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もふもふ尻尾で新しい扉を開いてしまいましたが、あなたと溺愛と尻尾があれば…

作者: 藍さくら

氷雨そら様主催の「モフモフヒーロー小説企画」に参加させて頂きました。楽しんで頂ければ幸いです。

 しんしんと降る雪の中。

 美夜は、それでも、と疲れた身体に鞭打って、一歩一歩足を前に進めた。この山には転移門がないので、どうにか、今夜中には麓にまで辿り付き、開門と同時に転移門と手配した馬車を乗り継がなければ、約束の時間までに王都に辿り着かない。

 背中に背負っている麻袋の中まで雪で侵食されていないか気になるものの、荷物を改めている時間はない。

 とにかく、一歩でも前に進まなければ。

 視界を覆う水分量の多いベタ雪に、10年前にこの獣人達の国に落とされる前の、故郷岩手のことを考える。

 幸せだった家族との思い出。

 こちらに来てから、雪は、いつだって幸せな記憶を呼び起こしてくれるから。

 美夜は嫌いじゃなかった。

 それでも、今夜のこの雪は、と、零れ落ちそうな溜め息を飲み込む。

 ビジネスパートナーのトリスタンが整えてくれた魔法の装備でも厳しそうな雪。

 見えていたはずの灯りも、もう見えない。

 最短ルートを辿っている美夜以外にも、幾つかルートは確保している。でも、自分と盟友トリスタンの命を天秤に乗せるのであれば、出来ればこの布袋の荷物だけでも、どうにか届けたい。

