部活のはなし
次の日は土曜日で、学校は休みだった。
俺の家では休みの日でも朝ご飯は七時と決まっている。
白いご飯と、味噌汁と、半熟の目玉焼きが二つに付け合わせのキャベツの千切り。
毎日同じメニューだが俺はこの献立が気に入っている。
目玉焼きとキャベツに醤油をかけ回して、醤油さしを渡そうとすると、空は首を振った。
「えっとさ、ソースある?」
「えっ、ソース派?」
思わず聞き返していた。昨日の朝は確か醤油で食べていたのに。
「うん、ソース派。きのうは、なんか、言い出せなかったけど」
気まずそうな顔で言う。俺は内心で天を仰いだ。
「言えよ。大事だろ。目玉焼きに醤油かソースかは」
席を立って台所からソースを持って来て空に渡した。空は受け取ると嬉しそうにソースをかけて目玉焼きを食べ始めた。
「……でも醤油だと思うんだよなぁ、目玉焼きには」
自分は醤油味の目玉焼きを食べながら思わずこぼす。
「えぇ、ソースのが甘くて美味しいよ」
空が唇を尖らせる。
「いや、この黄身の半熟と醤油が合うんだって。卵かけご飯だって醤油だろ」
「でも、この白身の焦げたとことソースが合うよ。オムライスだってソースじゃない」
「オムライスと卵焼きは親戚として遠すぎるっていうか」
「卵かけご飯だって遠いよ。火が入った時点で別人だよ」
「別人って……」
目玉焼きには醤油かソースか議論をしながら朝ご飯を食べている俺たちを、台所の洗い場から母さんがなんだか微笑ましげな目で見ていたのがくすぐったかった。
*
朝ご飯を食べ終わって二人ですぐ二階の俺の部屋に向かった。
空の勉強を見る約束をしていたからだ。
空は成績が悪いわけではないのだが、違う学校に移って来たため授業の進み具合が違ったり、そもそも教科書自体が違うものだったりして大変らしい。
空の方が進みが遅れている教科を中心に、ノートを見せたりしながら空が授業で困らないように教えていく。
空が地元で使っていた教科書を見て、一際俺の目をひいたのは国語の教科書だった。
「これ、結構載ってる話が違うね」
読書好きな俺は、国語の教科書だけは習っているより先まで読んでしまうのだが、空の教科書には知らない話が載っていた。
「この教科書借りていい?」
空の地元の教科書を読みながらそう言うと、空は俺のノートを書き写しながらうん、と答えた。
「借りてどうするの?」
ノートに向き合ったまま不思議そうに言った空に返事を返す。
「読むんだよ。これ結構面白い話が入ってる」
「へぇ……本読むの好きなんだ」
空がノートから目を離して床にあぐらをかいて座っているこっちを見た。俺の学習机に座っている空は、足がつま先しかカーペットについていなくてよりちまっとして見える。
「好きだよ。大体ラノベだけど、純文学もたまに」
バランス良く読むのが大事かな、と個人的には思っている。
「へぇー僕ぜんぜん読まないや。詩は好きなんだけど……」
ふぅとため息をついてノートの書き写しに戻った空を見上げた。
「空は良いじゃない、歌上手いんだから。歌上手い方が凄いよ」
空はそうかなぁ、と呟くとノートの書き写しに戻った。俺はふと思いついた。
「そういや空って部活どうするの」
「部活?」
空はノートに向き合ったまま首を傾げた。
「うーん、帰宅部でいいかなぁ。特に今やりたいこととかないし」
「うちの学校帰宅部ないよ。部活は強制参加」
「えーっ」
空は椅子の上でぴょんと跳ね上がるとそのまま正座した。
「ないの、帰宅部」
「ないよ、帰宅部」
空はみるみる困った顔になると俺を見詰めた。そんな顔で見られても困る。
「合唱部入ればいいじゃない。うちの学校結構有名だよ」
俺が言うと空はうーんと首を傾げた。
「僕男声パートに入るとね……なんか声が浮くんだよね……低い方とか出ないし」
悩ましげに言った空に今度は俺が首を傾げる。
「空ならソプラノじゃない?変声期まだだし」
空がえっという顔をした。
「男子がソプラノ入れるの?」
「入れるよ、普通に。高い音が出れば」
言いながら昨日の空の歌声を思い返す。あの声は間違いなくソプラノだ。
「前の学校じゃ入れなかったの?」
訊くと、空はうんと頷いた。
「男子は強制的にテノールかバスだったから……ソプラノかぁ。入れるんならやってみたいな……」
空はそわそわとしている。
「やってみればいいじゃん。月曜日に一緒に担任と話ししてみよ」
俺が言うと空は嬉しさと興奮が混じった顔のまま、うんと頷いた。
夜になって、布団の上で空に借りた国語の教科書を読んでいると、隣の部屋から空のハミングが聞こえて来た。
……第九だ。
本をそっと閉じて、歌声の聞こえてくる壁を向いて横になる。
最初の夜聞いた歌声よりは苦しそうじゃない、けど寂しそうな歌声だった。
――空のお母さん、亡くなったんだよな。
ふいにそんな思いが胸に落ちてきた。
――俺の母さんが今死んだら、どんな気持ちになるだろう。
壁をじっと見て、考えて、でも答えは出なかった。歌声は続いている。
三十分くらいして、歌声は止んだ。時計を見ると、夜の十一時を回るところだった。
音を立てないように明かりを消して、布団に潜り込んで空がちゃんと眠れるように願った。
目を閉じて、眠気がさして来た頃にふと瞼の裏に蘇った光景があった。
空が初めて、この家の空の部屋を見た時。確かに空は一瞬立ちすくんだ。
先にドアを開けた俺は振り返って、その時の空の顔を見た。空はびっくりしたような、怯えたような顔をしていた。
なんであの時あんな顔をしたんだろう。それが分かれば、俺にも空の気持ちが少しは分かるだろうか。
そんな事を考えながら、眠りについた。
窓の外からは虫の声がしていた。