14.新しい恋
クロエは行きつけのカフェの、いつもの席に座って、紅茶を片手に本を読んでいた。
窓の外からは柔らかな日差しが入り込み、昼下がりの店内も穏やかな空気で、クロエにとっては心地よい空間だ。
先日、隣国ラルトビアから取り寄せた細胞情報の分析法に関する学術書を一通り読み終えたクロエは、ティーカップに手を伸ばす。
少し冷めてしまった紅茶だったが、集中して本を読んでしまい乾いた喉を潤すにはちょうど良かった。
(『染色体はタンパク質とDNAの両方で構成されている』か。なるほどね。でもどっちが遺伝に関与しているのかしら?)
クロエは先ほど読んだ本の中身を思い出しながら、そんな疑問を頭に浮かべていると、窓の外から子供たちの笑い声が耳に入った。
ふとそちらに目を向けると、少年と、年の離れた少女が楽しそうに笑いながら駆けていく姿が見えた。
その姿がクロエとフレッドに重なった。
(そういえば、小さい頃、お兄様と結婚の約束をしたのだったわね)
子供の頃にフレッドが、『将来お嫁さんになって欲しい』とクロエに告げていたこと、この間の夜会の後に思い出した。
あの頃のクロエは幼すぎて「お嫁さん」という言葉の意味が分からず、単純にフレッドと一緒にいられることが嬉しくて、フレッドの申し出に頷いたのだ。
そんな子供同士のおままごとのような約束をした日が懐かしく、クロエは小さく微笑んでしまった。
クロエもフレッドにそんなことを言われていたことを思い出したのは先日のことだし、フレッドも覚えていないだろう。
そのことが少しだけ寂しく感じる。
先日、夜会でロザリーの存在を知ったクロエは、そのことに動揺した。
正直に言うと、ショックを受けたのは事実だ。
それはフレッドにとって自分が一番傍にいたと思っていたのに、クロエの知らないうちに恋人という存在がいたということも、恋人の存在を教えてくれなかったことの二重の意味で衝撃を受けたからだ。
しかし、考えてみれば、フレッドに恋人がいるのは当然のことだ。
年齢的にも適齢期な上、社交界で令嬢たちの熱い視線を一身に集めるようなフレッドが、これまで恋人を作らない方が不思議だったくらいだ。
だから、フレッドに恋人が出来るのは普通の事だし、それを祝福しなくてはならない。
クロエ自身、いずれは自分も婚約者を作る必要があり、フレッドとは距離を置く必要性も感じていた。
そう理解しているのに、気持ちが塞ぐのは何故だろう。
(そうよ、これはいいことなの。ちゃんと、祝福しなくちゃ)
クロエは自分の心に折り合いをつけるように頷くと、再び紅茶に口をつけた。
その時、テーブルにコトリと音を立てて皿が置かれた。
皿には焼き立てのスコーンと、ごろごろと大きな苺の入ったジャムが載っている。
「クロエちゃん、差し入れだよ。疲れたでしょ? 少し休憩したら?」
「ラーナさん、ありがとう」
カフェの常連であるクロエに、ラーナは度々こういったサービスをくれる。
ここのスコーンは甘さが控えめで、果実がたっぷり入ったジャムは絶品だ。
クロエはラーナに笑顔を向けると、ホカホカと湯気の立つスコーンに手を伸ばした。
「今日は研究所が休みだよね? なになに、フレッド様と待ち合わせ?」
ニヤリと笑って面白い話を期待するような表情のラーナに、クロエは苦笑して答えた。
「待ち合わせだけど、お兄様とじゃないの」
「えーそうなの? またデートなのかと思ったのに」
ラーナはそう言って非常に残念そうに口を尖らせる。
どうやらラーナはクロエとフレッドが単なる幼馴染であることに納得していないようだ。
今度こそ誤解を解かなければならないだろう。
「ラーナさん、この間も言ったけど、私とお兄様は単なる幼馴染なの。お兄様にはロザリー様っていう恋人がいるのよ」
「は? ど、どういうことよ!?」
ラーナは一瞬鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした後、慌てた様子でクロエにずずずいっと顔を近づけて尋ねた。
「私も夜会で知ったんだけど、お兄様ってばロザリー様のことを私に隠していたみたいなのよ。私も夜会で初めて知ったから驚いてしまったんだけど」
「勘違いじゃないの?」
「勘違いじゃないわよ。だって、ロザリー様のドレスはお兄様と合わせたものだったし、ファーストダンスもロザリー様だったし。腕を組んだり、結構密着していて……」
そこまで言ったクロエは、ラーナに顔を寄せると声を潜めて言葉を続けた。
「それにね、お兄様の首筋にその……赤い痣があって、ね……」
クロエの言葉を聞いたラーナは、驚いて大きな声を張り上げた。
「そ、それってキスマーク!?」
「しーーーー! 声が大きいわ」
そうなのだ。
帰りの馬車で、クロエはフレッドの首筋にある赤いうっ血痕を見つけたが、あの場所とあの大きさから察するに、どう考えても所有印だろう。
つまりはそういうことなのである。
夜会の様子から、フレッドとロザリーとの付き合いは日が浅いようには見えなかった。
ということは、クロエが知るずっと前からの関係だろう。
先日、ドレスショップに買い物に行った時にでも言ってくれても良かったのではないか?
