25.天才なんかじゃない
クロエがまず行ったのは、5回目までの時戻りで得た知識の確認だった。
「まず一回目の時戻りでは、クレープス病は細胞変異が原因だったって分かったのよね」
細胞の中にある遺伝子にはいくつか役割があり、その一つが体を形成する細胞の増殖と抑制だ。
例えば怪我した時に、新しい皮膚が作られるが、それは細胞の増殖に当たる。
そして新しい皮膚が傷を覆うと、細胞は増殖を止めるというイメージである。
だが、細胞分裂をするとき、偶然遺伝子に「傷」が生じることがあり、それを遺伝子細胞の「変異」と呼ぶ。
今回クレープス病はこの細胞の変異——すなわち遺伝子の傷が原因で発生していることになるのだ。
「そして三回目の時戻りだと、この細胞変異がどうやって行われるのかっていうメカニズムまで分かったはずだわ」
このクレープス病は細胞の変異により、細胞が無秩序に増え続けるようになったことが原因だ。
そして、増殖する細胞が体を破壊しながら、患者が死ぬまで増え続けてゆく。その結果皮膚が変色し、そこから壊死していくというのがクレープス病の正体だ。
「でも四回目の時戻りだと、遺伝情報がタンパク質とDNAのどっちが関与しているのか、まだ分からなかった」
現在の世界線では、ここまでの解明しか進んでいない。
ダニエルを始めとした学者たちは「遺伝情報はタンパク質にある」と考えていた。
だから、先日ダニエルとカフェで話していてそれが違うと思ったのだ。
(この間、以前ダニエルに伝えた解析方法で遺伝情報はDNAにあると断定できるはずだわ)
そして前回の5回目の時戻りでクロエはクレープス病が起こるメカニズムと治療方法を確立できた。
だが、それは完璧なものでは無かったのだ。
あと一歩のところで完治まで行かず、フレッドはクロエの目の前で死んだのだ。
これまでの知識を紙に書いていた手を止め、クロエはぎゅっと目を瞑った。
眼裏には夢で見たフレッドの青白い顔が思い出される。
いや、あれは夢ではない。
これまで五回の時戻りで見た現実だ。
アロイスはこの時戻りが最後だと言った。絶対にフレッドを助けなくては。クロエにはもう後がないのだ。
ペンを握る手に力が入る。
(ここの部分が思い出せないわ。思い出すヒントはないかしら……)
研究所に併設されている図書館に向かおうと時計に目を留めたクロエは、驚きの声を上げた。
「あ、もうこんな時間だわ! お兄様の所に行かなくちゃ!」
フレッドとの面会時間はそう多くない。
加えて病状はあまり良いものではなく、体が衰弱しており長時間面会することは難しいのだ。
だから、クロエは可能な限りフレッドの病室を訪れ、同じ時間を過ごすようにしている。
一分一秒でもフレッドと長くいるために、クロエは急いで病院に向かった。
※
息を切らして病室に駆け込んだクロエを、フレッドが微笑みながら迎えた。
「そんなに急がないで来なくても大丈夫だよ」
「でも、早くお兄様にお会いしたかったんですもの」
クロエは今日もフレッドが病室で迎えてくれたことに安堵した。
いつも病院に行く途中は、もしすでにフレッドが死んでいたらどうしようと、不安に駆られる。
だから、こうして以前と変わらぬ笑顔で迎えてくれる度にほっと胸を撫で下ろすのだ。
「今日はお兄様にプレゼントを持ってきたんです」
「ん? 何かな?」
フレッドが期待に満ちた目を向けてくる。
そんな目で見られると、自分のプレゼントがフレッドの期待に応えられるか若干不安になる。
先ほどまで意気揚々と準備をしていたのに、思わず躊躇していると、フレッドが忍び笑いをしている。
「な、なんですか?」
「クロエのプレゼント、早く食べたいよ」
フレッドの言葉に、クロエの胸が跳ねた。
どうしてクロエが持ってきたのが食べ物だと分かったのだろうか?
