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ごめん

 一週間ぶりに見る優奈の姿。

 表情は固くてぎこちない。俺と目が合うと気まずそうに視線を逸らす。ほんの僅かな期間会っていないだけだが、小さな身体はさらに細くなっていて目は少し赤く充血しているようにも見えた。

 それは俺も言えたことではない。こんな弱った姿など見られたくなかった。


 いや、そんなことよりもだ。


「おい。一体どういうことだ」


「梨花の天野さんのスマホが電話で繋がってて今の会話、全部聞いていたの。本人がいたら本当のことは言わないだろうからな。でも良介の本音を彼女に聞かせないといけない。それでこの作戦を実行したってわけ。まぁ半分賭けだったけどな」


 賭けというのは俺が優奈を嫌いと言っていたのが本音だった場合のことを指しているのだろう。

 しかし俺が嘘を付いていると見抜いて、あとは本音を引き出させるだけだったというわけだ。


「ちょっと待て……電話が繋がっていたということつまり……」


「天ちゃん。聞こえてた?」


 瀬尾さんが尋ねると、優奈はコクリと頷く。


「うん。全部聞こえてたって」


 フフンと悪戯っぽく笑う斗真に、俺は赤面して手で顔を覆う。

 計画が破綻しただけならまだいい。それどころか自分の本音を全て曝け出された挙句、それを本人に全て丸聞こえだったなんて。

 恥ずかしさでもう死ねる。でも心のどこかでホッと安心している自分がいた。


「さてさて。俺たちの役割はもう終わり。あとは二人で今後のことを相談してくださいな」


「天ちゃん。本当に一人で大丈夫?やっぱり一緒にいようか?」


「いえ。大丈夫です。わたしが決めたことですから……」


「うん……分かった」


 二人は玄関へと向かい、俺と優奈も見送りへと向かう。履き慣らした靴の踵を直している最中に斗真が「あ、そうだ」と呟くとくるりと振り返って、


「もういい加減、過去のことについて話してもいいんじゃないか?なんで良介がここまでして天野さんを遠ざけようとしたのか。あの出来事だと思ってるけど、本当の気持ちを知ってるのは良介しかいない。そこを話さないことには天野さんだって納得しないだろう」


「あぁ、分かってる」


 できれば話したくはなかった。だがもうこれ以上隠し通すことはできない。


「じゃあ、帰るわ」


「それじゃあね」


「おう」


「はい」


 二人を見送ると、この狭い空間に気まずい雰囲気が流れた。


「とりあえず、リビングに戻るか」


「はい……」


 リビングに戻ると、優奈をソファーに座らせる。俺も隅っこに腰掛けて、二人分座れるくらいの空間が空いていた。

 静寂が訪れる。互いが何を話したらいいのか分からないでいた。緊張で口の中が乾いて仕方がなかった。まず謝らないといけない。早くなっている鼓動を落ち着かせるように息を深く吸い、隣に座る少女の名を呼ぼうとすると、


「あの……電話で盗み聞きするような真似をしてごめんなさい……」


 俺より先に優奈が謝罪の言葉を述べる。


「あ、いや。最初は結構驚いたけど怒ってはない。それよりも……」


「それで……大声で言ってたあれって……本音ですか?一緒にいたいって言ってくれたのが……良くんの本音だって……思ってもいいんですか?」


 俺の言葉を遮ぎって、優奈が尋ねてくる。

 呼び方も名前呼びに戻っていた。


「あぁ、信じてくれないかもしれない。信じなくてもいい。それでも……あのときに言った言葉が俺の本音……だ」


 これ以上、嘘を言って彼女を傷つけたくなかった。顔が熱くなるのを感じつつ、肯定する。


「そう……なんですね……」


 優奈も途切れ途切れに言葉を繋ぐ。


「ごめん。優奈を傷つけるようなことを言って。これ以上傷つけさせないために遠ざけようとしたのに、遠ざけるために傷つけてしまったら元も子もないよな。でも、あのときのようなことを起こしたくなくって……それは本当に……」


