26.希望の光
いつものカフェにてクロエの目は外に向いているが、その瞳は外の景色を移してはいない。
もちろん、外部の音など耳には入っておらず、クロエの頭の中はクレープス病の治療法を見出すことだけで占められていた。
先ほどやった実験結果はクロエの意図したものとはならなかった。
フレッドの病状は進み、その命の灯が尽きる時間が刻一刻と迫っている。
どうしても不安に押し潰されそうになる度に、あの日フレッドに言われた言葉を思い出し、叱咤する日々が続いている。
(フレッドお兄様が信じてくれた私を信じる。絶対に助ける)
焦る気持ちとフレッドを失うかもしれないという恐れを頭を振って追い出した。
そして再び治療法の実験について思案を始めた。
(DNA損傷応答にはOTUB1の発現抑制により回復する…ということは…ああっ、もうちょっとで分かりそうなのに)
「…エ嬢?クロエ嬢?」
突然耳に自分の名前が飛び込んできて、クロエは我に返った。気づけばテーブルの脇に人が立っていた。
「ダニエル様?」
クロエが見上げると、そこには少しだけ戸惑いの表情を浮かべたダニエルの姿があった。
ダニエルは一瞬だけ視線を外した後、意を決したようにクロエに話しかけてきた。
「その…君の姿を見て、声を掛けていいのか悩んだんだが…もしかしてトリップ中だったか?なら、すまないことをしてしまった」
律儀なダニエルの事だから、クロエと目が合ったのに挨拶もしないと無視したように感じてしまうかもしれないと考えたのだろう。
だがクロエが研究に関するアイディアに集中している「トリップ」中だと声を掛けてから気づいたようで、ダニエルは申し訳なさそうな表情をしている。
「いえ、大丈夫です。ちょっと行き詰っていたので」
「その…もしよかったら少し、話をしてもいいだろうか?」
「ええ。大丈夫ですよ」
ダニエルとはラルドビア交流会で別れを告げてから、こうして会話をするのは初めてだ。
どんな会話をしていいのか分からない。ダニエルもまた何か言いたげだが黙ったままだ。
沈黙が気まずい。
その時、ラーナの元気な声が二人の間の静寂を破った。
「あ、ダニエル様いらっしゃいませ!注文はいつものでいいですか?」
「あ?あぁ」
突如として現れたラーナは、ダニエルが同じテーブルに座ると思ったようで、クロエの前に水を置きながらそう問いかけた。
その気合に押されるように、その場の勢いでダニエルがクロエのテーブルに座ることになってしまった。
「…フレッド様の事は聞いたよ。クレープス病を発症されたらしいな」
ダニエルはそう切り出した。
彼はクレープス病解明チームの一人だ。
だから、フレッドがクレープス病を発症していることを当然知っているはずだ。
「あまり病状が良くないと聞いている。この間君が開発した薬は効かなかったのか?理論的にはクレープス病の治療薬としては十分な効果があると思うんだが」
「はい、薬は効いているはずです。でも、変異細胞が予想以上に早く増殖してしまって」
「そうだったのか」
「まずは変異細胞の増殖を止めてから、開発した薬で変異細胞を死滅させる必要があると思っているんです。ユビキチン化に関与する物質が分かれば対処方法は考えられるのですが」
「でも、それが特定できないというわけか」
「はい。ある程度は絞ることができてはいるのですが、特定には至ってません。それまでにお兄様の体が持つかは分からないです」
そうなのだ。
クロエの中で、治療法についてのアタリは付けているのだが、実験する時間がまだまだ足りない。
その間にフレッドの体は病原体に冒されて、死んでしまうことは目に見えていた。
「僕の方でも、より早く人体解析を行える魔術研究を進めている。魔術工学の観点からクレープス病の進行を止める方法を考えているんだ。だから、僕が力になれることがあったら言ってくれ」
「ありがとうございます」
あのような別れ方をしたのに、クロエにそんな気遣いの言葉を掛けてくれることが素直に嬉しかった。
クロエの身勝手な思いで振り回してしまった女のことなど無視すればいいのに、そうしないダニエルはどこまでも優しい男性だと思う。
その優しさに付け込んで振り回してしまったことが、今更ながらに申し訳なく感じる。
ダニエルの顔がまともに見れず、クロエは逃げるようにティーカップを見つめた。
「はい、コーヒーをお持ちしました」
やって来たラーナがダニエルの前にコーヒーを置いたかと思うと、トンという音と共にクロエの前にアイスが置かれた。
「え?」
「ふふふ、サービスだよ」
「ありがとう。でも、アイスなんて珍しいわね」
ラルドビア国には劣るが、この国にも氷魔術はある。
だが、それは余り一般的な魔術ではなく、魔術を込めた高価な魔石でないと扱えないものだ。正直このような小さなカフェで扱える技術ではない。
驚いているクロエに、ラーナはふふふと含み笑いをした。
「実は、ダニエル様に魔石を貰ったの。ダニエル様の氷魔術って凄くて、普通の魔石よりも強力で、なんでも一瞬に凍らせてしまうんだもの!」
「一瞬で凍らせる?」
「うん。魚とか魔石をかざすだけで瞬間的に凍っちゃうのよ!お陰で食材が長持ちするから重宝してるんだ」
「それは凄いですね」
クロエは驚きながらアイスを口にすると、アイスの甘さが口いっぱいに広がり、煮詰まっていた頭が解けるような気持ちになった。
表情が少し和らいだクロエを見ていたラーナは、今度はダニエルに向き直って尋ねた。
「でも、ダニエル様。こんな凄い魔石をタダでもらって本当にいいんですか?」
「ああ、問題ない。開発途中のものだから、有効活用してもらった方がいいし、データも取らせてもらってる。こちらとしても願ったり叶ったりだ」
そう言えば、ラルドビア交流会で薔薇の花を一瞬で凍らせる工学魔術を見せてもらったことを思い出した。
もしかして、それを開発しているのだろうか?
