スパチャ(物理)
図書室へ向かう途中。
僕は彼女に手首を摑まれ、空き教室に連れ込まれた。
なぜ、どうして?
突然の出来事に心拍数が上昇する。
彼女は無言で僕に詰め寄ると、普段とは違う少し低い声で言った。
「ね、あたし何かした?」
「……何か?」
「だって避けてるじゃん」
「……いや、べつに、避けているわけでは」
「ふーん?」
息が当たるような距離。
長い睫毛の下で細められた目が僕をじっと見る。
「ま、べつに良いけど」
彼女は呟いて、背中を向ける。
それから出入口まで移動して鍵を閉めた。
……なんで!?
疑問に答える声は無い。
鍵を閉めた姿勢を維持する彼女は、僕に背中を向けたまま言った。
「風早くん、Vtuberって知ってる?」
「……知らないですね」
「じゃあさ、バ美肉って何の略か分かる?」
「バーチャル美少年に受肉ですよね」
「風早くん、Vtuberって知ってる?」
「……知らないですね」
「ふーん?」
まさかこれ、バレてる?
いやいや、あんなマイナー配信を東雲さんが見てるわけない。
「イッくんって、知ってる?」
やばい、これ絶対バレてる!
どうしよう。こんな人気の無いところに連れ込まれて……まさかカツアゲとか!? バラされたくなければ金を出せ、みたいなことになったら……さよなら、平穏な高校生活。
「風早くん」
彼女は振り向いた。
それからトンと床を鳴らして歩き始める。
二人の距離が近くなる。
その度、僕は後ろに下がった。
直ぐに背中が壁にぶつかった。
しかし彼女は近付くことをやめない。
「ひとつ、お願いしても良いかな?」
ちょうど一メートルくらいの距離。
彼女はキュッと唇を結び、なんだか怒っているような表情で言った。
「……お願い、ですか?」
恐る恐る問いかける。
彼女は僕を真っ直ぐに見て──
突然、頭を下げた。
「お納めください」
彼女は僕に向かって右手を伸ばした。
その手の先に何かひらひらした物がある。
それは二枚の紙。
二つ折りにされたピンク色の紙と、一万円札だった。
「……あの、これは?」
「スパチャかっこ物理、みたいな?」
彼女は頭を下げたまま、いつもの明るい声で言った。
……ダメだ、脳が理解を拒む。
スパチャは理解できる。
お金を乗せてチャットを送ることだ。
……これを読めってことなのか?
意味は分かる。
だけどやっぱり脳が理解を拒む。
だって、一万円だぞ?
ちょっと文章を読むだけだぞ?
……金銭感覚が闇堕ちしてるのかな?
いや、金額については忘れよう。
問題は文章だ。何を読まされるのか全く想像できない。
「あの、風早くん? そろそろ手が痛いなー、みたいな?」
「あ、その、すみません!」
僕は咄嗟にピンクの方だけを受け取った。
彼女は顔を上げると、なんだか不思議そうな表情を見せた。
「あー、なるほどね」
何を納得したのだろう。
よく分からないけれど、彼女は少しボクから離れると、パンっと頬を叩いて目を閉じた。
「おなしゃす!」
……これもう絶対に読まなきゃダメな流れじゃん。
この状況で断れるような人間なら、きっと僕はボッチになっていない。要は意志が弱いから押しに弱いのである。ここまで強引に話を進められたら断ることなんてできない。
……落ち着け。大丈夫。文章を読むだけ。
僕は覚悟を決め、二つ折りの紙を開いた。
『東雲心音。君は本当に、面白い女性だね』
……なんだこれ。
僕は困惑した。
……この文章を読ませるために、一万円?
何か怪しい隠語が……?
あるいは名前を呼んだ瞬間に「呼び捨てにしてんじゃねぇぞオラァ!」とか?
彼女に目を向ける。
両耳に手を当て、僕が文章を読むのを今か今かと待ち続けている様子だった。
……罰ゲーム、とか?
あらためて文章を見る。
遠回りな告白に見えないこともない。
東雲さんのグループで「あのボッチに告られてよ笑」みたいな会話があったとすれば辻褄が合う……のか?
「ねぇ、まだ?」
「……すっ、すみません!」
急かされ背筋を伸ばす。
彼女の目的がさっぱり分からない。
だけど何もしないのは悪手だ。
長く待たせる程、機嫌が悪くなるかもしれない。
こうなったら当たって砕けるしかない。
僕は大きく深呼吸をして、その短い文章を読み上げた。
「にゅはっ」
「!?」
彼女が謎の声を出し、その場に屈む。
「ちょ、待って、無理。やば、やっば、やっばい。想像以上なんですけど」
どういう反応なのだろう。
僕は唇を噛み、くねくねしている東雲さんの様子を注視していた。
やがて彼女がピョンと立ち上がる。
それから僕を見ると、やけに真剣な表情をして言った。
「明日も、授業後、ここに来て」
「……はい?」
「またね!」
彼女は一方的に喋って、そのまま何か奇声を上げながら走り去った。
「……えぇぇ?」
何ひとつ状況が理解できないけれど、ひとまず無事に終わった……のだろうか?
「……帰ったら妹に相談しよう」
僕は頼れる身内の姿を思い浮かべ、今日のところは下校することにした。






