エピローグ そして、二人の旅は続く
三ヶ月後。
アルフレッドは、王宮の自室で荷造りをしていた。
外交官の制服は、もう着ない。昨夜、正式に返却した。代わりに、旅に適した、シンプルな服を選んだ。動きやすい革のジャケットと、丈夫なブーツ。
鏡の前に立つ。
銀色がかった金髪は、もう七十三回も櫛を通さない。適当に撫でつけるだけだ。それでも、少し跳ねている。
「……まあ、いいか」
アルフレッドは、小さく笑った。
三ヶ月前の自分なら、絶対に許さなかっただろう。だが、今は——これでいい。
コンコン。
扉がノックされた。
「はい」
エリックが、ひょっこりと顔を出した。驚いたことに、彼の作業着は洗濯されており、髪も少し整えられていた。相変わらず無造作ではあるが、明らかに櫛を通した跡がある。
「おう、アルフレッド。準備できたか?」
「……君が、清潔になるとは」
「お前がうるさいからな」
エリックは苦笑した。
「でも、まあ、悪くないかもな。清潔な服、意外と快適だ。師匠にも『お前、まともになったな』って驚かれたし」
「当然だ。人間、清潔であるべきだ」
アルフレッドは、荷物を肩にかけた。思ったより軽い。必要最低限のものしか持たない、と決めたからだ。
「では、行こうか」
「おう」
二人は、王宮を後にした。
長い廊下を歩きながら、アルフレッドは振り返った。この廊下を、何百回、何千回と歩いただろうか。完璧な靴音を響かせながら。
だが、もう、戻ることはない。
◇ ◇ ◇
王宮の門では、フィオナ王女とグスタフ老人が、二人を待っていた。
朝の光が、門を照らしている。爽やかな風が、王女のドレスを揺らした。
「アルフレッド、エリック。気をつけてね」
「ありがとうございます、殿下」
アルフレッドは、深々と頭を下げた。
「殿下の元を離れるのは、心苦しいですが——」
「いいのよ。あなたには、もっと大きな使命があるわ」
王女は微笑んだ。その笑顔には、母が子を送り出すような、優しい寂しさがあった。
「世界中の人々に、『不完全でも、心は通じる』というメッセージを、届けてあげて。そして、たまには手紙をちょうだいね」
「……はい。必ず」
グスタフ老人が、エリックの肩を叩いた。そして連盟語で話しかけた。
エリックが、小声でアルフレッドにアイゼルベルド語で教えてくれる。
「師匠が『お前は本当に成長したな』って」
エリックは連盟語で答えた。
『師匠のおかげだよ』
老人が、豪快に笑った。
『嘘をつけ。お前は、いつも自分勝手だったじゃないか。だが、それでいい。お前らしさを、失うなよ。そして——』
老人は、アルフレッドを見た。そして拙い王国語で、ゆっくりと言った。
「アルフレッドさん。エリックを、たのみます」
「……はい。必ず」
アルフレッドは、深々と頭を下げた。
エリックは、翻訳魔法具を取り出した。
「この相棒と一緒なら、俺たち無敵だ」
翻訳具の宝石が、明滅した。
まるで、「よろしくな」と言っているようだった。
◇ ◇ ◇
二人は、王都を出て、街道を歩いた。
行き先は、まだ決まっていない。ただ、『言葉の壁』がある場所へ、向かうつもりだ。
街道の両脇には、麦畑が広がっている。風が吹くたび、麦の穂が波のように揺れた。
「なあ、アルフレッド」
エリックが話しかけた。
「何だ」
「お前、後悔してないか? 外交官やめて、俺と旅するなんて」
「……後悔?」
アルフレッドは、空を見上げた。
青空が、どこまでも広がっている。雲一つない、完璧な青空だ。
いや——よく見れば、小さな雲が浮かんでいる。完璧ではない。だが、それがいい。
「後悔など、していない」
「マジで?」
「ああ。むしろ、初めて自由になった気がする」
アルフレッドは、エリックを見た。
「君と出会って、私は学んだ。完璧でなくても、人は分かり合え、幸せになれると」
「おー、お前、いいこと言うじゃん」
エリックは、アルフレッドの肩を叩いた。
「じゃあ、これから、もっと不完全になろうぜ」
「……それは、どうかと思うが」
「細かいことは、気にすんな」
二人は、笑いながら、歩き続けた。
その背中を、温かい陽光が照らしていた。
◇ ◇ ◇
その夜。二人は、街道沿いの宿に泊まった。
安宿で、部屋も狭い。ベッドは一つしかなく、エリックが「俺が床で寝るよ」と言ったが、アルフレッドが「交代で使えばいい」と提案した。
「お前、ずいぶん柔軟になったな」
「……君の影響だ」
アルフレッドは、ベッドに横になった。