 いや、届けなければいけない。

 この袋には苦労して手に入れた氷薔薇の蕾が植木鉢ごと何株も入っている。

 先に他の荷物はどんどんと輸送の手配をしてきたので今頃はトリスタンの元についているかもしれない。

 この薔薇も、もっと早く手に入れられれば。

 歯を食いしばりかけて、緊張や怒りで貴重な体力を雪の中で失ってはいけないと、深く深呼吸を繰り返す。

 しゃりっ、しゃりっと。

 足元は一定のリズムを刻むよう心がけ、気持ちの乱れを整えていく。

 一歩ずつでも、確実に王都は近づいてる。

 やれることは、全てやり尽くした。

 こうすれば、ああすればよかったのかもしれない、なんて考えてはダメだ。

 信じよう。トリスタンと美夜の命運を決めてしまう大事な薔薇だ。

 薔薇の性質上、ぎりぎりに、どうあっても急ぎ、丁寧に持っていく必要があった。

 頼める伝手は全て辿ったし、美夜には、最短のこのルートを踏破できる実力も、経験も備わっている。

 大丈夫だ。とにかく、進みさえすれば、夜明けには門に着く計算だ。

 想定以上の大雪だが、これくらいの雪は何度も経験しているし、岩手の雪に比べれば、うっすらでも前が見えるだけましだ。

 荷物にベタ雪の水分が染み込み、変な凍り方をしたら大変だが、それだって備えてやれるだけはやっている。

 自分達の力を信じて。

 そう己に言い聞かせても、心の震えは消えない。

 万が一にでもこの薔薇が枯れてしまっては、美夜もトリスタンも物理的に首が飛んでしまうからだ。

 獣人の、中でも男性の獣人が権力を握っているこの世界で。

 トリスタンと自分は不利な環境を、どうにかこうにか乗り越えて、やっと、自由に息を吸える状態になったのだ。

 この国で生きていく上では仕方ないとはいえ、王族のわがまま一つで物理的に首をなくすわけにはいかない。

 自分だけならまだしも。何も知らない自分を、助けてくれて、この世界で生きていけるようにしてくれたトリスタンは。

 二人で駆けてきた日々に力を振り絞り。

 必死で己を鼓舞して前へ前へと。

 一歩、一歩、脚を踏み込んでいく。


 突然。

 目の前の雪が晴れて、先程から目指していたのに見失っていた光が広がる。

 煌々と庭園の向こう側に溢れる春。

 透明な壁でもあるかのように、門の向こう側には雪も降っていない。

 馥郁たる花々の香り。

 見回せば、どこまでも瀟洒な門扉とそこから続く鉄を編んだ壁に覆われた敷地内は、果てしなく続く広大な庭園で。

 城郭の角には温室らしきものやガゼボらしきものもちらほらと散見される。

 温室が一つだけではなく、複数有されていることはもちろん、この土地の異常な豊かさは…。

 美夜は畏れるように、一歩、一歩ゆっくりとその壁に近づいた。門扉に触れることすら憚られる。

 花と蔦を模した鉄のフェンスから息を潜めるように中を伺う。

 温室ですらない庭にも、美夜が花の生育と販売などを生業としていなくても、一目でわかるほど、季節を問わない花が咲き乱れていた。

 春に咲く薄桃色の花びらが舞い踊る緩やかな風の下で。

 夏に咲く大きな白い華が湖の上に所せましと揺れている。

 優しく癒される香りのオレンジ色の花は、零れ落ちるほどの黄色の花を抱えた樹と共にフェンスの内側に燦然と並び。

 奥に見える城に向かう道は、数々の薔薇で両脇が彩られ、時にアーチにもびっしりと巻き付いていた。

 ピンク、赤、白、小さい薔薇から、大きな花弁のもの、青や紫色など、あまり見かけない色や、レースのように繊細な透けて見える花びらのものまで。

 薔薇の種類に嘆息し、息を整えるように視線を端から端まで滑らせる。

 桔梗、ハイビスカス、アジサイ、ジャスミン。知っている花だけでも季節を問わずありとあらゆる花が視界に広がっている。

 竜胆、ガーベラ、日々草、スイートピー。お互いの香りを邪魔しない程度に、仄かに、でも優しく花の香りも漂ってくる。

 花だけではなく、緑も多いからだろうか。

 所せましと花が咲いている割には、雑多なイメージもなければ、匂いがきつすぎることもない。

 ただ、心やすらかになる、人が整えた緑と花の楽園。

 先ほどまでの雪景色とは一転した庭園に、魅せられたように吸い寄せられる。


「ごめん、ください」


 震える指先を、もう片手でそっと押さえつけて、ダメ元で押した門扉は、きぃっと小さな音を立てて奥へと簡単に押し出せた。

 慌てて、雪の中へと一歩後ずさる。

 ホワイトアウトする視界に、消えた楽園を探してきょろきょろと周りを見渡す。

 門扉の影どころか、花々の香りすら消え失せていて。

 美夜は相当に爵位の高い貴族の隠れ家なのだろうと推察しながら、覚悟を決めて、もう一度、一歩を踏み出した。

 再び現れた門扉には、人を呼び出すための仕掛けなどもないようで。

 魔法で管理をされているのだろうと思いつつ、見えていないことがわかっていながらも、静かに一度、深く頭を下げて、そっと足を踏み入れた。

 雪を払い落として、恐る恐る城へと道を進んでいく。

 ブルームーン、希望、乾杯。

 奇しくも日本での薔薇と同じ名前のものから。

 冬薔薇、虹薔薇、春野薔薇、棘薔薇に、泉薔薇、海薔薇、クイーンエリーゼ、シーソルトなどこちら独自の一般的な薔薇。

 ミヤという美夜が交配して作り出したした薔薇も植えられている。その薔薇にそっと顔を近づけて、大好きな香りを胸一杯に深く吸い込む。

 薔薇の道に少しだけ緊張を解きながらも、美夜はこれだけの薔薇をそろえた庭を擁する、広大な城がこのような雪深い山奥に隠されているなど噂レベルでも聞いたことがないと首を傾げた。

 そもそも、このあたりは、美夜が落とされた、生まれ育った岩手の山奥の村に似た、鄙びた村があるぐらいで、領主すらもっと麓に領館を構えている。

 道らしい道もなく物資も乏しいのに、人知れずこの規模の城があるということは、確実に、獣族の中でもかなり力があるか、魔力に秀でた大貴族が住んでいるか、道楽の別宅かもしれない。

 そうなると、助けを求めても、何も得られない可能性もある。

 花を愛する仲間として、多少なりとも助けてもらえるかもと、一瞬、緩みかけていた気持ちを、美夜は改めて引き締めた。

 王女からのわがまま、もとい、王女令による薔薇を、どうしても明後日までに届けなければいけないのだ。こちらは。

 夜会会場をトリスタンがこの薔薇で飾ることを考えたら、朝までに麓に付き、明日の夜までには王都に着くのがベスト。

 トラブルなども考えれば、余裕を持った一日のことなど、考えない方が良いのだ。

 とにかく、一日でも、一刻でも早く。

 とはいえ、ぼろぼろになった薔薇では意味がない。いかに希少な氷薔薇といっても、美しくなければ、花ではないのだ。

 王女殿下にとっては。

 これだけの力を持っていそうな貴族であれば、転移門は無理でも、通信ぐらいは貸してもらえるかもしれない。それが無理でも、せめて、雪で状態が不安な氷薔薇のメンテナンスだけでも。