「あのときというのは石坂さんが言ってた、過去のことについてですか?」


 コクリと頷く。

 優奈がほんの少し俺との距離を詰めてくる。


「少し長くなるけど、聞いてくれるか?」


「はい。聞かせてください」


 隣から彼女の声が聞こえる。こうして一緒の空間にいることが、隣にいてくれているというその事実が、胸を熱くした。


「小五の秋。ある女の子の告白を断ったことがきっかけで、古畑からいじめに遭うようになった。古畑は俺に告白してきた女の子のことが好きだったらしいんだ」


 自分を差し置いてその女の子に告白されるだけではなくその告白を断ったことで、自分のプライドが傷つけられたのだろう。当時の俺は恋なんて分からなかったのだ。

 古畑は昔からガタイがよく喧嘩も強かったためお山の大将で常に自分が上だと気が済まない性格で、常に取り巻きを二、三人は連れていた。


「当時は何もできなくてね。物を隠されたり暴力は当たり前だった。ただ泣くことしかできなかったんだよ」


「先生は……」


「担任はそういうのは見て見ぬ振りさ。面倒なことに首を突っ込みたくなかったんだろう。相談しても『対応する』とため息を吐きながら言って、結局何もしてくれなかった。俺の友人も気がつけば俺をいじめるようになって。当時は斗真と瀬尾さんも違うクラスだったから、いつだって助けてくれるわけじゃない。親にも相談して学校側に抗議してくれたけど、そんなことはあり得ないって門前払い。あの頃は本当にしんどかった……」


 今となって分かる。古畑やその取り巻きも憎かったがそれ以上に、何もしてくれなかった担任が、学校が許せなかった。相談するたびに向けてくる、厄介者を見るような目。あれは一生忘れることはできないだろう。


「でもある時、同じクラスの倉橋さんっていう女の子が助けてくれたんだ」


 担任のあの目が忘れられないのと同じくらいに、彼女が助けに入ってくれたことも一生忘れない。


「正義感の強い子で、違うことは違うときっぱり言い切れる子だった。取り巻きや古畑を追い払って泣いていた俺に手を差し伸べてくれて、あのときは救われたって思ったよ。そこからその倉橋さんと絡むようになって、彼女が習っていた空手を俺も習うようになった。俺に絡んでくるあいつらをいつも追い払ってくれた。俺の目にはとてもカッコよく映った」


「良くんにとって倉橋さんって子は……特別な存在だったんですね」


「うん。どこまでも強くて優しくて。憧れの感情は抱いていた。倉橋さんのようになりたい。少し近づきたい。対等な存在になれるようにって」


 斗真や瀬尾さんと離れていた中で、彼女だけが俺を守ってくれた。そう、いつも間にか彼女の存在が当たり前だと感じるようになっていたのだ。

 そう思い込んでいたからこそ、あの事件を防ぐことができなかった。


「そこであいつらはいじめの対象を俺ではなく倉橋さんに変えた。暴力じゃ敵わないから精神的に追い詰めていったんだ」


 俺は弱かったから暴力でも充分で、物を隠すというのは数える程度しかなかった。だが彼女の場合、その度を過ぎていた。


「まず朝、上履きを隠して机にはありとあらゆる罵詈雑言。ありもしない噂を流して、酷い時は靴に画鋲を仕込んだりな」


「酷い……」


「俺が助けに入ろうとしたとき、古畑が言ったんだよ『助けに入ったら、お前も同じ目に遭わすぞ』って。それを聞いた瞬間足が震えたよ。情けないことに。きっと俺には耐えられないって、直感が感じたんだ。それでも彼女は『わたしは大丈夫だよ。気にしないで』って笑顔で言うんだ。もう一回担任に相談したけど、相変わらず無視。挙句の果てには『虐められる方に原因があるんじゃないんですか?』なんて言う始末だ。笑えるだろ?」


 古畑はクラスのリーダー的存在、と言ってもガタイの良さでただ威圧するだけだった。でも小学校時代はそれでも通用する。倉橋さんの友人も俺の友達と同じように噂を鵜呑みにして、まるで敵を見るような冷たい目で見るようになった。


 本当に救いようがない連中だった。それでも彼女は強いから、こんなもいじめにも負けない強い女の子なんだって、勝手に思い込んでいた。


「そこからいじめが続いたある日、倉橋さんが学校を休んだ。そこから頻度が増えて月一、週一、終いには学校にすら来なくなった。ずっと通っていた空手道場にも姿を見せることはなかった」


 彼女の心はずっと蝕まれていたのだ。いくら肉体的に強かろうと心は小学生。大きな束で襲われてしまえば、簡単に砕かれてしまうのだ。


「そこからまた俺へのいじめの日々が始まった。空手を習ってたおかげか、ある程度はやり返せるようにはなったけど、古畑と対峙するときだけは何故か身体が動かせないんだ」


 最初に暴力を振るってきたのは古畑だった。

 それ以来、殴られるのではないかという恐怖心が全身を襲って、金縛りにあったような感覚になる。精神的な問題。あいつに対してのトラウマが蘇ってしまうのだ。


「それから数ヶ月経ったある日。三月の下旬くらいに倉橋さんから電話がかかってきたんだ。普段と変わりない様子で話してて元気そうだなって思って、でも段々と暗い口調に変わって、電話が切れる直前に彼女はこう言った。『柿谷くんは負けないでね』って。そして六年になった新学期。クラス替えのときに張り出された紙に彼女の名前はなかった」