窓から、月明かりが差し込んでいる。静かな夜だった。
「なあ、エリック」
「ん?」
「君は、なぜ私と旅をする?」
エリックは、床に座ったまま、答えた。
「理由? 特にないけど、強いて言えば、お前といると楽しいから」
「……それだけか」
「それだけ」
エリックは、翻訳具を手に取った。宝石が、月明かりを反射している。
「でもさ、お前といると、俺も成長できる気がするんだよな。完璧主義者の視点を学べるっていうか。お前がいるから、俺ももうちょっとマシになろうって思える」
「……私も、君から学んでいる」
「マジで?」
「ああ。不完全さの中に、温かさがあることを。そして、完璧でなくても、人は愛されるということを」
アルフレッドは、目を閉じた。
「だから、これからも、よろしく頼む。相棒」
「……おう、任せとけ。相棒」
エリックは、翻訳具を懐にしまった。
宝石の明滅が、部屋をやわらかく照らしている。
やがて、二人の寝息だけが、部屋に響いた。
◇ ◇ ◇
翌朝。二人は宿を出て、再び街道を歩いた。
朝靄が、街道を覆っている。だが、太陽が昇れば、すぐに晴れるだろう。
「なあ、アルフレッド。次はどこに行く?」
「……決めていない。君に任せる」
「マジで?お前、計画性のない旅とか、大丈夫なの?」
「初めてだ。だが——」
アルフレッドは、空を見上げた。
「君がいれば、何とかなる」
「……お前、惚れてんじゃねえの?」
「黙れ」
二人は、笑いながら、歩き続けた。
行き先は、まだ見えない。
だが、それでいい。
不完全な旅が、これから始まるのだ。
◇ ◇ ◇
数年後——
"平和の誤訳コンビ"という名は、やがて世界中に知れ渡った。
完璧主義者の元外交官と、適当な天才技師。
二人は、各国の外交問題を、独特な方法で解決していった。
時には誤訳で笑いを誘い、時には不完全な言葉で心を通わせ、時には完璧な論理で道筋を示す。
彼らの手法は、決して教科書には載らない。
だが、彼らが訪れた国々には、必ず平和が訪れた。
それは、完璧な平和ではない。
少し歪で、少し不安定で、少し笑える、不完全な平和だ。
だが、その不完全さこそが、人々の心を温めた。
◇ ◇ ◇
ある日。二人は、小さな村の広場にいた。
隣り合う村人たちが、言葉の違いで争っていたのだ。
「よし、アルフレッド。出番だぜ」
「ああ」
アルフレッドは、翻訳魔法具を起動させた。
宝石が、いつものように、脈打つように明滅した。
何度見ても、この光は美しい。不完全だが、温かい光だ。
そして、彼は村人たちに向かって、語りかけた。
「皆さん。争うのは、やめましょう。言葉が通じなくても、心は通じます」
翻訳具が、彼の言葉を変換した。
エリックが小声で「きっと、また砕けた翻訳になってるぜ」と笑った。
村人たちが、ぽかんと口を開けた。
そして、一人の老婆が、ぷっと吹き出した。
『……なんて、率直な言い方なんだい』
笑いが、広場に広がった。
争っていた村人たちも、次第に笑い始めた。
『噂通り、本当に変わった二人組だな』
『でも、なんだか憎めない。きっと、誠実な人たちなんだろう』
村人たちは、互いに手を取り合った。
アルフレッドとエリックは、それを見て、満足げに頷いた。
「今回も、うまくいったな」
「ああ」
「じゃあ、次の街に行こうぜ」
「そうだな」
二人は、村を後にした。
翻訳魔法具の宝石が、陽光を反射して、きらきらと輝いている。
不完全な、だが温かい光だった。
その光は、これからも、世界中を照らし続けるだろう。
そして、二人の旅は、今日も続く。
完璧ではない、だからこそ美しい、二人の物語。
"平和の誤訳コンビ"の冒険は、これからも、世界中で語り継がれるだろう。
【あとがき】
『氷の外交官と天才技師の誤訳外交録~相性最悪コンビの和平交渉〜』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
初めての投稿作で、執筆の楽しさと難しさをひしひしと感じた作品でした。世に物語を送り出しているすべての作者様に、心からリスペクト。
少しでも"面白かった"と感じていただけていたら嬉しいです。
もし良ければ、評価やブクマ、感想、リアクションなどいただけると、今後の執筆の励みになるので、どうぞよろしくお願いいたします。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。




