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3.元さや

 侯爵は仕事が早くて本当に助かる。ダニエルは馬車の中で上機嫌で鼻歌を歌っていた。

 結婚式の3日後、早くも離縁が正式に認められるとダニエルはリード子爵家に赴いた。

 元婚約者の急な訪れに驚きと戸惑いの表情を見せるも快く迎え入れてくれた。

 リード子爵家の娘ステラと話をするために応接室で向かい合う。

 彼女の顔色はあまりよくない。目も心なしか腫れている。自惚れでなければダニエルの結婚のせいだろう。

 申し訳ない気持ちになりながらも、出されたお茶はダニエルがいつも好んで飲んでいるハーブティーだ。その気遣いが嬉しい。


「そういうことがあって無事に離縁できたよ」


「…………」


 ステラは胡乱気な目でダニエルを見ている。


「祝ってくれないのかい?」


「おめでとう?」


「ありがとう。それでステラ、君に結婚を申し込みたい。今すぐ返事を聞かせてくれ」


 ダニエルは笑顔で明確に自分の希望を伝えた。

 アビゲイルと結婚した3日後でありその離縁が成立した当日に自分に結婚の申し込みをしたダニエルにステラは動揺し困惑しているようだ。


「あなたわざと言ったのね。ハリス侯爵令嬢を怒らせるために。いくらなんでも初夜にそれは酷くないかしら?」


「嫌いな女を我慢して抱けというのか? 私と君の婚約を無理やり解消させて私と結婚した令嬢や娘の我儘を権力で叶える侯爵こそ酷いとは思わないのかい? 私は一生許せないと思っているよ」


 「それは…………」


 ダニエルは静かな声でそう告げると長い足を組み、その美貌を怒りで歪ませた。


 ダニエルとステラは10年前から婚約していた。

 長い時間をかけ二人は着実に信頼関係を築き、思いを確かめ合い相思相愛となった。

 ダニエルは伯爵家のたった一人の子供であるので跡を継ぐ。次期伯爵夫人としてステラも学び努力をしていた。そしてあと数か月で結婚式という頃にハリス侯爵家から娘婿にという話が来た。もちろん愛するステラと婚約しているのだから直ぐに断った。それでも侯爵は引き下がらない。


 どうやら夜会でダニエルを見たアビゲイルが一目惚れしてどうしても結婚したいといって寝込んでいる。侯爵はダニエルを想い涙する娘が可哀そうじゃないのか、娘を受け入れるべきだと無茶苦茶な事を言ってきた。

 仕事には冷静な侯爵だが一人娘にはめっぽう弱いという評判は悪い意味で聞いたことがあったが、まさか自分が当事者になるとは思いもよらなかった。


 ダニエルは父親似の美貌を持ち社交界で評判だったが、ステラ以外には冷たく今までダニエルに色仕掛けをしてきた自信のある令嬢たちも玉砕し皆諦めていったのだ。だがアビゲイルは父親の権力を使ってきた。


 ダニエルの婚約者であるステラのシード子爵家に経済的な圧力をかけてきた上に、ダニエルの家とステラの家は共同事業をしていてその事業の妨害もした。そしてステラに自らダニエルとの婚約を解消するならば圧力や妨害を止めてもいいと脅したのである。人として最低である。


 ダニエルもなんとか阻止しようと奔走したが伯爵家が侯爵家に対抗するのは貴族社会では難しい。自分達だけでなく両家が抱えている事業にも影響があり家族や領民の生活もかかっている。

 そして苦しむダニエルを見かねたステラは婚約解消の決断をしてしまった。ダニエルにはそれを覆す力はない。

 絶望的な気持ちで侯爵に屈しアビゲイルとの婚約を受け入れたのだ。

 本来ダニエルは伯爵家の跡継ぎだが侯爵はひとり娘のアビゲイルに侯爵家を継がせたいので婿に来いと言う。シモンズ伯爵家は縁者から養子を取り後継ぎとしろとまで要求してきた。さすがにその横暴なやり方に周りは眉をひそめたが強力な力を持つ侯爵家に表立って逆らうものはいない。

