64話
「……ひとまず、と言ったところだな」
カイセルトのそんな一言と共に、士門は掴まれていた首を、投げ飛ばされる形で離されて全身を地面に打ち付ける。
いや、士門を衝撃が襲うことはなかった。
何故ならばその地面とは、即ち砂。それも見渡す限り一面がそれだ。
『胎造せし二』に入り、カイセルトが数十歩を歩んだ先には、広大な砂漠が広がっていた。
きめ細かく、風が吹けば飛ばされるその砂を全身に浴びて、しかし士門はそれに対する嫌悪を示したりはしなかった。
投げ飛ばされ、身体が放られた先が砂だったことに気づくと同時、士門はあることにもまた気づいていた。
力が入る。
入らなかったそれが、今の体にはある。
未だ『適応』出来る様子はないが、そこはそれ。
即座に立ち上がり、辺りを見回す。
あるはずだ。ここが砂漠であり、カイセルトに引き摺られるような形で士門がここまで連れてこられたのなら、当然のように。
幸い強い風が吹いた感触はない。それが消されるようなことはないはずだ。
「…………あった」
ポツリと一言呟いて、士門はすぐに両足を動かす。
標とするのは、カイセルトに引き摺られた後の、砂のへこみ。
蟻地獄のように士門の足を絡め取る砂に目もくれず、ただそのへこみだけを見据えて士門は真っ直ぐに歩く。
その先にあるのが『胎造せし二』の先、あの門だと信じて疑わずに。
何をするのか。
決まっている。愚問に等しい。
置いてきたギメリアを救うのだ。
幸い、今の士門にはギメリアその人に与えられた魔法の知識がある。その中に、詳しく言うのなら生命属性絶級魔法に人命の蘇生を為すものもあった。
助けられる。
この先にいる彼女を、助けることが出来る。
ああ、ともすればエユクルすら救える。
あの二人を、救うことが出来る。
もしそうなったなら、嗚呼、それはもう。
残りの全てが、士門にとってどうでもいい。
「ギメリアさん! エユクル!」
どうでもいい。
誰がどうなろうとどうでもいい。
見ず知らずの他人なんかどうでもいい。
『反乱軍』の襲撃で命を落とした誰もがどうでもいい。
その命を不本意な形で終わっていようがどうでもいい。
士門の知った誰かが死のうとどうでもいい。
あの二人を助けられるのなら、他はなんでもいい。
――そう、目の前で死んだヤラも、マームも――
「――は? え? え……は?」
思わず、足を止めた。
今、自分は、何を、考えていた。
知っている誰かが死んでもどうでもいいと、その事実を目前にした時、怒りで『適応』に身を任せるほどに士門にとって重かったはずのヤラとマームの死すら、どうでもいいと、そう考えたのか。
あり得ない。
そう、余りにも、これはおかしい。
少なくとも、城から門までの道中で、士門はヤラを想い、足をもつれさせかけたではないか。
そこから、この変わりようは幾らなんでも正気を疑う。
「――何処へ行く? ギメリアのもとへ戻ろうというのか? 不可能だ」
疑惑。
一つの、些細な、しかし異常な疑惑。
もし、仮にこの疑いが本当であるのなら。
鳩羽士門という男の前提すら、大きく覆る。
思い出せ。想起しろ。
この異世界に来てからの何もかもを。
何を思った。何を感じた。何を考えた。
士門がこれまでにした一挙手一投足、一思考までも、全てが疑惑の対象だ。
一つでも見逃すことは許されない。
洗い出し、精査し、検証しろ。
証明しろ。
――今の士門が、ハトバシモンが、鳩羽士門であると証明しろ。
「――――」
果たして、あったのは士門が呆然とするに足る純然たる事実。
『適応』が使えず、その影響を受けない今だからこそ自覚できた、これまでの異常。
例えば。
何故士門は、異世界に来てすぐ、あんなにも早く身体が女であることを受け入れた。
恥じらいはあった。微かな違和感も。
だが、当然あるはずの女性の身体を動かすにあたってのぎこちなさが、一日と経たずに消えていた。抵抗すらも。
例えば。
何故士門は、カイセルトが隠している儀式の秘密を、あんなにも無警戒に受け入れ、その上で秘匿を決行した。
確かに、命の危険はあっただろう。
だが、しかし。その全容を結局知ろうとせず、ただあるがままにカイセルトの言う通りに第四以上の皇子を警戒した理由はなんだ。
どうして裏があると考え、それを行動に移さなかった。命の危険があったからこそ、そこまですべきだろう。
例えば。
何故士門は、魔法を信じて本来の瞳を覆う行為を良しとした。
それまで知らず、見たことも無く、初めての経験であったそれを信じ、本当の視界を閉ざすまでがあまりにも早すぎる。
例えば。
何故士門は、仮にも王族を前にあれだけ好意的に接することが出来た。
魔法と同じく、地球で生きてきた士門にとって、その存在はあまりにも遠い。
そんな人物たちを前に、どうして表面的な敬語だけで接していたのか。
不敬で命を取られる可能性も、当然あり得た。
例えば。
何故士門は、マームに刃を突きつけられたとき、あれほど冷静でいられたのか。
おかしいにも程がある。命の危険など、生まれてからこれまで、一度も感じたことはないだろう。にも拘らず、涼しい顔で状況判断を行った士門は異常だと言える。
その後の、首から流れ出る血を前にしても、そのまま冷静に。
例えば。
何故士門は、『適応』という力を、何の違和感もなく使おうと思えたのか。
マリンの身体がそう選んだからか。
仮にそうだとして、やはり士門にとっては未知の体験のはずだ。何故信じて使えた。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
――例えば。
何故士門は、自己を見失い、『適応』することにも恐れを示していた時、カイセルトとの会話だけで、俯いていた意識を上に向けさせられた。
士門にとって、カイセルト・ラドグラーゼと言う男はそれほどまでに信頼に値する男だったと、客観的に見た今、言えるだろうか。
否、言えない。
秘密を共有する士門にさえ、儀式の概要を伝えなかった男の、どこに信頼できるだけのものがある。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
例えば。
――そもそも。
何故士門は、目覚めた場所が異世界であると、受け止められた。
友人の言葉を思い出し、冷静になっていたからか。頭の中で、その可能性が浮かんでいたからか。身体が女のものになったからか。魔法があったからか。スキルがあったからか。人に角が生えていたからか。威圧感が地球の人間の比では無かったからか。
違うだろ。
どれもこれも、確かに士門の中でそれなりの証拠ではあっただろう。
で。
それで。
証拠があるからと言って。
どうしてここが異世界なのだと受け入れられる。
もっと驚くはずだ。もっと慌てるはずだ。もっと狂うはずだ。もっと叫ぶはずだ。
ここはどこかと。異世界なんて馬鹿げてると。おかしいと。訳が分からないと。
仮に。
現に今士門がそうであるように、ここが異世界なのだと受け入れられたとして。
――何故士門は、地球に帰りたいと思わないのか。