そうじゃなくても、恋人ができたことをクロエに伝える機会はいつでもあったはずだ。
「お兄様ったら私にロザリー様のことを黙っているなんて、水臭いわよね」
そう言ってクロエが苦笑気味に小さく笑うと、話を聞いたラーナが突然怒り始めた。
「フレッド様が、そんな軽薄な男性だとは思わなかったわ! クロエちゃん一筋だと思って応援してたのに! 情報だって渡してたのに! 信じられない!」
言葉の後半の意味は分からなかったが、ラーナの怒りがひしひしと伝わってきた。
ただ、あまりの怒り心頭ぶりに、クロエは驚きながら、ラーナを宥めることにした。
「ちょ、ちょっと、ラーナさん、落ち着いて」
店内の客たちが何事が起こったのかと驚いてこちらを見ているのだが、ラーナは興奮のあまりそんなことには気づいてないようだ。
声を荒げながらドンと机を叩き、クロエを見据えた。
その目に思わずたじろいで、クロエが身を引いてしまう。
「新しい恋よ!」
「え?」
「だから、新しい恋をするのよ! あんな男のことなんて忘れて、もっといい男性と恋をすべきよ!」
「えええ……」
突然新しい恋と言われても困ってしまう。
そもそもフレッドとは恋人ではないのだから、新しい恋もなにもないのだが。
クロエが戸惑っていると、ドアベルが鳴り、ダニエルが店内に入ってきた。
そして、クロエに目を留めると、足早にテーブルまでやって来る。
「クロエ嬢、待たせてしまったか?」
「いいえ、本を読んでいたので平気ですよ」
ラーナはクロエとダニエルの顔を交互に見ると、ハッと何かに気づいたような表情をした後、にんまりと笑った。
「なーんだ、そういうことね! 心配しちゃって損しちゃった。そうよね、次よ次! 命短し恋せよ乙女ってね!」
「えっ?」
「うふふふ、ごゆっくりどうぞ~」
(絶対何か勘違いしているわ!)
あの笑い方は絶対にダニエルを恋人か何かと勘違いしているとしか思えない。
怪しげな笑いを浮かべるラーナの後ろ姿を見ながら、状況が掴めない様子のダニエルが眉を寄せて不思議そうな顔をしている。
「恋?」
「な、何でもありません!」
(また同じシチュエーションだわ……)
以前もラーナはクロエとフレッドの関係を勘違いして、同じように生暖かい視線を向けてきたが、それと同じ状況だ。
まさかラーナが「ダニエルをクロエの恋人だと思っている」なんて、前回同様言えるはずもない。
首を傾げるダニエルに対し、クロエは慌てて話題を変えることにした。
「ええと、ダニエル様は今日もお仕事だったのですか?」
「あぁ、もうちょっとで細胞情報の解析ができる魔術展開が完成しそうなんだ。だが、あと一歩足りなくて、気づいたら朝になっていたんだ」
「では寝不足なんじゃありませんか? 無理なさらないで後日でもいいですよ?」
最近、クロエはダニエルとこうやって二人でお茶をしている。
場所はダニエルの屋敷だったり、研究室だったり、たまにこうしてカフェで時間を過ごしているのだ。
というのも、この間の夜会で奇病研究について話を聞きたいというクロエの希望に応え、ダニエルが時間を割いてクロエに研究について教えてくれるためである。
気づけば奇病の研究結果の共有や意見交換をする時間を重ね、今では週に一度の頻度でダニエルと会っている。
しかし、寝不足で疲れているダニエルを付き合わせるのも申し訳ない。
心配するクロエがそう申し出るが、ダニエルは首を振った。
「いや、この程度はよくあることだし気にしないでくれ。それに君と一緒に過ごせるなら、多少の徹夜なんて苦にならないさ」
ダニエルにまっすぐに見つめられる。
その瞳に仄かな熱のようなものを感じるのは気のせいだろうか?