 貴族なら、王女の願いをかなえることに賛同して、もしくは、これだけの花を愛でる人である以上、氷薔薇のために。

 美夜に協力してもらえないかと。

 期待を微かに持って城を目指しているものの、逆に考えて不安になる。

 もしこれが王族相当の持ち主の庭であれば、王女への忖度などしないだろうし、何なら面倒がって関わってもらえない可能性もある。別宅であれば、本人が不在の場合も。もっと言えば、こんな山奥に隠されたものすごい城を所持している時点で、変わり者の厭世的な人である可能性も高い。

 そうなると、助けてもらうどころか、トリスタンと連絡を取らせてもらうことすら難しいかもしれない。

 止まってしまった足を動かすことを躊躇い、すがるように薔薇の道を見る。

 引き返して、麓に一直線に雪の中を目指した方が良いかもしれない。

 さ迷う視線に一輪の薔薇が目に止まる。明るいイエローの半剣弁から、優しく甘いピンクに先端の色が変わる大輪のバラ。

 平和を祈る、優しい薔薇の姿に勇気付けれる。

 きゅっと唇を噛み締めると、もう一度、目を前に向け、必死に足を動かす。

 雪でかなりの時間を失っているのだ。

 足を止める時間なんてない。

 一刻も早く、トリスタンと連絡を取らなければ。

 そして、氷薔薇を、手早く状態確認してメンテナンスをしなければ。

 これまた敷地と同じくらい手がかかっていそうな荘厳な玄関口に足早に駆け込んだ。

 人族の女性としては、背が高いな、と揶揄される美夜でも二人分ぐらい縦に通れそうな巨大な扉に、今度は大きなノッカーが付いている。

 獅子を模したこれまた大きなノッカーを片手で持ち上げて打ち付ける。


 カン。


 響いたはずの音が虚空に吸い込まれるようで。

 途方に暮れた美夜はしばらく内部の気配を窺っていたものの、どこからも人が動く気配も感じられず、そっと麻袋を下すと、今度は両手で強く二度打ち付けた。


 ガンガン。


 二度強く響いた音の後、覚悟を決めてドアを押し開ける。

 これだけ煌々と明かりがついた建物なのに、人の気配がない。

 もし、最悪、使用人ですらここに住んでいないのであれば、せめて、氷薔薇だけでもしばらく涼しい場所に置かせてほしい。

 雪が降っていないこの庭園であれば、麻袋のまま、しばらく置いていても雪と水のダメージから回復できるかもしれないが、これだけの花が咲き乱れる庭園の気温がどうなっているかもわからない。下手に外に置いてメンテナンスをすることで、根元を覆っている氷が解けてしまうとことだ。

 室内の、できれば冷蔵庫や氷室を借りれたらありがたいが、人が住んでいないのであればこの庭園よりは温度が低い部屋があるかもしれない。

 そこで花だけでも、数時間、いや、数十分でいいので、置かせてほしいと頼みたい。


「すみま…っ…!」


 誰もいないのかと思いながらも、再度、先程より大きな声をあげかけた声を、慌てて美夜は呑み込んだ。

 慌てて最上級の礼を尽くそうと、地面へと傅こうとした様子を遮られる。


「よい。礼は不要だ。ドリノはもう下がって寝るよう申し付けているからな。出てくるのに遅くなったが、門扉に触れた時から、そなたが訪れていたことは分かっていた。礼はもう既に入り口でしたであろう。それよりも、こんな深夜に何用だ」


