世界に色が付いた日
「ごめん、何か嫌だった?」
東雲さんが申し訳なさそうに言った。
僕はハッとして、どうにか笑顔を作る。
「……いえ、平気です」
「いやそれ絶対ウソ。バレバレ」
彼女は一歩近寄ると、腰を折り、下から覗き込むようにして言う。
「何か嫌なことあるなら教えて。そういうの我慢してっと、絶対どっかでボムるかんね」
僕は彼女から目を逸らす。
それを咎めるようにして彼女が言った。
「逃げないで」
慌てて彼女に視線を戻す。
そして真っ直ぐな瞳を見て、今迄の人生で感じたことのない威圧感を覚えた。
……リリが怒った時に似てる。
僕だって怒られたことはある。
でも、こんなにも息苦しいのは初めてだ。
……何を、言えば。
空気。それは僕のコンプレックスだ。
その言葉を聞いて、嫌な気持ちが顔に出てしまったことは分かる。頭では分かってる。だけど声に出して伝える方法が分からない。
どうやって伝えればいい?
どんな順番で喋ればいい?
ああでもない。こうでもない。
アイデアが浮かんでは消え、あっという間に時間が過ぎる。そして静寂が続く程、焦燥感が強くなる。
……早く、何か言わないと!
沈黙は恐怖だ。それが続く程、相手は不快に思うだろう。やがて「もういい!」と話す機会が失われるかもしれない。
時間切れになったら、どうなるのだろう。クラスの中心人物である彼女に嫌われたら、明日から僕に居場所はあるのだろうか。
ああ、違う。こんなこと考えても仕方がない。余計な思考はやめて、早く、返事を──
「風早くん」
僕は息を止めた。
ドクン、ドクンと心臓が脈を打つ。全身が汗で滲む。意識が遠くなり、世界がどこか他人事のように感じられる。
そんな僕に向かって、彼女は言った。
「待つよ」
たったの一言。
それが後頭部をハンマーで叩いたような衝撃を与えて、僕の中に芽生えた焦燥感を消し飛ばした。
「待つから、ちゃんと言って」
大丈夫。だから落ち着いて。
そんな風に言われたような気がして、僕は──
「空気という言葉が、コンプレックスです」
僕は、直前までの動揺が嘘だったかのように、あっさりと声を出した。
そして、説明を始めた。
これまで一度も他人に話せなかったこと。リリにさえ相談できなかったこと。ちっぽけで無駄に繊細な自分が大嫌いなこと。色々なことを拙い言葉で伝えた。
「あたしは君の声が好きだよ」
僕の長い話を聞いた東雲さんは、嫌な顔をすることなく、微笑みを浮かべて言った。
「なんか納得。すっごくイメージ通り」
聞き覚えのある言葉。
──風早くんの声って、空気みたいだね。
──ピッタリだと思う。すっごくイメージ通り。
悪寒がして背筋が震える。
だけど彼女は、僕が嫌な想像をするよりも早く、晴れ渡る空みたいな声で言った。
「風早くんは、恋する乙女だね!」
相変わらず意味は分からない。
でも何か、大事なことを言われたような気がした。
「小さなことも気になって仕方がない。自分の発言や行動を深く考えちゃう。それはもう恋する乙女じゃん!」
彼女は僕の隣に立ち、からかうような声で言った。
「風早くんは、誰に恋をしてるのかな?」
どう返事をするべきか分からない。
僕がまた考えようとした時、僕の耳元で、彼女がそっと囁いた。
「あたし、とか?」
その刹那、時間が止まる。
直ぐに動き出し、僕の中で何かが弾けた。
「はぇ!? な、何を!?」
「あははは、冗談だよ。反応……やば……」
東雲さんはお腹を抱えて笑った。
僕は混乱しながらも、冗談ということだけは理解した。
「風早くん、今みたいな声も出るんだね」
「……からかわないでください」
「どーしよっかなー」
彼女は心底楽しそうな様子で、僕の周りをクルクルと歩いた。
「あたし恋バナの時いっつも浮くんだよね」
僕は正面を見たまま、肩を小さくして彼女の話を聞く。
「顔を気にするのも分かるんだよ? 表情も筋肉だからさ、こいつ、こういう表情ばっかしてんだろうなー、とか。性格は多分こうだろうなー、とか。顔見りゃ分かんだよね」
「……すごい、ですね」
