53話
「なん……だ、これ」
士門の耳が、そんな言葉を拾う。
恐らくは『反乱軍』の者だろう。出来れば給仕たちの反応も聞いておきたいが、そうも言ってはいられない。
どう対応するかは分からないが、乗り越えるにしろ破壊するにしろ、それなりの時間がかかることは間違いない。
その隙に、『胎造せし二』に向けてひたすら走る。
追手の数が減っていてくれればベスト。
カイセルトの考えもそんなところだろうと考えた士門。
「やー、私の中の上級魔法の常識が壊れていきますねぇ」
「奴が生きていた時間にこういう機会があれば、貴様の常識の瓦解はさらに早かったがな」
遠い目で氷壁を見やるギメリアの発言に、カイセルトが事も無げにそう言い放つ。
それは暗に、こんなものではないと言っている気もしたが、ひとまずさておき。
追手の足を止めることには成功した。
後は稼げるうちに距離を稼ぐだけ。
と、そう考えた瞬間に、ぞわりと背筋に悪寒が走る。
サヴァ―リの時にも覚えた感覚だが、それとは些か毛色が異なる。
嫌な予感であることは間違いない。けれど、それはサヴァ―リの時と違い、士門に向けられたものではないことを察する。
「何が――」
思わず首を回して振り返る士門の視線の先。
士門自身が作り上げた巨大な氷壁を――熱が灼いた。
膨大な熱量が、聳える障害を溶け喰らって進んでくるのが分かる。
灼熱の息吹。そう形容するのが、最も伝わりやすいか。
そして士門は、その息吹に見覚えがある。その熱量に、経験がある。
「『灼火煉獣』……!」
あっという間に氷壁を溶かした灼熱は、それを吐く獣と同時に消え去った。
一瞬の出来事。
足止めのための障壁は、さして追手を留めることなくその役割を終えたのだ。
「チッ」
隣を走るカイセルトの、煩わしそうな舌打ちが聞こえる。
士門が見据えた視界の先には、先程まで氷壁に阻まれていた給仕たちと『反乱軍』の面々。
そして、崩壊寸前の城の上に立ち、肩で息をしながらこちらへ手を伸ばしていた第一皇子バラム・ラドグラーゼの姿があった。
「この展開を危惧して昨日奴を消耗させたのだがな……!」
「このまま逃げて大丈夫ですか!?」
「無論だ、いつ最悪が来るか知れんからな」
「誰です!」
「分からんか? 皇帝だ。奴が動き出せばそこでこの逃亡は終わりを告げる」
そう言うと、カイセルトは速度を更に上げる。
士門も慌ててその速度に合わせて疾走を開始。
後ろからは、今度こそ追手が来ていることが確認できる。
氷壁と言う障害の消えた今、追わない理由がない。
速度は士門たちが上。しかし、何が起きるか分からないと、本能が告げていた。
確かにカイセルトの言う通り。
『適応』を使うことに若干の躊躇いがある士門では、ラドルグ帝国最強には届かない。
たった一人がこの状況に入るだけで、戦況が崩壊する。
故にこそ、一秒でも早い逃亡。盤上を前提ごとひっくり返す脅威の来る前に。
「――逃がすか」
そんな声が聞こえると同時。
何かが破裂するような音と共に、こちらへ風を切りながら迫る何か。
反射的にカイセルトのいない右に飛び退く。
今度こそサヴァ―リに向けられた悪寒と同じものを、士門は感じ取っていた。
ギメリアを抱えていたがために取った大きな回避行動。
そこに、もう一つ。
気配を消し、殺気を絶ち。
今この瞬間を狙った、サヴァ―リより更に洗練された暗殺の業。
遺憾なく発揮されたそれが、士門を襲う。
「――――」
「――実に不愉快だが」
鳴る、二度の金属音。
硬いそれとそれがぶつかり合い、弾き合って生まれた刹那の振動。
それを生み出していたのは、他でもない。
「この俺が手ずから相手をしてやる。かかってくるがいい雑兵ども」
士門の隣を走っていた、カイセルトその人であった。
突然の展開に付いていけず、赤い瞳を白黒させる士門。
空気でそれを感じ取ったか、カイセルトは不服そうな声で告げる。
「一分だ。俺の足を引き摺る貴様を、俺より一分長く走らせてやる。すぐにでも辿り着け」
「い、いや、けど!」
思わず足を止め、その場に残ると言い放ったカイセルトを連れ戻そうとする。
仮にその一分で、皇帝が動き出せばどうするのだ。
そんな考えが喉から出かける。
が、それすら読み切って。
「貴様と違って、引き際如き感じ取れる。それとも何だ。この俺が、奴らに負けるとでも?」
「気にしてるのはそこじゃ……!」
危惧すべきは、先程自身が言っていた最悪だろうと再度言いかけるのを、今度はその付き人が止めた。
抱きかかえられたまま、士門の着るローブをぐいと引っ張り、
「シモン様、行きましょう」
「…………っはい」
瞳に宿るカイセルトへの信頼に、士門は自ら己を折った。
再度、常人には考えられない速度で疾走が開始される。
しかしてそれを追う者は一人もいない。
何故ならば――威圧が、それを許さない。
「……ひとまず、安心したぞ貴様ら。これすら感じ取れぬ弱者ではないようだ」
両の手に握る双剣を、手首を利かせて幾度となく回転させ、それと同期するように威圧を高める。
数百の集団が、目の前に標的を置いて、しかし動けずにいた。
誰かが言った。化け物、と。
誰かが言った。桁が違う、と。
誰かが言った。存在が違う、と。
誰かが言い、誰かが言い、誰かが言い、誰かが言い、誰かが言い、誰かが言った。
その男を形容する、ありとあらゆる賛美を、畏怖を、畏敬を、恐怖を。
「久しいな。その瞳を向けられるのは、十年も前のことか」
戦場の最中にいて、尚その男は思い出に浸る。
過去を振り返る。
それは油断が故ではない。傲慢が故ではない。
ただひたすらに、それが現実。
覆せぬ力の差があるだけ。
「さて。三度は言わんぞ、雑兵よ。――この俺が手ずから相手をしてやる」
男は、最強の魔法使いに認められた、唯一の者。
いずれ最強を継ぐとすら言われた、異常の才を有する存在。
誰が言ったか。
否、誰も彼もが言ったのだ。
即ち、『稀代の神童』と。
「かかってくるがいい」