 螺旋階段の上から、天女のごとき美麗な顔の男性がゆっくりと降りてくる。

 薄い水色の、氷薔薇の花弁を彷彿とさせる長いストレートの髪が、小さな顔の両脇でさらりと揺れる。

 小首を傾げた仕草も、蠱惑的だ。

 ここが獣達が人を侮る世界だと言っても、これだけの美を前にしたら、いかに人族相手とはいえ、誰もが傅くのではないかと疑いたくなるほど可憐だ。

 ただし、美夜の視線は、久しぶりに見た人型の姿よりも、その背後に揺れているふさふさとした尻尾にくぎ付けだった。

 美夜の腕よりも長い白いふさふさの尻尾。 

 獣でいうならば、狐か狼か。太く大きく触りがいがありそうなもふんもふんの冬毛。

 その豊かな尻尾が、ゆらゆらとゆれ、たしんたしんと歩みに合わせて階段の手すりに打ち据えられていた。

 つい目をやってしまう尻尾から、なんとか視線を引きはがし、美夜は、この庭の持ち主であれば、と微かな望みを抱いていたことを願いかけて、声に出せず呑み込む。


「…っ」


 この美貌。

 当たり前のように礼を遮る不遜さ。

 誰かをもう、寝かせたと、指示を出したような発言。

 入ってきた時から美夜の動きが分かっていたといくことは。

 つまり、この城の持ち主で魔力を持っていることは間違いなく。

 予想通りの高位の貴族か王族だとすれば。

 人の姿をした、高位の貴族はいない。

 王族では、ただ一人だけ。

 美夜の予想が正しければ。

 この方は、呪われた王弟殿下。

 ためらい、呑み込み。

 それでも、自分だけのためではないのだと覚悟を決める。

 もし、ここで美夜が無礼だと罰を与えられても、この氷薔薇さえ届けばいいのだ。

 そして、前にいるのも王族であれば、王都で待つのも王族なのだから。

 どちらにせよ、当たって砕けるしか残された道はないのだから。


「あの、氷薔薇の蕾を氷室で一刻程だけでも置かせてもらえないでしょうか」


 自分よりも先に雪を払っていた麻袋をそっと押し差し出す。

 予想外だったのか、柳眉を器用に持ち上げて男が美夜を睥睨した。


「お前が泊めて欲しいとは願わないのか?」

「私は、夜に歩くためにたっぷりと寝てきましたし、山を下りたら手配されている馬車の中でも寝れますし。王都まで転移門も麓から使えますから。王都に無事にたどり着いてから寝ればよいので…。一晩とは言いません。氷薔薇の蕾が雪で崩しているバランスを氷室の中で整えさせていただいたら。それで。その間は私、外ででも待ちますので」


 美夜の言葉を聞けば聞くほど皺が寄っていた眉間を細くて長い人差し指で伸ばしながら、男は大きくため息をついた。


「それで、わかったと人族の女性を屋外で待たせて薔薇だけ室内に入れるわけがなかろう」


 溜息とともに吐かれた言葉の意外性に驚き、美夜は一瞬意味が理解できなかった。


「えっ?」


 今の言い方では、まるで美夜も中に入れと言わんばかりではないか。

 人も獣も嫌いで呪われた、この国最高の魔術師。

 噂で聞いていた王弟殿下の人となりを改めて思い起こしてみるが、とてもではないが、女だからといって、泊めてくれる配慮をしてくれる可能性が見いだせない。

 曰く、人嫌いで、気に入らないものをネズミに変えた。

 曰く、婚約を希望していた隣国の王女をすげなく袖にして、人形に変えて絶望させ、呪い返されて尾以外は人の形になった。

 曰く、これ幸いと王位継承権を破棄して隠遁しようとしたところ、王が国内最高位の魔術師を失う恐れにすがって泣いた、が、蹴り倒して姿を隠した。

 噂を確かめる勇気はないが、事実、姿は人の姿にしっぽだ。

 更に、夜深い時間帯とはいえ、応対に出てくる従僕も侍女もおらず、自ら応対しているということは、明らかに厭世的な生活をしている。

 だからこそと推測して、せめて、庭に力を入れている分の温情だけでもと希ったのに。


「入りなさい。お茶と寝台ぐらいは用意しよう。数時間でも身体を休めれば、かなり違うだろう」


 歩を進めて階下へと降り立った男性の後ろで、たしんたしんとまた尻尾が揺れ、魅惑的に美夜を招く。

 先程から、そのもふもふのしっぽに釘付けの美夜にとっては目の毒だ。

 

「こちらに来なさい。客間を用意しよう」


 はっと気づけば、揺れるしっぽと背中が、階段の右手奥へと広がる廊下に消えようとしていた。脳が言葉を理解した瞬間に、美夜は、慌ててその背を追いかけた。驚きの提案であったが、譲れない願いのために、丁寧な拒絶を伝えざるを得ない。


「あの、お気持ちはありがたいのですが、貸して頂けるのであれば、客間ではなく、氷室を…。予定外の大雪で、移送のため、根を浸していた氷が解けかけて、雪でまた凍って状態が悪くなっていると思うのです…。氷室で氷薔薇の状態だけ見させてもらったら。そのあとは、状態が整い次第、一刻も早く王都へと向かわなければいけませんから」