 

 婚約後もアビゲイルの顔を見たくなかったダニエルは義務的に2回ほど侯爵家に顔を出しただけだった。披露宴の準備は侯爵家が勝手に進めていく。


 ステラを守れなかった自責の念に苛まれながら披露宴を迎えれば、隣で女王然と満足そうにしているアビゲイルを見て苛立ちが抑えられなくなった。

 ダニエルとステラを引き裂いて幸せそうに笑っているのだ。胸の中が真っ黒に塗りつぶされていく。

 そしてどうしても何か一矢報いたくなったのだ。無力な自分の出来るささやかな嫌がらせだ。


 それが初夜の言動である。アビゲイルに触れたくなかったので怒らせれば部屋を追い出されると分かっていた。夫婦生活を営む気持ちになどなれない。時間が稼げればという思惑もあったが、まさか彼女が家出までするとは思っていなかった。まあ、それ程の怒りだったのだろう。

 ダニエルは生まれた時から貴族でありその責務を忘れたことはない。政略的な理由でステラと別れてアビゲイルと結婚したのなら、無理矢理にでも気持ちに折り合いをつけて相手を尊重することは出来た。だが今回の事はアビゲイルの我儘だ。紳士としての振る舞いではないことは承知の上での言動だった。


 アビゲイルは置き手紙に離縁したいと書いたようだが本心では離縁したくないはずだ。ただダニエルを困らせたかっただけなのは分かっていた。何故か自分はダニエルに愛されていると思っているので追いかけてくると期待しているのだろう。ダニエルとしては夫婦として過ごすことを先延ばしに出来てホッとしていた。


 ところが侯爵は真に受けた。随分と娘の機微に疎いと思ったがもちろん余計な事は言わない。外聞よりも娘の望みを優先し最速で離縁の手続きをしてくれた。

 貴族としては首を傾げたくなるが侯爵家の評判などダニエルの知った事ではないし、自分の名誉もどうでもいい。

 ささやかな意趣返しの結果がダニエルにとっては僥倖である。


 もしアビゲイルが家出していなければ夫婦のままであった。家出してくれたことだけはアビゲイルに心から感謝している。後で離縁を知ったとしても、さすがに侯爵は復縁を認めることは出来ないだろう。その可能性を潰す為に誓約書を書かせたのだ。


 侯爵は初夜で呼んだ女の名前を確認してきたが、ダニエルがステラの名前を出すはずがない。アビゲイルもステラのことは知っているのだ。その名を言えば必ず報復をするはずだ。

 侯爵は自分が娘の為とはいえかなり強引なことをした自覚もあり少しくらいは後ろめたさもあったのだろう。そうでなければダニエルの出した誓約書を書けという条件を呑まなかったはずだ。


 アビゲイルは不貞を疑ったが侯爵はアビゲイルが一目惚れした時にダニエルの詳しい身辺調査を行い、結婚式まで見張りをつけていた。たぶん駆け落ちさせない為だろう。だから失言があっても不貞で責めることは出来なかったのだ。

 とにかくダニエルは不本意な婚姻を継続する苦痛から解放されたのだ。


 離縁が決まり侯爵家を後にするダニエルの足にはまるで羽が生えたような軽さで心が浮き立った。

 せっかく離婚できたのだから愛するステラに結婚を申し込むのは当然である。ダニエルにとっては本来の人生に戻るだけのことだ。


 アビゲイルが領地から戻れば何らかの妨害が考えられる。その前に急いで結婚したかったのもあり離縁の受理証明書を受け取った足でステラに会いに来た。

 それに外聞を気にして時間を空けた隙に、もしステラに新しい婚約者でも出来たらどうするのか。ステラが自分以外の男に微笑みかけてその手を取るなど受け入れられない。いつ現れるかもしれない相手の男を想像し頭の中で再起不能なまでにボコボコにするくらいには冷静でいられない。