あの時ダニエルはラルドビアの研究者であるラインツ博士と熱心に話していた。
「もしかして、ラルドビア国の魔術科学ですか?」
「ああ、そうだ。交流会であったラインツ博士とはその後もやり取りをしているんだ。君も言っていただろう?瞬間冷凍と瞬間解凍できる魔術展開をラルドビアでは開発中だと」
「ええ」
瞬間的に物体を凍結する魔術は細胞を損傷することがない。
だから瞬間的に解凍できれば、凍ったものは元との状態に復元できるのではとクロエは交流会でラインツ博士に尋ねたのだ。
「確か、金魚なら凍らせても、蘇らせることができるという話でしたね」
「覚えていたか。僕の方でもその研究を進めていて、マウスでは100%成功している」
ラルドビア国でも研究が進んでいるとは聞いていたが、あの時にはまだ金魚などの小型生物だけだった。
あの交流会から2か月も経っていない。
それなのに、そこまでの魔術を開発したことに、クロエは驚きを隠せなかった。
皆はクロエを天才と呼ぶが、その知識は時戻りで得ただけに過ぎない。
本当の天才というのはダニエルのような人物の事を言うのだろう。
「僕たちはこの技術を〝コールドスリープ〟と名付けて、今度学会で発表するつもりだ」
「コールドスリープ…」
「あぁ、凍った状態で眠りにつく状態に似ているからな」
確かに、交流会で見た薔薇の花は、瞬間的に凍り、時を止めた状態になっていた。
なかなか的を得たネーミングだとクロエは思った。
(細胞は破壊されず元の機能は失わない…生きた生物を瞬間的に凍らせて、後日解凍しても、生きたままの状態を保つ…)
クロエはラルドビア交流会でラインツ博士に尋ねたことをもう一度思い出していた。
そして一つの可能性がひらめいた。
「そうだわ…コールドスリープを使えば…」
「え?」
「コールドスリープを使えば、お兄様の時を止めることができるわ!」
「どういうことだ?」
思わず勢いよく立ち上がったクロエを、ダニエルが見上げ、驚きながら尋ねた。
「お兄様をコールドスリープさせて、時を止めることができれば、病気の進行を止めることができるわ!そうすれば治療法を確立するための時間を確保できる。利用法が確立できた段階で、お兄様を目覚めさせればいいのよ!」
そこまで言ったクロエだったが、コールドスリープの魔術はダニエルが開発したものであり、現時点では彼しか扱えない。
つまり、ダニエルの力を借りなければ、この方法は不可能だ。
フレッドへの恋心を誤魔化すようにダニエルと付き合い、そして別れてしまった自分には、さらに彼を利用するような真似はしたくない。
そのことに気づいたクロエは、冷静になって再び椅子に腰を下ろした。
「ごめんなさい。突然変なことを言ってしまって。気にしないでください」
クロエは小さく苦笑いをして、ダニエルにそう言った。
だが、頭の中ではコールドスリープの話がどうしても離れなかった。
(ランデリアス魔術展開を使うのは確実。あれについては私も知識はあるわ。なら完全なコールドスリープでなくても部分的に時を止めることは可能かもしれない)
その時、ダニエルが静かに口を開いた。
「もし、以前の関係について後ろめたく思っているのであれば気にしなくていい。僕はこれでも魔術研究者だ。研究者としてクレープス病を治したいと思っているし、そこに私情を挟むつもりはないよ」
ダニエルは真っ直ぐにクロエを見て言った。
その目には研究者としての矜持が見えた。
だが、ダニエルの申し出を素直に受けてもいいのか、逡巡してしまう。
(でもダニエル様の申し出を断るのは、研究者としてのダニエル様を否定するような気がする)
もし、クロエが逆の立場なら嫌だ。
天才ではなくとも、クロエはこれまで積み重ねた経験もあるし、学問を身に着けるための努力も惜しまなかった。
研究も実験も、途方もない時間を費やし、研究者としての矜持は自分もあるのだ。
もしクロエも逆の立場だったら、「クロエの研究だから」という理由でこれまでの研究成果を使用しないと言われたくはない。
身勝手な思いかもしれない。
しかし、クロエはダニエルの申し出を受けることにした。
「ありがとうございます。この恩は絶対に忘れません」
深く頭を下げるクロエに、ダニエルが小さく笑った。
「気にしなくていい、と言っても君は気にするだろうね。だから一つ頼みがある」
「なんでしょうか?」
「実は、コールドスリープにはいくつかまだ問題がある。それについて、君の魔術科学の知識が必要なんだ。だから僕の研究のために協力してほしい」
「分かりました。よろしくお願いいたします」
こうしてクロエはフレッドを救うための、新たな試みを行うことにした。
絶望的だった状況に、一筋の光が見えた気がした。
ダニエル…いい人過ぎだろ…と書きながら思いました。
あと2話で完結です