 足を止めて振り返った男が、溜息をついた。

 煩わしそうなその声音に、逆らうことなど許されないのだと、改めて知った。

 彼の提言に、一介の商人、しかも人の、女の商人が持つ言葉は一つだけで。

「お心のままに、殿下」


 「殿下」

 その響きはすべての人が、国民が、自分に向ける敬称で。

 名前よりも馴染んだその響きは当たり前の音のはずなのに。

 なぜか、背後の彼女からその無機質な言葉が零れたことに、再度深い溜め息が零れそうになる。

 獣族が治める国のルールはシンプルだ。

 力あるものがすべて。

 だから、王弟でありながら、誰よりも力のある魔術師でもあったレナルドは、誰に傅くことも求められなかったし、事実、傅いたこともない。

 王ですら、レナルドに傅く側であった。

 王がレナルドに求めるのではなく、王が王であることをレナルドが求めたのだから、当然だ。

 それは、呪われて獣の姿を失い、人族の姿に、獣族の尾という、この世の何よりも醜悪な姿を身に纏おうとも。

 尾を見るだけで、人々は畏れひれ伏したし、呪いによる人貌を忌避した眼差しを向けながらも、逆らうことも、影で嗤うことすらできずに、鬱屈とした眼差しを向けるばかりだった。

 だからだろうか。

 何も欲しくなく、何も心を沸き立たせなかった。

 灰色の世界全てを捨てて、花だけを愛おしむ生活のために閉ざされた山奥の城を造った。

 その平穏さを愛していたのに。

 薔薇の気配を漂わせていた彼女が雪の中を彷徨っていたから、ふと、その瞳を見てみたくなった。

 他の者と同じように、彼女も自分のことをおぞましそうに、もしくは、妬ましく、畏れて、そんな感情で自分のことをみるのだろうかと。

 何も知らずこの庭を見回していた澄んだ瞳の色が。

 何者にも染まらぬ黒い瞳が。

 階段の下から、まっすぐに自分を見上げてきた時に。

 ひどく新鮮な思いで。

 本来なら雪を避けるためとはいえ、庭よりも先に人を受け入れることなどなかったのに。

 獣族ですらない、人族の女性で、しかも何かとびきりのわけありそうな女性を城に受け入れてしまっていた。

 受け入れるどころか、人の姿の自分を見ても、忌避も恐れも、蔑みも、欲も浮かべずに、ただ揺れる尻尾にだけ気を引かれていた彼女と、もう少し話をしてみたいし、その瞳で見られていたい。そう思ったから。気づけばお茶を用意するなどと、口にしていた。

 それを彼女が氷薔薇のメンテナンスを理由に拒むのであれば。

 無言で彼女が抱える麻袋に手を伸ばした。

 誇張でも傲慢でもなく、文字通り、この世界で自分が解決できない問題などほぼほぼないのだから。

 彼女が抱えているであろう厄介な問題は、少しお茶でも一緒に飲めば解決できるだろう。


 岩手の片田舎で、三人の兄に揉まれて大きく育った自分には、可愛いものやふわふわしたものなど似合わない。

 美夜はそう思って過ごしてきたし、そもそも学生時代はバスケ一筋。私服ですらジャージみたいな色気ない生活で。

 異世界転移とやらでこの世界に落とされてからも、比較的鄙びた地域だったことを幸いに、着飾ったり可愛いものと触れ合うことも少なく。

 唯一華やかなものといえば、ビジネスパートナーとして、美夜と共に歩いてくれたトリスタンの私服と、生業にしている花ぐらいのもので。

 花だって、見た目ほど商売にしてしまうと華やかで綺麗だけではない。

 どちらかというと泥臭いし、特に仕入れや栽培に力を入れている美夜は、トリスタンが元伯爵令息であったことで王宮と取引頂くことになった今でこそ、必要最低限の身だしなみを整えているが、それがなければ、今でも泥だらけのジャージ生活だったかもしれない。まぁ、この世界にジャージなんてものはないのだし、畑や温室、山に行く時は今でも男装したり、ぼろぼろの格好だったりするわけだけど。

 遠い目をしながら、なぜ美夜がジャージや自分の泥だらけの服装に思いを馳せているかといえば、盛大な現実逃避だ。

 あの後、あれよあれよという間に、美夜の問題は解決した。

 氷薔薇という栽培や移動の難しい薔薇を、王女宮で開かれる明後日の夜会のメインとして宮全体を飾りつけろなんて命令を下した王女殿下は、取り急ぎ美夜が持ってきた氷薔薇を王弟殿下の転移魔法と通信魔法でトリスタンのもとへと送り届けられたことでその野望を潰えさせることになった。