熱心に見つめられるが、その瞳に込められた熱の意味が分からず、クロエは首を傾げた。
「……まぁ、気づいてもらえないか」
「? どうされました?」
ダニエルが何か小さく呟くがクロエはよく聞き取ることができず聞き返したのだが、ダニエルは苦笑しただけだった。
「いや、なんでもない。そういえば、奇病について、正式にクレープス病という病名に決まったんだ。それで、君が言った細胞変異が原因だという観点から、患者を解析した結果、やっぱり遺伝情報の異常が原因だと考えられるんだ」
「つまり、その遺伝情報が何らかの原因で変化しているということですね。つまりその遺伝情報を正しく直せば病気は治せるというわけですか」
「ああ。ただ、遺伝情報を持つ染色体はタンパク質とDNAで構成されているが、まだどちらが遺伝情報を持っているかが分からない」
そう言いながらダニエルはこれまでの研究結果をまとめたレポートを見せてくれた。
そこには先ほどクロエが読んでいた学術書に書かれていたことに加え、『遺伝情報の担い手となる物質はタンパク質だ』と結論が書かれている。
だが、クロエはそれに違和感を覚えた。
(また、だわ……)
どこか遠い昔に、同じような論文を見て、その可能性が否定されたと思い浮かんだ。
周囲の人間は、クロエは天才的な閃きを持っていると言う。だが、クロエとしては様々な文献を読むことで遠い昔の記憶を思い出すという表現が正しいと思っている。
今回も同様に、レポートを読んだことでその記憶が思い出された。
「いえ、まだそうと決めつけるのは早計だと思います。なんとなくですけど、その仮説は違うと思うんです。もし、よければ今から話す方法で実験をしてもらえないでしょうか?」
クロエはそう言うと、思い浮かんだ実験方法をダニエルに伝えた。
もしクロエが「思い出した記憶」が正しければ、遺伝情報はDNAが持っているはずだ。
そしてDNAが遺伝情報を持っているのであれば、DNAが異変をきたしていることが証明される。
つまりクレープス病の原因が確定できたことになる。
「分かった。その方向で実験を進めてみる」
「また何か分かったら教えてください」
「もちろんだ」
ダニエルはクロエが言ったことをメモした後、ようやく一息ついてから、コーヒーを注文した。
そしてラーナが持ってきたコーヒーを一口飲んだダニエルは、何か躊躇いがちに口を開いた。
「その……ちょっと聞いてもいいかな」
「はい、どうされました?」
何を聞かれるのかと首を傾げるクロエに対し、ダニエルは少しばかり視線を外して問いかけた。
「クロエ嬢には婚約者はいないのかな?」
「はい、いませんよ」
「恋人は?」
「いませんけど……」
「実は、今度ラルドビアの文化交流会があるんだ。クロエ嬢が良かったら、一緒に行かないか?」
「まあ、そうなのですか! ええ、是非ご一緒させてください」
隣国ラルドビアは医療魔術の先進国だが、閉鎖的であまり他国との交流を持たない。
だから、ラルドビアとの交流会というのは、クロエにとって興味深い話だった。
二つ返事で承諾すると、ダニエルはまた口籠りながら言葉を続けた。
「それと、その後に食事でもどうだろうか?」
「もちろん、いいですよ」
快活な口調のダニエルにしては歯切れが悪く、なにやら奥歯にものが挟まった言い方に、クロエは首を傾げた。
するとダニエルは、ほんのりと顔を赤く染めながら、クロエの顔を真っ直ぐに見つめた。
「一応、デートの誘いのつもりなんだが」
「えっ!?」
「すぐに恋人になってくれとは思っていない。まずは僕を知って欲しいんだ。招待状を送るから、良ければ来てほしい。じゃあ、僕はこれで」
そう言い残してダニエルは、慌てたように席を立つとカフェから出て行ってしまった。
突然ダニエルの申し出に、頭がついていかず、クロエは一瞬頭が真っ白になってしまう。
そして閉まったドアのベルの音を聞いて、クロエはようやく我に返った。
(えっ? えええっ!? ど、どういうこと?)
驚きの余りドクドクと心臓が鳴る音だけが、耳に響く。
クロエは混乱したまま、ダニエルが消えたドアを見つめることしかできなかった。




