった。
黒い扉には蔓が這っていて、金色であったであろうドアノブも、錆びとメッキが剥がれて所々がグレーに変色していた。
だが、建物の間からわずかに差し込む一筋の光が、スポットライトのように店に当たり、その場だけが別の世界のようにも見えた。
「ここは?」
不思議に思って問いかけるが、フレッドはその問いには答えず、代わりにゆっくりとドアを開いた。
「さあ、どうぞ」
フレッドは恭しく礼をすると、クロエに中に入るように促した。
店の中は薄暗く、ドアの外からはよく見えない。
恐る恐る店に足を踏み入れたクロエは、周囲を見回して思わず感嘆の声を上げてしまった。
「うわあ、凄いわ!」
店内には本棚が林立しており、その中にぎっしりと本が詰め込まれていた。
本屋特有の、紙とインクの香りがクロエの鼻腔をくすぐる。
クロエは吸い込まれるように店の奥へと進んだ。
並んでいる本はどれも古いもののようで、背表紙が変色していたが、興味深い内容の本ばかりだった。
魔術科学の本をはじめ、哲学書や異国で書かれたものと思われる外国語の本も多数並んでいる。
それに加え、もう絶版になって手に入らない本もあった。
「どうだい、気に入ってくれたかい?」
目を輝かせているクロエを見て、フレッドは悪戯が成功したかのような笑顔を浮かべた。
「ええ、もちろんよ! 王都にこんな素敵な本屋があるなんて知らなかったわ!」
「喜んでくれたなら俺も嬉しいよ。俺は仕事柄色んな職業の人間に会うからね。その一人に古典魔術学の学者がいて、彼から教えてもらったとっておきの本屋なんだよ」
フレッドの説明を聞きつつ、クロエの目は本に釘付けだった。
手に取ってパラパラとページをめくり、内容を確認しては、また別の本を手に取った。
(この医療魔術の本、初めて読む内容だわ。まったく新しい観点ね。これは今後の参考になるかもしれない……)
そんな風に考えながら読んでいると、不意に隣でくすくすというフレッドの忍び笑いが聞こえてきた。
思わず顔を上げてフレッドを見ると、苦笑まじりだが慈愛を湛えた青い目がクロエを見つめていた。
「どうなさったの?」
「いや、ドレスを贈った時よりも喜んでくれたなと思って。クロエらしいよ」
「えっ! い、いえ。決してドレスが嬉しくなかったわけじゃないのよ! あれもとっても嬉しかったわ!」
図星なのを誤魔化すように、早口で言うクロエを見て、フレッドはさらに笑みを深くする。
そして、ふと不思議そうに疑問を口にした。
「クロエはどうしてそんなに医療魔術が好きなんだい?」
「えっ……?」
改めて問われるとクロエ自身も理由が分からなかった。
幼少期から医療魔術の知識があった。
だが、その知識は、10歳にして有するには常識では及ばないほどの知識だったらしい。
父親も同じ医療魔術の研究者だったこともあって、医療魔術を学べる環境が整っていたのもあるだろう。
周囲は「天才令嬢」などと言って一言で終わらせるが、両親は、「教育環境だけであれだけの知識は持てないはずだ」と、首を傾げていた。
(そもそも、私はなぜ医療魔術の知識があったのかしら)
自分でもどうして医療魔術の知識があったのか、クロエも分からない。
勉強したという記憶もないし、ただ「知っていた」だけなのだ。
だからフレッドに改めて医療魔術が「好き」なのかと尋ねられても、明確な答えが見つからなかった。
「好き、とは少し違うかもしれないわ。ただ、もっともっと医療魔術の研究をしなくちゃっていう思いだけがあって……」
そう、クロエの中には医療魔術の知識をもっと身につけなければならないという焦燥感のようなものがある。
もっと研究しなくては、
もっと学ばなくては、
だが、そう感じる理由が分からない。
自分でも理解できない感情を、クロエは上手く言語化できなかった。
それでもフレッドはクロエの言葉の続きを待っている様子だった。
クロエは自分の気持ちを確かめるように、ぽつりぽつりと言葉を選ぶように話した。
「早く『誰か』のために研究しなくちゃって思うの」
「誰かって?」
手に持った本に視線を落としながら、クロエは答えた。
記憶を辿るように、『誰か』を思い浮かべようとするが、人の形が朧気に見えるだけで、記憶が砂のように崩れていくような感覚に襲われるだけだった。
「分からない。なにか……その記憶だけぽっかり無くなったみたいな感じがするの。以前会ったことのある人のような気もするし、まったく知らない人のような気もするし。……上手く伝わるかしら?」
「すまない、困らせるために尋ねたわけじゃないんだ。思い出せそうで思い出せないっていうのは、自分でももやもやしてしまうものって言うのは分かるよ。ただ、理由はどうであれ、クロエの研究は絶対にどこかの誰かのためになるものだ。だからそんな不安そうな顔をしないでくれ」
そう言ったフレッドの笑顔を見て、クロエの中の不安が払拭された気持ちになった。
そう、無理に思い出す必要はないし、クロエが研究したいという思いは変わらない。
フレッドの言う通りいつか誰かのためになる。
「うん、そうね」
クロエは自分の気持ちを確かめるように頷き、フレッドに微笑み返した。