 野望というか、まぁ女性に興味がないと伯爵位を投げ捨て、ドレス姿で花を生ける道を人生に選んだトリスタンへの歪んだ恋情を、王弟殿下にみじん切りに切り刻まれ、なんなら父親である国王陛下にまで告げられるというオプション付きで、墓場へと葬られることになった。

 同じ女性の立場から言うと、酷く気まずく、トリスタンの恋人と目されて掛けられた迷惑と、嫉妬の眼差し、酷く心がざわつかされた言動全てを差し引いても、少々どころか多分に哀れみを感じる結果となった。

 あれは、酷い展開だった…。

 そんな展開の後、秒で美夜の仕事は片付き、リアルな首をかけた難題も解決した今。

 寝る前にお茶でもゆっくり飲んでから、用意した寝室で一、二泊、雪嵐が止むまで止まっていってから王都に向かえばいいと。

 その誘いまでは、心から感謝して受け入れた。

 それが、何がどうして。

 こんなに広々とした客室の、大きな長椅子で、王弟殿下のふわんふわんの尻尾を腰に巻き付けてお茶を呑む羽目に。

 二人きりだから、ゆっくり話せるよう、隣に座っていいか、そう聞かれたことまでは覚えている。

 清廉な百合の香りが仄かにして。

 気づけば尻尾に抱き込まれていた。

 似合わないから、そう諦めてきたけれど。

 飼っていたゴールデンレトリーバーの尻尾は、美夜の人生で一番のお気に入りだったし、もふもふに抗える人類などいるのだろうか。いやいない。

 いるわけがない。

 そんなわけで。

 尊き御身の上に恩人である人の、魅惑の尻尾が左手に触れそうな位置でふわんふわんしている今。

 美夜は限りなく煩悩と戦っていた。

 このもふもふ尻尾を思うままにつかみ取りたい。あわよくば、顔をうずめて吸いたい。

 全身で抱き枕みたいに抱き着いて、もふもふもふもふと堪能できたら…。

 でも、そんな勇気はない。不敬だし。

 そもそも、獣と人に階級的な差があるこの国では、一般人ですら、無礼だと思われる可能性が高い。

 しかも尻尾なんて、一番のプライベートゾーンの一つだ。

 命を救ってもらった国一番の魔術師に暴挙を働くなんて、また自ら命を捨てるようなものの気もするし。

 だからこそ、日に日に近く距離としっぽの誘惑と、戦い続けている。

 自分と、ずっと一緒に仕事してきたトリスタンと、二人分の命の恩人である方に、気軽に名前を呼んでほしいと乞われただけでも驚愕だったのに。

 この距離感で。

 尻尾を巻き付けられるこの展開に、逃避をせずにはいられない…。このお茶は、いつまで続くのだろうか…。

 美夜の理性はいつまで試されるのか。

 そもそも、抗い続けらるのか…この誘惑に…。


「もうだめ、耐えられない」

 一、二泊が三日経ち、四日経ち。

 トリスタンからは、王女令とも、王女殿下の片恋の失恋とも関係ないところでつつがなく夜会が終わった報告を受け。

 二、三日お互い次の仕事までゆっくり羽を休めようと報告をもらった。

 結果、雪がまだやまないからと延泊を勧められ。

 ずるずる、段々と、距離が近くなる王弟殿下改め、レナルドと呼んでくれと熱望した美貌の人と、魅惑のしっぽ。

 名前で呼んでほしいという恩人からの圧に屈した後。

 美夜はなぜか一日に三度の食事を広いテーブルの角と角という限りなく近い距離でとることになり。

 温室や庭を紹介しようとそっと腕をとられ。

 たくさん話をして、見たこともない花に興奮し、その種をもらったり栽培方法を教わる内に、多少テンションがあがって馴れ馴れしい態度を取ってしまったことも反省点だろうが。