「全然。普通じゃん? でも顔ってさ、皮剥げば一緒だし、なんか興味ないんだよねー」
やがて彼女は僕の右隣で足を止めて、直前までよりも少しだけ真剣な声で言う。
「だから声が好き」
「……どうして、ですか?」
質問すると、彼女は「よくぞ聞いてくれました」とでも言いたげな顔をして、得意げに説明を始めた。
「声ってさ、その人の全部なんだよね。高さとか速さとかアクセントとか。みーんな別々の個性がある。だからね、あたし声を聞けばその人のこと九割分かるよ。すごくない?」
「……はい、すごいと思います」
「だよね。風早くん、ありがと。他の皆これ言うと引くんだよね。だから普通に褒められるの新鮮。嬉しい」
彼女は本当に嬉しそうな声で言った。
「風早くんの声は、頑張ってる人の声だ」
そして急に真面目な声を出す。
僕は、次々と色を変える彼女の声を聞いて、とても感情が豊かな人だなと思った。
もちろん、それだけじゃない。
「もしかして今日、何か目的とかあった?」
東雲さんは、とても鋭い。
彼女の言う通り、僕には目的がある。
「……東雲さんみたいに、なりたいです」
僕はそれを伝えることにした。
「人と、普通に、喋りたいです」
相変わらずボソボソとした声だ。
でも、どうしてか今は迷わなかった。
「東雲さんと、話をすれば、何か変わるかもって、思いました」
僕は思い切り息を吸い込んだ。
「だから、友達になってください!」
「いやそれは無理っしょ」
彼女はあっさりと言った。
「あたし全人類マブだと思ってっから。友達から友達とか変わってなくね? 無理ぽよ」
「……それは、どういう?」
彼女は僕の頬を指先でつついた。
長い爪が刺さり、チクリとした。その痛みを忘れさせるような声で、彼女は嬉しそうに言う。
「風早くん、好きな食べ物ある?」
「……カレーです」
「普通。でも良いよね。カレー」
「……そう、ですね」
会話の意図が分からない。
僕が困惑していると、彼女は急にピョンと跳躍をして、教室の出入口付近に移動した。
「ここで問題です」
そして、ピンと指を立てて言う。
「私の好きな食べ物は、なんでしょう?」
分かるわけがない。
「何か、ヒントを」
「んー? どうしよっかな?」
彼女は含みのある表情を浮かべる。
「昨日の夜、食べたよ」
そして何ひとつヒントになっていない言葉を口にした。それを聞いて僕は──
「プリン」
僕は何かに気が付いて、反射的に言った。
「正解」
東雲さんは満足そうに笑う。
「じゃ、また明日ね!」
そして教室から走り去った。
「…………嵐のような人だ」
しばらくして、僕は呟いた。
「全部、知ってたのか」
頭に思い浮かべたのは昨夜の配信。
僕の相談事に対して『今みたいな感じで聞けば良いと思うよ』と背中を押してくれた人の名前は──
「プリン、はちまるまるに、エックス」
僕は急に力が抜けて、その場に座り込む。
「……はは、そっか、知ってたのか」
初めて、家族以外の人と、あんなにも長く話をした。
「……また明日、か」
感情がふわふわしている。頭が真っ白で、しばらく何も考えられそうにない。
ぼーっとしていると、なぜかリリの顔が頭に浮かんだ。
「……お腹、空いたかも」
僕は立ち上がる。
それから、ゆっくりとした足取りで下校を始めた。
……楽しみだ。
リリのカレーは美味しい。
それはもちろんだけど……
……多分、初めて友達ができた。
この話を伝えたら、リリはどんな顔をするだろうか。それを想像すると、歩くペースが速くなる。
……明日は、どんな日になるのかな?
楽しみで仕方がない。
多くの人と擦れ違う道を歩いているのに、どうしてもニヤけてしまうくらいだった。
世界が色付いて見えた。
無色透明で、気にかけなければ存在を認識できない空気のような日々に、色が付いた。
きっとこれが──全ての始まりだった。
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第一話「世界に色が付いた日」 終
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