初登校の日
朝食が出来た、と階下から母の声が呼んだ時、寝ぼけ眼の頭にまだ昨夜のハミングの曲がぼんやりと残っていた。その心地がなんとも心地よく、旋律を頭の中で追ううちにまた母の声が無遠慮に自分を呼んだので雑に返事をして下に降りた。
居間に降りると先に空が食卓についていた。
「おはよう」
俺を見上げてそう言った空の肌は朝の光に透けて更に白く見えた。黒い目と素直に伸びた真っ直ぐな黒髪がその端正な白を際立たせている。
「おはよう」
なんとなく狼狽えながらそう口にした。空が食事に手を付けないのを不思議に思っていると、空は自分が席に着くのを待っていたようで、俺が座るのを見届けてからいただきます、と手を合わせた。
勤め先が遠いので朝早くに家を出て行く父と、家事で忙しくしている母は食卓についていない。自然と空と突き合せで食事を摂ることになった。
自分としては昨日のハミングがなんの曲なのか聞きたかったのだが、壁越しに歌声を聞いていたのがばれるのは気恥ずかしく言い出せないうちに、特に会話もなくご飯と味噌汁と目玉焼きの朝食を食べ終えた。
そのまま各々に身支度をし、母が作ってくれた弁当を受け取って二人で学校へ行く為に表に出た。母は玄関まで見送りに出てくれた。
外はまだ蝉こそ鳴いていないが酷く蒸し暑く、空はうっすらと晴れて薄日が差していた。
「今日からだよね、うちの学校」
並んで家の前の坂道を下りながら訊くと、空はこっくりと頷いた。
「うん、今日から。制服間に合って良かった」
「間に合わなかったらどうするんだったの?」
また訊きながら昨夜と違って空が敬語でないのに少しほっとする。
「前の学校の制服で良いって。でも恥ずかしいから。一人だけって」
「あーそれは確かに」
そこで会話は途切れ、少し沈黙が重たくなった頃に坂を下りきった。すると左右の林が途切れて開けた視界に、ばたばたと忙しなく駆け込んで来た同じ制服姿の人影があった。
「あー間に合った間に合った。もう行ったかと思った」
駆け込んで来た人影の正体は、幼なじみの林 一馬だ。同じ中学二年にしては背の高い俺よりも更に背が高い。日に焼けた体は体格が良く、黒髪を短くしている。
「お前俺と合流できるかどうかを遅刻の目安にするのやめろよ」
俺がそう言うと一馬は呼吸を整えながらにかっと笑った。別段整っているというのではないが、人好きのする顔だ。
「やーそれもあるけど、今日は従兄弟くん? 空くん? もいるって言うから。今日からだよね学校」
持ち前の人なつこさで空に声を掛ける。空はふわりと笑った。
「うん、今日から。初めまして、供川 空です」
「うん、はじめましてー。おれ、林 一馬っていうの。大地の幼なじみで同じクラス。空くんてクラスもう決まってんの?」
「ええと、まだ。あ、決まってるだろうけど僕は知らなくて」
顔の前で手を振る空に一馬は頷いた。
「そっかー同じクラスだと良いよね。一緒に弁当食べれるし」
「もう弁当の話かよ」
思わず笑った俺に一馬は大げさにお腹を押さえた。
「もー走ったら朝飯消化しちゃったよーこれ昼まで持たない、ぜったい」
情けない声を上げる一馬に空が声を上げて笑った。初めて聞く空の笑い声だった。もう少し笑って欲しくて、俺はわざと賑やかに笑い声を上げた。
学校に着くと、空は職員室に呼ばれているらしく昇降口で別れた。
朝のホームルーム前の教室は賑やかだ。夏服の制服の男子や女子がそこここで固まって雑談に興じている。
その教室の一角で俺と一馬も空いた机に座って話していた。話の内容は自然と空の事になった。
「なー空くん同じクラスだといいよなー。いきなり転校生でクラスに友達ゼロとか厳しいじゃん?」
「そうだよな、一緒だといいな」
同意して、あ、と気付いた。昨晩空が歌っていたハミングの曲だ。その歌声は朝からずっと頭の中に残っていた。それがどこかで聞いた曲のような気がしていたのだ。
「なぁ、あの曲知らない?」
「どの曲?」
いきなりの話題変換に一馬がむんと顔をしかめる。
「年末によくテレビで流れてる、オーケストラの曲」
「オーケストラぁ? なに? 運命?」
適当な事を言って首を捻っている。俺は少し笑った。
「お前クラシックっていえば運命だと思ってるだろ、違うよ、もっと……」
もっと、穏やかで和やかなメロディだった。それを、そうだ。あんな悲しそうな歌声で歌っていたから気になったのだ。今でもあの悲しげな歌声が耳に染み込んでいる。
「……同じクラスだと良いよね、空」
俺がぽつりと言ったのと同時にホームルーム開始のチャイムが鳴った。一馬は俺の肩をぽんと一つ叩くと自分の席に戻って行った。
俺も自分の席に座って少しすると、担任の教師が教室の戸を開けて入って来た。俺は密かにその後ろに空の姿がないか探していた。
少し野暮ったい印象の女性教師はいつもの朝の連絡を終えると、ふいに口調を変えた。
「今日はもう一つお話があります。今日からクラスメイトになる転校生です。供川くん?」
教師が教室の外に向かって声を掛けて、俺は思わずどきりとした。
空は教室に入って来ると、自然な動きで教壇の先生の横に立った。その周りの生徒と比べても一際小柄なその姿に教室中の視線が集中した。
「転校生の供川 空です。よろしくお願いします」
空は細い、それでいて良く通る声でそれだけ言うと頭を下げた。
「じゃあ供川くんは、そこの空いてる席に。みんな仲良くしてあげてね」
意外とさばさばとしている担任が、空に好きな物だとか嫌いな物だとかありがちな自己紹介の強要をしなかったことにほっとしながら一番後ろの席に向かう空を見守る。空は俺の席の横を通る時ちらりとこちらを見て、一瞬だけ嬉しそうな目をしたような、気がした。