 気が付けばゼロ距離にぐいぐいと踏み込まれ。

 お茶をする時には尻尾で抱え込まれるようになっていた。

 都度都度悩ましげに揺れるしっぽに。

 その誘惑に。

 抗いきれずに口を開けば。


「すまない」

 同時にレナルドもぎゅっと強く尻尾で美夜の腰を抱き込んで、頭を下げた。

 尻尾を抱きかかえようとしていた美夜は、突然のレナルドからの謝罪に、崩壊しかけていた理性をかき集めて、そっと目線を合わせる。

 光を含んだようなキラキラと輝く銀色の瞳が、射抜くように美夜を見つめている。


「こんな風になし崩しで君を逗留させ続けるつもりではなかったんだ。だけど、そろそろ、言わなければいけないと…」


 苦悩するように閉じた瞳の端には、ばっさばさに長いまつげが、髪の毛と同じ水色を仄かに有して煌めいている。

 美人って至近距離で見ても、苦悩した顔でも美人なんだな。

 あまりの美貌に逆に冷静になった美夜は、しっぽを抱き締めるために伸ばしかけていた腕をそろそろと自分の膝の上に戻して、レナルドに向き合った。

 その尻尾はまだ美夜を抱きかかえたまま誘惑を継続しているのだけれど。

 さすがに、この状況から、掴んだりしない。

 多分、我慢できる、はす。

 人生で一番の誘惑に、震える手をきつく掴んでいる美夜のこわばった顔を、震える銀の瞳が切なそうに見つめてくる。己の大罪を告白するかのような深刻さで、視線を尻尾と美夜の顔とに行き来させながら、レナルドが呻く。


