僕は自分の声が好きじゃない
朝になった。
時間を見ると、いつもより少し早い。
だけど目覚めは良い。
僕は身体を起こして、一通りの身支度をした。
制服を着て朝食の用意をする。
ちょうど料理を机に並べ終えた頃、リリが顔を見せた。
「一颯さん、今日は早いですね」
「リリこそ。自分で起きるなんて珍しい」
「勘違いしないでください。リリは起きられないのではなく、一颯さんに起こされることを自ら選択しています」
リリは少し不機嫌な声で言った。
それから席について、はぁ、と息を吐く。
「今日の朝食は、リリが作る予定でした」
「どうして?」
「一颯さんが頑張る日だからです」
「……そっか」
僕達は家事を分担している。
でも一方が何かを専任する形ではない。
手の空いている方がやる。
要するに、二人とも家事ができる。
「僕はリリに助けられてばかりだね」
リリは賢くて気が回る。それは今日のことだけじゃない。配信を始めるきっかけをくれたのも、環境を用意してくれたのもリリだ。本当に、いつも助けられている。
「それでは、ひとつお願いをしましょう」
「いいよ。なんでも言って」
「リリは肩凝りに悩まされています」
「了解」
僕が背後に立つと、リリは背筋を伸ばした。
「んっ、くっ……流石っ、お上手です」
「それは良かった」
リリは肩が凝りやすい体質のようで、頻繁にマッサージを求めてくる。
しかし触れると柔らかい。まるで凝っている感じはしないけれど、軽く揉むだけで気持ち良さそうな反応をする。
「一颯さん、今日は頑張ってください」
「うん。でも、ちょっと質問するだけだよ」
「リリはお見通しです。一颯さんは、その方と友達になろうとしています」
そんな余裕、無い。
でも友達が欲しいのは事実だ。その相手が東雲さんならば……空気みたいな存在感が少しは変わるかもしれない。そんな想いが無いと言えば噓になる。
「……そうかもしれないね」
だから僕はリリの言葉を肯定した。
「今日の夜食は、リリが作ります。愛情たっぷりのカレーと妹、どちらから食べたいですか?」
「今夜はカレーか。楽しみだ」
「カレーからですね。分かりました」
「一応言うけど、リリは食べないからね」
「そうですか。残念です」
いつも通りのやりとり。
それが妙におかしくて、僕は笑った。
だって今はリリの肩凝りを解している。
でも肩の力が抜けたのは、僕の方だった。
「……ありがとう」
リリに感謝を伝えて、午後のことを考える。
僕の目標は東雲さんに質問すること。
普通の人からすれば簡単なのだと思う。
でも僕にとっては難しい。
僕は……人前で声を出すことが、怖い。
きっかけは些細な言葉だった。
中学二年生の時、同級生から言われた。
風早くんの声って、空気みたいだね。
ピッタリだと思う。すっごくイメージ通り。
本当に、何気ない言葉だと思う。
だけど今でも胸に刺さり続けている。
僕は昔から会話が得意じゃなかった。
自分から誰かに話しかけることは滅多に無い。
僕は空気みたいな存在だった。
誰かが気にかけてくれなければ、誰にも認識されない。
コンプレックスだった。
だから、同級生の言葉が頭に残った。
そのうち声を出すことが怖くなった。
声を発する度、空気という言葉が頭を過るようになった。
こんなもの被害妄想だ。
でもそれは、少しずつ僕の口数を減らした。
僕は高校生になった。
誰とも会話しないまま一学期が終わった。
現在、僕には友達が一人も居ない。
空気という言葉が、以前よりも似合うようになってしまった。
「一颯さん」
リリの声。
「怖くなったら、リリを思い出してください」
リリは、僕の手に触れて言った。
「……どうして、分かったのかな?」
どうして不安が伝わったのか。
「手が震えていました」
僕はハッとして、自分の手を見る。
そして、まだマッサージの途中だったことを思い出した。
「……ごめん」
自分が嫌になる。
だって特別なことをするわけじゃない。
同級生に一言質問するだけ。
たったそれだけのことが、震える程に怖い。
「……情けない兄さんで、ごめん」
「リリの意見は違います」
リリは僕の弱音を否定した。
そして背中を向けたまま、優しい声で言う。
「誰にでも苦手はあります。多くの場合、苦手の原因は経験不足です。最初は誰でも失敗するものです。失敗はとても恐ろしいことです。だからリリは、情けないなんて思いません。苦手を克服するために行動できるのは、勇敢な人だけです」
リリは僕の手を握ると、振り向いて笑みを見せた。
「リリは、一颯さんを誇らしく思います」
その言葉を聞いて、僕はもう、泣きそうだった。
「今夜は、美味しいカレーを用意して待っています」
心が軽くなった。
その分だけ、全身に力が入る。
「……ありがとう。僕も、楽しい話ができるように、頑張るよ」
僕が返事をすると、リリは満足そうな表情を浮かべ、僕の手をトントンと叩いた。それは、マッサージを終えても良いという合図だ。
僕は机の反対側に移動して椅子に座る。
それから食事を始めて──そして、学校へ向かった。