 今だからこそ分かる。あれは彼女の別れの挨拶だったのだと。


「まさか……」


「転校したよ。両親の仕事の都合だって」


 でもそんなのは表向きの理由だとすぐに分かった。彼女の両親とは何度か面識もあって、どんな仕事をしているのかも教えてもらっていた。双方とも滅多なことがない限り、転勤はまずない職種に就いていたと記憶している。つまり本当の理由は、倉橋さんが学校にいられなくなったことが原因ということだ。今はどこでどう過ごしているのか知る由もない。


「彼女が転校したのを聞いた古畑は俺の目の前に来てこう言ったよ。『お前と関わったせいであいつはいなくなったんだって。お前が傷つけたのと変わらないんだって』」


「そんなの無茶苦茶ですっ!良くんは悪くないじゃないですかっ!だって何も……」

 

「違う。違うんだよ」


 そう言ってくれるのはありがたいのだが、俺は首を横に振り、手を握りしめる。爪が肉を抉って、血が吹き出しそうなほどに強く。


「俺はいじめることも、助けることも、何もしていない」


 古畑になんと言われようとも助けることはできたはずだ。彼女がそうしてくれたように。その姿に憧れて今までやってきたはずなのに。


「関わろうとせずただ黙って見過ごしてた。その時点で俺も彼女をいじめていたんだよ。俺もあいつと、あいつらと同類なんだ」


 怖いから、というのは言い訳だ。俺は彼女がくれた恩を仇で返してしまったのだ。俺が傷つけたのと同義だ。もしただの傍観者にならず、例え役に立たなくとも倉橋さんの隣に立って上げていたら、それだけで彼女の心は救われていたはずだ。俺が彼女を孤立させ、居場所を奪い、結果最悪の事態を招いてしまったのだ。


「なんでこうなってしまったのか。その日からずっと考えていた。俺が弱いから。倉橋さんと対等の存在になれなかったから。彼女の存在に甘えていたから。あげたらキリがない」


 自分自身を蔑むように笑みを作る。


「俺にとって幸運だったのは、あの担任の悪行が他の保護者によって教育委員会にリークされてクビになったことだ。新しい担任はいじめに関することは敏感で、あいつらも手出しすることなかった」


 どうやら決定的な証拠が見つかったらしく、学校側も認めざるを得なかったらしい。いじめの無視だけではなくその他諸々の内容。細かい内容までは知らないが。


「そこからは死ぬ気で頑張ったよ。勉強も運動も全てにおいて。いざとなっては武力行使できるくらいにな。少しでも早くあいつらと離れたかった。同じ空気を吸っていたら、駄目な自分がもっと駄目になる。腐り切った救いようのない人間になる。そう思った」


 相手に舐められないように。自分が相手よりも上だと思わせるために無我夢中で。


「でもそれだけじゃ終わらなかった。その三週間後。交通事故で父さんが死んだ」


「以前、お義母さまから聞きました……その……辛かった……ですよね」


「まぁな。でもそこで完全に理解した。俺は誰かに甘えちゃいけないんだって。頼ったらいけないって。自分だけじゃない。誰かを守れるくらい強くならないといけないんだって」


 女手一人で息子を育てるのは容易なことではない。俺が甘えて母さんに迷惑をかけるわけにはいかなかった。勉強も運動も家のことも完璧に。俺がそんな存在になれば、昔の俺のような生徒がいたときに胸を張って守れるという自信があったから。


「甘えをなくすために高校生になってからは一人暮らしをするって決めていた。学費だけは頭を下げて、あとは一人で稼ぐって言ったけど母さんに反対されたよ。その理由は今でも分からないんだけどな」


「……お義母さまがあのように言ってた理由、分かった気がします」


「ん?」


 優奈が小声で呟いて尋ねるも、「なんでもないです」と小さく首を振った。


「それに……人を信じれないようになった。斗真や瀬尾さんは別だけど、俺のことを嫌うような目で見ている気がして、部活とか委員会とかも入ろうと思えなかった。誰かと関わりを持てばいずれ誰かそんな目で見てくるんじゃないかって」


 優奈との仲が親密になってきたときの男子生徒の目がそれだ。もちろんそんな人間だけじゃないってことは知ってる。真司や秀隆に体育祭の先輩方、優しい人たちがいるのも分かっている。