「はは、図星か。病室に入ってから、クロエはバッグを触っていたからね。もしかして、またクッキーを焼いてくれた、とか?」
「そ、そこまで分かるのですか!?」
というか、以前もそうやってクロエの隠し事がバレてしまったのだ。
一度ならず二度までも同じ轍を踏んでしまい、クロエは内心でがっくりと項垂れた。
だが、ここまできてプレゼントを出さないわけにはいかない。
クロエは観念してバッグの中に入れていた手作りクッキーを取り出した。
「また焼いてみたんです。この間よりも上手く焼けているとは思うのだけど……」
前回の教訓を生かして焼いたので、前回よりは焦げも少ないし形も整っていると思う。料理長のテムズにも合格をもらった。
まぁお世辞なのかもしれないが。
ラッピングのリボンも曲がっていないし、自分では及第点だとは思うが、やはり自信はない。
「お前がくれるものは何でも嬉しいよ。それにこうやって俺のためにまたクッキーを焼いてくれたことが何よりも嬉しい」
フレッドはそう言いながらクロエから受け取った包みを、大切に優しく紐解いた。
小麦色に焼けたクッキーを一つ摘まむと、一口頬張ったフレッドは、すぐに破顔した。
「うん、美味しい」
その光景を見て、クロエは初めて焼いたクッキーを渡した時のことを思い出していた。
あの時、フレッドがクッキーを食べた時に感じた既視感は、クロエが以前の時戻りであった光景なのだと、今なら分かる。
同時に、このままの状態であれば以前の時戻りと同様にフレッドが死んでしまう。
だから、絶対にフレッドを助けなくては。
「思いつめた顔をしてどうしたんだい?」
ここで暗い顔をしてしまっては、フレッドに要らぬ心配をかけてしまう。
それに、研究が上手くいっていないことを知られては、フレッドがショックを受けてしまうかもしれない。
そう思ったクロエはあえて微笑んで明るい声で答えた。
「え? そんなことは、ないわ」
「でも疲れているんじゃないか?ちゃんと寝ているのか?」
「ええ、寝ているわ。心配しないで」
「俺のために無理しないでくれ」
フレッドはそう言ってクロエの手を伸ばした。
いつものように頬に触れるのかと思った手が、空中でピタリと止まった。
そのままフレッドはすっと手を引っ込めてしまう。
それが無性に寂しくて、クロエは思わず尋ねていた。
「どうして触れて下さらないの?」
「……いや、こんな手になって気持ち悪いかと思ってね」
フレッドの手の痣は、以前に比べてその面積を広げ、手の甲だけであった痣は、すでにフレッドの手を覆っていた。
だが、そんなことはクロエには気にならない。
むしろ、フレッドの体温を感じたくて、クロエから手を伸ばし、フレッドの手をそっと握った。
驚いたのか、それとも嫌だったのか、フレッドの手がびくりと小さく震えた。
「クロエ……」
「私、お兄様の手が温かくて大きくて、大好きよ。だから……もっと触れてほしいなと、思うのだけど……」
言いつつもクロエの顔に血が集中して、熱い。
自分から触れてほしいなどと、大胆なことを言っている自覚はある。
「クロエがいいのなら触れたい」
フレッドの長く少し骨ばった指が、クロエの頬を滑るように撫でた。
眼差しには甘さが含んでいて、それが嬉しくも気恥ずかしくもある。
今までは片時も離れず、常にフレッドはクロエに触れていた。それが無くなって寂しく思っていた心が、一気に満たされた気持ちだった。
※
※
病室でフレッドと共に時間を過ごしたクロエだったが、病院の外に出ると深いため息をついた。
フレッドの温もりに触れてしまったからこそ、離れた時の冷たさが身に染みる。
その冷たさにクロエが現実に引き戻された。
現状、フレッドの病気に対してまだ有効な研究結果が出せていない。
その現実がクロエの心に重くのしかかり、自然と重い足取りになってしまう。
思わずベンチに座り、空を見上げた。
時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
先日までは焼けるような日差しだったが、今はその強さは和らぎ、蒼天の空は秋特有の色を呈していた。
「お兄様の顔、病変が進んでたわ……」
病室で見たフレッドの手を思い出す。
病はじわじわと、だが確実にフレッドの体を蝕んでいることは見て明らかだ。
前回の時戻りでは、クレープス病を発症する変異細胞を死滅させる薬が開発できた。
今回もその知識を活かしてその薬を開発し、フレッドに投与しているのだが、変異細胞を死滅させても、次々に発生してしまい、焼け石に水な状態なのだ。
加えてフレッドの病状を見る限り、変異細胞の死滅速度よりも、増殖速度の方が早く、進行が進んでいるようだった。
あと一歩のところまで来ていると思う。
だがこれ以上どう対処していいのか暗中模索の状態な上、フレッドの病状を見るとあまり悠長なことも言っていられない。
視線を落とし、クロエは思わず目を固く瞑ってしまった。
そうしないと泣いてしまいそうだったからだ。
(このままじゃ、お兄様を助けられないかもしれない……)
そんな不安が頭の中を占めていく。
「クロエ……本を忘れたよ」
声を掛けられて顔を上げると、数歩先にフレッドが立っていた。
「お兄様……どうして」
「!」
病室にいるはずのフレッドが、どうしてこんなところにいるのか。
それを問おうとしたクロエを見たフレッドが、息を呑むのが分かった。