「ステラ、何か不安な事がある?」


「侯爵様から以前のような圧力は大丈夫なの?」


 ダニエルは不安げなステラを安心させるために手元の書類を広げた。その書類は侯爵に書かせた両家に圧力をかけないという誓約書だ。


「ダニエル。誓約書まで侯爵様に要求したの?」


 ステラは呆気にとられている。ダニエルはもちろんと頷く。ステラを守る為の対策は出来るだけ講じておく。もうあんな絶望は味わいたくない。


「以前のような圧力を甘んじて受ける気はないからね」


 その書類を大切にしまうともう一度ステラを見つめて繰り返した。


「ステラ、愛してる。どうか私と結婚してほしい」


 返事を躊躇うステラの顔はどこか曇って見える。


「私に離婚歴があることが許せないかい?」


 ステラはそんなことは気にならないと首を振る。

 ダニエルは席を立ちステラの隣に座り顔を覗き込むと、視線で躊躇いの理由を話すように促す。ステラはもごもごと問いかける。


「ダニエル。初夜で呼んだ女性の名前は誰のことなの?」


 理由を察したダニエルは破顔してステラの華奢な手を包み込むように握る。


「ああ、ミラだよ。新聞の連載小説の主人公の名前を借りたんだ。私には君しかいないのは知っているはずだよ」


 ダニエルは努めて優しい声で説明する。ステラの不安と嫉妬が可愛らしくて愛おしさが込み上げてくる。

 ステラは観念したように息をつくとダニエルを見つめた。


「私もあなたが好き。ダニエル、プロポーズをお受けします」


「ああ、ありがとう。ステラ。では早速義父上と結婚式の段取りを話し合いたいな。最短で結婚しよう」


「ふふふ。せっかちね。でもそうね。今度こそ邪魔されない内に結婚しましょう」


 ダニエルはステラの手をいったん離し、今度は指を絡めるように繋ぎその瞳を真っ直ぐに見つめた。そしてもう絶対にこの手を離さないと心に誓った。ステラも強く握り返してくれた。


 もともと結婚式の準備はほぼ終わっていたので邪魔が入らなければ今頃結婚できていたはずなのだ。だからダニエルの希望通り最短で、プロポーズの日から一か月後に二人は家族や友人に心から祝福されて無事に幸せなその日を迎えることが出来た。


 その後、ダニエルはステラとの幸せな日々を噛みしめて暮らしていたので、侯爵家のことなどすっかり忘れていたが突然アビゲイルから手紙が届いた。


 不快な気持ちで開けてみれば、今すぐ領地に迎えに来てアビゲイルに頭を下げれば今回だけは許すという内容だった。

 ダニエルは身勝手な手紙に呆れた。アビゲイルはまだ領地にいるようなので離縁が成立したことを知らされていないのだろう。


 ダニエルが会いに行くことなどあり得ない。そんなことも理解出来ないあの令嬢の頭には一体何が詰まっているのか。もうこのまま一生領地にいてほしい。

 社交界は横暴な侯爵やアビゲイルの振る舞いを簡単には忘れないだろう。アビゲイルの評判はすこぶる悪いので、今後侯爵が望むような婿を探すのは困難だ。

 もともとアビゲイルに求婚していたのはうだつが上がらない低位貴族の子息ばかりで、あからさまに爵位や財産狙いだった。顔が可愛いだけで常識がなければまともな紳士は相手にしない。

 そこまで考えて侯爵家の事など自分には関係ないことだと首を振る。


 ダニエルはステラに不安を感じさせたくないので、侯爵宛てに手紙を書く。内容はアビゲイルに金輪際連絡をさせないよう依頼することだ。アビゲイルの事で煩わされるのはこれで最後になる。


 時計を見ればステラと日課のお茶の時間だ。

 アビゲイルからの忌々しい手紙は燭台の火で燃やしてしまうと、ダニエルは庭でお茶の準備をして待っている愛しい妻の元へ向かった。


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