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空の歌

 その日はつつがなく過ぎた。

 最初は興味津々にこちらを見てくる生徒もいたが、俺と一馬がずっと一緒にいたせいか、

不用意に話掛けてきて、それで、なんでこっちに越して来たの?みたいなデリカシーに欠ける質問をすることもなかった。


 昼休み、三人で弁当を食べている時に一馬が言った。

「なんか、二人でおんなじ弁当食ってんのおもしろい」

 その日の弁当は、いつものでかタッパーにふりかけごはんと卵焼き、昨日の残りのかぼちゃの煮付けに、豚こま肉の炒めたのが入っていた。隣はと見ると、空が全く同じ弁当を大事そうに両手で抱えて食べていた。

「あ、ほんとだおんなじ」

 空はなんだか照れたように笑った。俺はそうしてくれた母さんに、なんだか嬉しくなって笑った。空は見た目に反して良く食べた。それも嬉しかった。


 *


「空のお母さんってさ」

 その夜、俺は居間で風呂上がりのアイスを食べながら母さんと向かい合っていた。

 母さんはいつものように炙ったスルメをつまみに日本酒を呑んでいる。父さんはまだ帰って来ていなくて、空は風呂に入りに行っていた。母さんはお猪口を片手に片眉を上げて続きを促した。

「空のお母さんってなんで死んだの」

 母さんはお猪口に口をつけると二、三度頷いた。

「癌で死んだって、言ったでしょ」

 それは聞いていたし、その時は人間の命なんてそんなものかと思っていた。けれど。

「まだ三十五歳だったんでしょ。早くない」

 母さんは俺の言葉を聞くとまだ酔っていない目を俺に据えた。酒に強い母は普段はたしなむ程度にしか酒を飲まない。

「あんたそれ空くんに言ってないでしょうね」

「言う訳ないだろ、そんなの」

 俺が言い返すと母さんはそれもそうかと息をついた。

「癌って若い程進行が速いんだって。……深雪は体調悪くても無理して言わない子だったから。病院に行ったときにはもう手遅れだったらしいよ」

 そっぽに視線を逸らして呟くように言う。その深雪さんが入院してから、遠方の病院まで新幹線で何度も足を運んだ母の姿を知っている。

「早いよね。三十五歳って」

 すっかり溶けてしまったアイスをかき混ぜながら俺は呟いた。

「早いよ。……でも、戻って来ない」

 母の声色に思わず顔を上げた。母は珍しく真剣な顔をしていた。

「死んだ人は戻ってこない。だから生きているうちに出来る事をするしかない。いつか死ぬ時に後悔しないように」

 死ぬ時に後悔しない人生を送りなさい。それはいつも母さんが言っている事だった。

 死ぬ時の事なんて今はまだ分からない。でも明日もし交通事故で自分が死ぬんだとしたら。そうならないとは誰にも言い切れない。

「母さん」

「なに」

 母さんはスルメにマヨネーズを付けていた。そして俺の頭の中ではまたあの、昨夜聞いた空のハミングが蘇っていた。

「年末によくテレビでやってる、オーケストラの曲ってなに?」

 母はスルメを一口囓ってぐっと日本酒を呷った。

「ベートーベン第九」


 *


 空が風呂から上がって髪を乾かし、居間で一息ついて二階に上がってから少し待った。その間耳の奥ではずっと空のハミングの歌声がしていた。

 少しして、隣の空の部屋の物音が静かになった隙を見計らって、その引き戸を叩いた。普段ならしないことだけど、その時の俺は少し大胆になっていた。

 引き戸が開いて、白い顔が覗いた。家に来てからずっと青白いきりのその顔色に、俺は言った。

「ベートーベンの第九、歌って欲しいんだけど」

「え」

 空はそう言って部屋の入り口から一歩下がった。そこに俺が踏み込んだ。

「昨日、歌ってたやつ。できれば、また歌って欲しいんだけど」

 そこまで言って俺は、自分が端から見ればおかしな事を言っているのに気付いた。しかし一度言ってしまったからには言葉は吸い戻せない。

 俺は部屋の入り口の隅っこに腰を降ろして言った。

「今日、一日頭にこびりついてて。また歌って欲しいんだ」

 俺の言葉に空は目を丸くした。それから、誰かに聞かれはしないかと思っているような小声で、こう言った。

「……第九でいいの?」

 俺は、良く分からなかったけど、頷いた。空はぱっと顔色を明るくした。

「ドイツ語の歌詞しか知らないし、独学だけどそれで良い?」

「うん、良いよ」

 正直ドイツ語も独学も分からなかったが、空が歌ってくれるならそれで良かった。空が歌ってくれるあの旋律が聴きたかった。

「……じゃ行くね」

 空は楽譜も持たずに歌い出した。


 初めて聴く歌声だった。空の普段の喋り声とも、女性のシンガーの歌声ともそれは違った。

 それは滑らかで、伸びやかで、母が若い頃触らせてくれたシルクのスカーフのさわり心地の歌声だった。

 ドイツ語の歌詞はちっとも分からなかったが、空がそれを真剣に歌っているのが分かって、俺はそれを解ろうと懸命に聴いたけれども、そんな想いも空の不思議な歌声の音色に溶けて流れて行ってしまうのだった。


 時間を忘れてそれを聴いて、終わった時、空の白い頬は紅く染まっていた。俺は最初控えめに、それから夢中で手を叩いた。それ以外に今の歌声に差し出せるものが見つからなかった。

「ありがとう」

 俺はそう言って空に手を差し出した。何故だかそうしないといけない気がした。

「あ、ありがとう」

 空は今度は恥ずかしそうに頬を染めて、その手を握り返した。

 

 何でもない日の、夜の出来事だった。

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