54話
走る。
ひたすらに走る。
カイセルトが稼ぐと言った一分の内に、目的地に辿り着くつもりで足を動かす。
あの糞皇子が死ぬとは思っていない。きっと、何事もなかったかのように毒舌を吐き、士門の神経を逆撫でするのだろう。
心配はしていない。しない。
今すべきを、全力でするのみだと、士門は既に決意を固めた。
城から『胎造せし二』までの一直線は、城を離れてからおよそ二百キロをそれなりの斜度の下り、その後千キロは最低でもある平坦が続く道のりとなっている。
目算ではあるが、文字に起こして今一度考えてみれば、人間が走って踏破するにはあまりにも遠すぎる距離と言えるだろう。
しかし、今士門が動かすこの体は、幸いなことにおよそ人間ではない。
『異質なる鉱石』とやらを喰らった唯一の『魔女』である。
故に続く膨大な体力。先程が上限ではなく、一足で何百メートルも進む異常な脚力。
こればかりは、この体であったことを心の底から感謝する。
一歩は凄まじく、その上で次なる一歩が冗談のように早い。
いつの間にか士門は城から続く下りを降り切り、平坦に差し掛かるに至っていた。
力尽きる気配はない。それどころか、疲れる様子すらない。
これだけの速度で走っていながら、だ。
感謝はしたが、もはや引くレベルの身体能力だ。やはり士門には、それを扱い切れるだけの技量も経験もなかったということなのだろう。明らかに活かせていない。
やはり『適応』がなくては、今の士門ではマリンが本来使える力の一端しか扱えないのだ。
ともあれ、下りから平坦に移り変わったことで、士門が視界に収める景色は一変している。
これまで見下ろせば見えていた緑と民家らしき建物が、今や同じ高さにあるのだから。
庭から眺めていた大自然が目前にあることに、城からここまでやってきたのだと再確認する。
「…………」
伴って思い出されるのは、その庭で最初に出会った、年端も行かぬ皇子のこと。
今は亡き、第十皇子ヤラ・ラドグラーゼ。
助けられていたはずの命。
「…………ぁ、く」
一瞬、足がもつれかけるがすぐに立て直す。
カイセルトは、地球にいた頃の価値観は捨てろと言った。
それがこのラドルグ帝国で、或いは異世界アレーナにおいて、通用するどころか邪魔なものであると最初から分かっていたのだ。
平和な生活も、明日の保障も、絶対の生存も。
一つ残らずここにはないと、あの男には分かっていた。
けれど、士門は捨てられない。
二十年以上培った価値観を捨てられない。
一つの線引きなのだ。士門にとってそれは。
例えば、誰かを殺したとして。こうして苦しむことも出来ない者が人間と呼べるだろうか。
言えるわけがない。誰かを思いやることも出来なくて、何が人かと士門は思う。
それはきっと、ラドルグ帝国では甘ったれた愚図の論理。ともすれば一人として胸の内に秘めていない異常思考。
それでも、『魔人族』にとって士門の考えが許容できないように、異世界の死生観もまた士門にとっては許容できないものなのだ。
だから、捨てない。
このまま、甘ったれたまま。
一人の少年と、二人の女性の死を背負って、鳩羽士門は生きていく。
「…………ふぅ」
そこまで考えて、士門はようやく自分の中で一つの整理ができたと感じた。
カイセルトたちが駆けつけて、そこを深く考える余裕がなくなって、後回しにしていた胸中の不整をようやく。
自然、目線が上を向く。
いつの間にやら落ちていた視界が、開けた平坦を今一度捉えた。
踏みしめた地面が、頬を撫でる風が、見える風景が、吸い込む空気が、どこか懐かしい。
この場所に士門が来たことなど、あるはずもないというのに。
と、そう考えてふと視線を下に向ける。
今度は後ろ向きになったからではない。
ただ純粋に、確かめたくなっただけだった。
視界に映るのは、抱きかかえたギメリアと相も変わらず巨大な胸部装甲。
前者は不測の事態に備えて周囲に気を配り、何かあれば士門に伝える構えを取っている。
対する後者はと言えば、士門の一歩に対応して揺れる。ただし、一歩一歩の感覚が恐ろしく早いために揺れはあくまでも小刻みだ。
真顔で見るには些か滑稽な光景だが、士門が見たいのは、感じたいのはそこではない。
その奥。心の臓があり、心と呼ばれる非実在のものがあるとされる場所を見たかった。
そうしたのは、特にこれと言った理由があったからではない。
デジャヴなる脳のバグがある。実際は見ていないのに、これまで経験したものから、勝手に似て非なる光景を作り出し、見たことがある感覚になる、あの現象。
それが起きたのかと一瞬考えた。
けれど、士門にはそれが違う気がした。
直感でも、本能でもなく、もっと別の何かが働きかけていた。
だからこの感覚は、士門ではなく、マリンのものなのだと何となく。
そう、何となく思っただけ。
「――時間を稼いで戻ってきてみれば、随分と呑気なものだな。シモン」
「いっ!?」
思わず発される驚きの声には目もくれず、声の主は位置を士門の背後から隣に変え、並走を行い出す。
声色から察しがついているその人物に視線を向ければ、そこにいたのはやはりカイセルト。
『適応』の使用に躊躇し、マリンの身体能力を持て余していた士門を先に行かせた男だった。
「……戻ってたんですか」
「今しがたな。俺に気づかず駆ける貴様は想定した以上に滑稽だったぞ」
「そですか……」
士門の速度は相当なものだったというのに、それに一分の時間を空けた上で追いついたということは、士門以上の速度でここまでやってきたということになる。
それでいて息を切らしている様子もない。
『魔女』が何だ、ラドルグ帝国の希望が何だとおだてられてはいるが、そんなことより『稀代の神童』をもっと祭り上げた方が良かったのではないかと思ってしまうほどに、カイセルトはしれっと戻ってきたのだった。
「あ、でも戻って来れたってことは皇帝は動いてないんですね」
「そのようだ。好都合だな」
「出るまでもない、ってことでしょうか」
「さてな。奴の思惑など、考えたくもない。それより貴様」
随分とまあ、危険視していた割に適当な放っておき方をするなと思っていたところに、カイセルトから突然呼ばれ、先程のような驚きの声が上がりかけるのを何とか堪える。
そのままカイセルトの方向を見ると、微かに目を細める第五皇子がそこにはいた。
「なんでしょうか」
「儀式が成功してすぐに会話をした時より、何やらこの俺への態度がどこか親しげだな」
「いや、親しげではないでしょう」
と、そう返したところで。
確かに親しげな雰囲気が出てしまっているなと士門も思う。
まあ、恐らくはギメリアという存在の影響だろう。良くも悪くも。
彼女のカイセルトへの態度が伝染したと考えるのが妥当だ。
「お気に召さないのなら気を付けますが」
「……いや、今はいい」
「じゃあ言わないでくださいよ」
「はっ、目的地に足を踏み入れればそんな態度を取る余裕がないという話だ」
尚更一度注意した理由が分からなくなる士門だったが、これ以上問い詰めたところで更に上手い丸め込まれ方をするのが目に見えているので踏みとどまる。
カイセルトの言う事にも一理あるのだ。厄災と恐れられる場所に足を踏み入れて、こんな軽口を叩く暇があるはずはないだろう。
そんな具合に自分を納得させたところで、不意に下からの視線に気づく。