目を大きく開けて衝撃を受けている様子が伝わってきた。
「泣いていたのか……」
その言葉に慌てて顔を背け、涙を拭こうとしたのだが、フレッドの力強い手が引き留める。
この状況で泣いてないなどいう否定の言葉は無意味だ。
ただ、クロエは涙を見られまいとして顔を背けたまま俯いた。
「俺のせいだな」
フレッドの口から、ポツリとそんな言葉がこぼれ出た。
そんなことない、と言えば良かったのだ。
だが、クロエがその言葉を口にする前に、フレッドに引き寄せられ、気づいたら彼の胸に抱き込まれていた。
「……お兄様のせいじゃないわ」
「嘘だな。どれだけ一緒にいたと思ってるんだ。お前の強がりなどもう知っているさ」
そうだ。
フレッドとは幼い頃からずっと傍にいたのだ。
クロエの不安などとうに気づいているはずだ。
それがクレープス病の研究が上手くいっていないからだということも。
「クロエ、俺はお前が苦しんでいる時や悲しんでいる時、お前の支えになりたいんだ。それとも、俺には話せないほど頼りないか? その程度の存在なのか?」
「そんなことありません」
「じゃあ話してごらん。俺を助けるためにクロエが苦しんでいるのは見たくない。どんなことを聞いても大丈夫だから」
そう言ってフレッドがクロエをきつく抱きしめた。
本当は弱音なんて吐くべきではない。
そう思っているのに、布越しに伝わる体温が、不安で冷え固まったクロエの心を溶かすようで、思わず言葉が漏れてしまった。
「私は天才なんかじゃなかった。時戻りを繰り返して、今までの人生で蓄積した知識があったに過ぎないの」
だから、今までの成果はこれまでの時戻りの成果であって、現在の成果ではないのだ。
加えて以前の時戻りで得た知識以上のものを、今のクロエは持ち合わせていない。
だからクレープス病の新たな治療法という未知のものに対して、どうしたら正解にたどり着くのか、今のクロエには分からないのだ。
正解がなく、何をすればいいのか分からない。
迷路に迷い込んだような気持ちになる。
「研究を重ねて、努力をしても、結果が出ない現状で、これまでしてきたことが全て無駄なんじゃないかって思ってしまう……」
もしかして、フレッドを治すことができないかもしれない。
そんな不安が心の中で渦巻いて、絶望的な気持ちになる。
クロエは泣きながらそんな思いを吐露した。
こんなことを言ったらフレッドを不安にしてしまうだけだというのは頭では分かっている。
だけど、一度吐露してしまった思いは止まらず、同時に涙が堰を切ったように溢れてきた。
そんなクロエの背中をフレッドは優しく撫でながら、はっきりとした口調でクロエに言い聞かせるように言った。
「俺は研究の事は分からない。だけど、一つ言えるのは何事も成果を得るためには、一歩一歩順を追って進んでいくしかないんだ。俺も、ラルドビアとの国交については、早くまとめないとクロエが誰かと結婚してしまうのではないかと焦る思いがあった。
だけど人を動かす以上思うようにいかないこともたくさんあって、もう国交樹立なんて不可能だと思うこともあった。だけど、順を追って人を説得し、その信頼を積み重ねていくしか方法はなかったんだ」
形は違えどフレッドもクロエとの結婚について焦りを抱いていたのが分かる。
あの時のフレッドは疲労の色が顔に如実に表れていたし、関係各所に働きかけるのに奔走していたこともジェレミーから聞いている。
その結果、あれほど頑なに他国との交流を避けていたラルドビアが留学生を受け入れることに合意したのだ。
並大抵の努力では成し得なかったことだろう。
「クロエは今、自分の知識を整理して研究を積み重ねている。だから今の努力は決して無駄にはならない。道は間違ってないはずだよ。時戻りをしてここまでの結果を出してきたんだ。もっと自分を信じるといい」
「……もし答えが見つからなかったら?」
「クロエが時戻りを繰り返して救おうとした『誰か』は俺かもしれない。だけど、クロエの研究は俺以外の『誰か』を救うはずだ。それで俺は十分だよ」
慰めの言葉を言われても、クロエはそれに素直に納得することができない。
フレッドを救うために時戻りをしているのに、そのフレッドを救えないなら意味がないのだ。
『誰か』を救いたいのではなくて、フレッドを救いたいのだ。
その思いが伝わったのだろうか。
フレッドはクロエを抱いた手を離すと、今度はクロエの顔を覗き込んだ。
スカイブルーの瞳がクロエを捕らえる。
「それに、俺はクロエを信じている。だから俺が信じるクロエを信じてくれないか? それとも、俺の言うことは信じられない?」
クロエは首を振った。
自分の事は信じられないが、ずっと傍にいて見守ってくれているフレッドのことは信じられる。
(そう、今は泣き言を言って落ち込んでいる場合では無いわ。少しでも早く治療法を確立するのよ)
クロエはそう思い直すと、涙をぐいっと拭ってフレッドを見つめ返した。
「はい。フレッドお兄様を信じます。絶対に、お兄様を助けますね。どんなことがあっても」
クロエの力強い眼差しを見たフレッドは、また穏やかに笑った。
「それでこそ、俺が好きになったクロエだよ」
もう迷わない。
ひたすらに自分の進む道を信じて、突き進むだけだ。
クロエは今度は自分からフレッドに抱き着くと、その身体を力を込めて抱きしめた。
自分の決意が伝わるように。
この温もりを再び失わないと誓うように。