「この距離がおかしいことも、尻尾がもしかしたら不快かもとも考えた…」

 突然の告白に、先ほどの美夜の耐えられないという発言を曲解されているかもと口を開きかけるが。

 細くて長い人差し指が、美夜の薄い唇にそっと当てられる。

 ひんやりとした涼やかな感触に。

 つい舌を伸ばしかけて。

 慌てて、口を閉じる。

 色恋とは縁遠かったとはいえ、いくら美夜でも、ここで指を舐めるのが不適切な選択であることは、誰に言われるまでもなくわかる。

 それでも、心惹かれる感触に。

 巻き付いた尻尾よりも魅力を感じて。

 心がどきんと、小さな音を立てる。

 恋をするのは怖かった。

 美夜は違う世界から来た、違う種族で。

 知っている世界で恋をする以上に。

 恋をして自分を失い、相手に全てを委ねるということが怖かった。だって、育ってきた環境も考え方も、文化も、全てが違う。

 それに何より、美夜は前の世界でも失敗ばかり選んでしまった。

 愚かなほどに自分を偽ってばかりで。

 可愛いものは似合わないから。

 私には眩しすぎるから。恋も夢も諦めて。

 可愛いものですら手を伸ばせずに。

 自分には似合わないから、自分には不相応だから。

 そうやってたくさんのものを捨ててきた。

 育ってきた環境も考え方も、文化も、同じでも、手を伸ばせなかったのに。

 異世界に落とされたりしたのは、たくさんのものを捨ててきたその報いなのかな、と。

 手を伸ばさなかったから。

 諦めてきたから。

 自分が捨ててきたものの分だけ。

 今度は世界に自分が捨てられたのだと。

 異世界に落とされた時に、そう思うほどには、たくさんのものを諦めてきたから。

 だからこそ、ここでは、自分に正直に生きようと思った。

 やりたいことをやろうと、性別に違和感を感じていたトリスタンと。

 お互いの好きなことをしようと手を取り合って走ってきた。

 辛いことも大変なこともたくさんあったけど。

 それは自分の選んだものだったから、そう思える大事なものが増えたら。

 今度はその大事なものが大事過ぎて。

 他のものに手を伸ばすのは怖くて、身動きがとれなくなった。

 不器用な自分は、他のものを選んだら、また、大事だったもの捨ててしまうのではないか。

 それなら、この一つだけ選んだ、トリスタンと走っていく未来を大事にしよう。

 そう、思っていたのに。

 目の前のしっぽが魅惑的過ぎて、誘惑が酷い。


「それとも、この呪いが怖い?呪いが解けるのに解かないでいたことに今までの話から気づいていた?」

 重ねられた言葉に目を見張る。

 そんなことを考えたことなんてなかったのに。

 自ら、解ける呪いを解かず身に纏う人だという告白にこそ、なんだか親近感を感じて、しっぽよりも、レナルド本人に興味が向く。

 身分も、種族も違うし、何でも選べる人だから。

 選べずに選ばれなかった美夜とは、住む世界の違う人だと思っていた。

 四日間色々な話をして。

 薔薇が好きなこと。

 育てていること。

 好きな食べ物。

 好きな花。

 花の好きなところ。

 あれだけ話しても、共感できても、どこか分かり合えない人だと諦めてた。

 どれだけ居心地が良くても。

 しっぽに包まれると安心しても。

 選ばないし、選ばれない。

 もうここを出たら会うことがない雲の上の人だけど。

 この人のことを知りたい。

 全然似ているところなんてないはずのこの人に。

 似ているところがたくさんあるような気がして。

 その似ている部分を。

 この城を出て、日常に戻れば、もうこのような日々は自分とは関係のない未来になる。

 この世界でも、手を伸ばさなければ。

 選ぶのか、選ばないのか。

 揺れ出した美夜の心を惑わすように。


 たしん。たしん。


 巻き付いていた尻尾がほどかれ、右に左に揺れて。

 手を伸ばさない愚かさを叱責されているようで。

 それでも。

 手も伸ばせず、言葉も選べずに下を向いた美夜の瞳を。

 顎を救い上げて、レナルドが上に向ける。

 花が開くように、美貌の顔に喜色がほころぶ。


「そうじゃ、ないんだね。嫌がってるわけじゃなくて。怖がっているわけでもなくて。ただ、戸惑っているだけなら、手を伸ばして」

 

 囁く声が祈るようで。

 いつも不遜で。

 優しさの中にも王族特有の傲慢さを隠しきれなかった、世界を掌に納めている何でも出来る人特有の声が、初めての不安に揺れていたから。

 しっぽと同じように。

 美夜は初めて、レナルドも一緒なのかなと。

 たくさん諦めてなくして、世界すらなくしてしまった美夜と。

 何でも手に入って、困難がないレナルドこそが。

 求めていたものは一緒なのかもと。

 そう、素直に思えて、心のままに身を委ねた。

 ぎゅっと揺れるしっぽを両手で捕まえて引き寄せると、頬をすりすりと寄せてみる。

 至福の感触に、もう素直に心が蕩け出してしまう。

 難しいこととか、考えていたこととか。

 全部全部蕩けていって。

 欲望のままに鼻を寄せて、口を埋めて。

 顔中で、その至高の手触りを堪能する。

 爽やかな百合の甘い香りが、毛先からもじんわりと染み入る。

 もう、動きたくない。


「この四日。たくさん話して。美夜の世界を知りたいと思った」


 その言葉に、渋々顔をあげて、頷く。


「私も、レナルドを知りたい」


 しっぽをぎゅむぎゅむと握りしめながら、勇気付けられらように、恐る恐る言葉を返せば。

 尻尾でぎゅっと引き寄せられ。

 強く強く抱きしめられた上から、両腕で更に固く抱きしめられるから。

 抗うのをやめて。

 ぎゅっっとその温もりを、全部、全部、堪能する。


 もふん。

 幸せな感触が。

 腕の中で膨れ上がっていく。

 耳元で幸せそうな笑いが零れて。


「受け入れてくれてありがとう。雪をこれ以上降らさなくてよくなって、よかったよ」


 不遜な言葉にぱっと顔をあげる。

 止まない雪の原因を知ってしまって、やっぱり、手を伸ばすのは早かった、どころか間違っていたかもしれない。

 そんな気持ちが美夜の頭をよぎったけど。

 それでも幸せ満面な美貌が近づいてくるから。


 ぼすん。


 もう一度、両手でもふもふな尻尾を引き寄せて顔をうずめた。

 とりあえず、この尻尾を堪能しつくして、雪を止ませてもらって。

 それから。

 いつもの仕事に戻って日常を一緒に過ごしてみよう。

 お互いを知っていくために。

 時を重ねていく内に。

 お互いにお互いを知っていって。

 嫌なところも良いところもたくさん知っていったら。

 もっと気軽に手を伸ばせるかもしれない。

 今でも、この尻尾があれば。

 時々、もふもふして手を伸ばして、顔を埋めてもいいかもしれないぐらいには思えているから。

 もっとこのもふもふを全身で堪能したい未来が来るかもしれない。

 自分の選んだものをしっぽごと全部抱きしめられる日も。

 それまでは、一旦。

 雪が止んだ城を、一緒に歩いて出て、お互いの今の世界を知ってみて、レナルドの呪いをどうするのか、一緒に考えて。

 たくさんしっぽをもふもふして。

 向かう未来の方向を、もふもふ考えても良いかも知れない。

 同じ方向の未来を。

 隣に、レナルドと、もふもふふかふかの尻尾と、絶世の美貌があれば。

 お互い今までとは違う未来の扉を選べるかもしれないから。

モフモフヒーロー最高ですね!


素敵な企画でしたー!

参加者様がとても豪華で、素敵なモフモフヒーロー一杯なので、是非読み回ってみてください!参加できて幸せでした&読んでくださりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] どこか童話を彷彿とさせる、と思っていたら、タグにその要素が書いてあって納得しました。 薔薇の名称も素敵で、一番はやはり氷薔薇です。 静かに育まれていく愛情の中に、情熱も潜んでいて(*´艸…
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