「優奈を不良から助けたとき、自分は変われたって思った。長い時間はかかったけどようやくそんな自分になれたんだってそう思ってた。でも違った。違ったんだ」


 唇を強く噛む。


「あの日まで古畑のことなんてすっかり忘れていた。忘れようとしていたんだ。中学のときは避けてたし、勝手にトラウマを乗り越えたって思ってた。でも対峙したらあのトラウマが……いじめられていた記憶が蘇って……動けなくなった」


 今まで自分が積み上げてきたものが崩れ去った。崩れるのは本当に一瞬で、自信が揺らいだのだ。太ももに拳を何度も打ち付ける。


「情けないよな。昔の自分が嫌で嫌でたまらなくて変わろうとしたのに、結局何も変わっていなかった。何もかも無駄な努力だったんだ。それだけじゃ飽き足らず優奈も傷つけて……同じ轍を踏んで……何も学習しない……」


 自分に向けた怒りに頭が熱くなる。なぜ自分はこんなにも駄目な人間なのか。救いようのない人間なのか。


「こんなことになるなら……努力しない方が良かった。頑張りたくなかった……」


 俯きながらポツリと漏らした俺の本音。あのまま彼らのように腐った人間になってしまった方がマシだったのではないか。

 変に頑張って中途半端な力を身につけてしまったから、それを過信して同じ過ちを繰り返した。

 頑張っても頑張らなくてもあんな結果を招いてしまったのなら……果たして俺に価値なんてあるのだろうか。


「良くん。こっちを見てください」


 顔を上げる。そこには穏やかで慈しむような優しい瞳で俺を見つめてくれる少女がいた。


「無駄な努力なんて言わないでください。変わろうと思って必死に頑張ってそれを無駄だなんて、自分を否定しないでください」


 そう言うと小さな手を俺の頭の上に乗せて、


「今までよく頑張ったね」


 優しく頭を撫でた。俺の今まで積み重ねてきたものを肯定してくれる。結果なんて散々だ。目も当てられない酷いものだ。だが優奈はその過程に目を向けて、優しい声をかけてくれる。


「優しくしないでくれ……」


 誰にも頼らないと、甘えないと決めていたのに気がつけば天野優奈という一人の少女の存在を受け入れて甘えていたのだ。一緒の時間を過ごしてしまったせいだ。その結果、彼女を傷つけてしまったのだ。


 一緒にいたい。この気持ちにもう嘘はつきたくない。でも一緒にいたら傷つける。傷つけたくない。失いたくない。もうあんな想いはしたくない。だから俺は優奈と一緒にいるべきではない。さまざまな想いが葛藤して、俺を苦しめる。


 その手を退けることは容易いことだろう。口では否定しているのに手が動かせない。


「頼む。もうやめてくれ……」


「いやです」


「俺が甘えたら……頼ったら……傷つけてしまう……」


「人は生きているだけで誰かを傷つけます。誰かを傷つけない人間なんていないんです……甘えたらいけない人間も、頼ったらいけない人間もいないんです……」


 固く守ってきた信条は優奈の声と暖かい手の温もりによってボロボロと、ボロボロと崩れていく。


「俺は強くない……もう守れる自信がない……」


「良くんは強い人です。何度も守って、助けてくれました」


「優奈がどこか遠くに行ってしまう。それが怖くて怖くてたまらない」


「わたしはここにいます。もしそれでも怖いのなら遠くに行かないように手を握っていてください。決して離れることができないように強く握っていてください」


 俺の弱さを優奈は全て優しく受け止める。


「こんな弱い俺が……隣に立つ資格はあるのか?傷つけて悲しませてしまった俺が、優奈の隣に立ってもいいのか?」


「立ってください。良くんが隣に立っていてほしいんです」


 優奈は俺の手に触れる。強く握られた拳は彼女の綺麗な手によってあっけなく解かれてしまう。


「わたしはその人のように強くはありません。でも話を聞いて、隣にいてあげられることはできます。わたしじゃ力不足かもしれない。でももっと頼ってください。甘えてきてください」


 凍てつき塞ぎ切った心が、優奈の暖かい光に当てられて溶けていく。ずっと一人で頑張ってきた。頑張らないといけないと思いこんできた。


「……うぅっ……ひぐっ……」


 目の奥が焼けるような熱さに襲われる。決して流さまいと決めていた一筋の光が頬を流れる。一粒こぼれてしまえば、まるで決壊したダムのように止まらない。


「うっ……ぐぅっ……ごめん……ごめん……」


 まるで子供のように泣きじゃくりながら、目の前にいる少女とあのとき助けられなかった少女に対して謝罪の言葉を言った。優奈は優しく抱きしめてくれて、俺が泣き終わるまでずっと背中をさすってくれた。

お読みいただきありがとうございます。

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