もし叶うのならーー
あの日から一週間が経過していた。俺にとっては永遠とも感じられるほどだった。その日を境に、優奈とは一度会っておらず連絡すらとっていない。
いつも通り掃除して、洗濯して、買い物をして、勉強をして、ご飯を作って、眠りにつくというその繰り返し。それ自体は一週間前と変わらない。 それでもふとした瞬間に、ある考えが浮かぶ。
(一人のとき、他に何してたっけ?)
いつの間にか当たり前だと思っていたその日常が脳裏から離れることなく俺の心を強く締め付ける。時刻は午後三時。今までなら一緒におやつを食べていた時間だ。
世界が色褪せて見える。今のこの日常が退屈でつまらなくて、寂しくて仕方がない。俺が望んでやったことなのに。何を今更後悔しているのか。
俺は洗面台へと向かい、自分の顔を見て手を当てる。少し痩せただろうか。食事が喉を通らなくなって味も美味しいと感じることができなくなっていた。今日の昼食もあまり食べることができなかった。最低限の栄養は摂っているので倒れる心配はないだろうが、一週間前の自分の面影はもうなかった。
夏休みももう終わりを迎えようとしている。こんな情けない面構えを優奈に見せるわけにはいかない。まぁもうただのクラスメイトへと戻ったのだから、どうでも良いことなのだけれど。
インターホンが鳴り響く。
まさか……とほんの少しの期待を胸に宿して、俺はモニターに目をやった。
「斗真と瀬尾さん?」
スマホに連絡は届いていない。どんな急用でも家に訪れるときは必ず連絡を入れてくるはずなのに。
ドアを開くと、「よっ!」と手を挙げて相変わらず元気そうな様子の斗真と、「おはよう」と柔和な笑みを浮かべる瀬尾さんがいた。
「久しぶりだな……少し痩せたか?」
「まぁな。夏バテで食欲がなくてな」
無理矢理笑みを作って後ろ髪を掻きながら適当な嘘を並べて取り繕う。「そっか」と斗真は呟いた。その嘘に気がついている様子はない。
「柿谷くん。少しお邪魔してもいいかな?」
瀬尾さんが口を開く。
「あぁ、ちょっと待って。少し片付けるから」
掃除は欠かさず行っているので埃まみれということはないが、クッションやら床に落ちているものを拾い上げてソファーに置く。
「もう大丈夫。上がってくれ」
「おう。邪魔するぜ」
「お邪魔します」
二人は靴を並べて、リビングへと足を運んだ。
「何か飲むか?つってもお茶とオレンジジュースくらいしかないけど」
「いや、大丈夫」
「わたしもいらないかな」
そう言うと、二人は普段座っているソファーではなく、食卓用に使用している椅子に並ぶようにして腰掛けた。
「こっち座って」
「あぁ」
テーブルを挟んで、俺は二人と向かい合うという形で椅子に座った。
「なぁ、良介」
先ほどまで纏っていた斗真の空気が一変する。そして俺に向けたことがない鋭い目で、
「どういうことだ?」
彼は低い声で言い放った。
☆ ★ ☆
斗真が言ったその一言。主語がなく言葉足らずだが、彼が何のことを言っているのか俺は瞬時に理解した。
「天野さんから聞いたのか」
「まぁそんなところ」
俺は彼の隣に座る少女へと視線を移す。瀬尾さんの性格は温厚。斗真には少し厳しい面もあるが、面倒見が良くて斗真がベタ惚れするのも納得だ。
普段は穏やかな瀬尾さんではあるが今日は、今この瞬間と言うべきか。険しい面持ちへと変化をさせていた。
「わたしたち、天ちゃんから呼び出されて聞いたんだ。一週間前の出来事。別に責めるつもりはないよ。柿谷くんも考えがあってのことだと思っているから。でも……」
瀬尾さんは肩を震わせる。少し呼吸を荒くして、それでも俺に言った。
「泣きながらわたしたちに相談してきたんだよ。傷つかせたくないから、わたしがいると迷惑になるから一緒にいたくないって。柿谷くんといたときの天ちゃん、凄く楽しそうにしているの知ってるから……それを聞いてわたし……」
「良介。お前は一番やっちゃいけないことやってんだよ。どんなことがあっても、何に巻き込まれても男は女を泣かせちゃいけねぇんだ……なんでそんなこと言ったんだよ」
歯を食いしばって、斗真は俺を睨んだ。
「お前らには関係ないだろ。わざわざその話をするために来たってのか?」
「いくら良介でも、それ以上言ったらキレるぞ」
「それならキレて気が済むまで俺を罵倒して、殴ればいいだろう。とにかくこれは俺と彼女の問題だ」
頬を引き攣らせる斗真を見て、俺は鼻を鳴らす。いっそのこと、本当に殴って終わりにしてほしかった。これ以上この話をしたくなかった。
「天ちゃんが相談してきた時点で、わたしたちももう関係者なんだよ。仮に相談してこなかったとしても、学校での二人の空気を見たら何かあったって思って、柿谷くんに尋ねるよ。『何かあったの?』って」
「今までそんなこと言う奴じゃなかったじゃんかよ。一体何があってそんなこと言ったんだよ」
どうやら二人は真相を話すまで帰るつもりはないらしい。例えだんまりを貫いたとしても、俺が口を開くまで帰るつもりはないのかもしれない。
だったら言ってやる。優奈にぶつけた言葉をそのまま。自分を拒絶してほしいがためにぶつけた心ない言葉を。
「なんでって……そう思ったから言っただけだ……一緒にいるのが疲れるって!噂をされて変な目で見られるのはもう嫌だって!わけの分からない勝負をふっかけられるのは嫌だって!」
醜い叫びだ。自分が気持ちよくなりたいためだけのそんな叫び。
「不良に絡まれているところを助けたのだって後悔している。別の誰かが助けに入っていたかもしれない。先生が横に入って止めていたかもしれない。俺が助ける必要なんてなかったんだ。俺が正義感を振り翳して変にしゃしゃり出てしまったからだ。ただ目を閉じて耳を塞いで知らないふりをしておけば、何もない普通の生活が送れていたかもしれないんだ。こんなバタバタと振り回されるような高校生活なんて、望んじゃいなかった。だから言ったんだよ。お前と関わったからって。こんな生活はもう嫌だから関わらないでくれって!」
俺は言い終わると、髪を掻きむしる。
失望してくれ。俺はその程度の人間だったって。大切な友人にすら見限られる俺は、一体どれほど滑稽に映るのだろうか。
「それは良介の本心から出た言葉か?」
「は?」
斗真から出た言葉は予想もしていなかった一言だった。
「そんなの本心に決まってるだろ」
「嘘だね」
「違う」
「違わない。お前は嘘しか言っていない」
なんでそう思う。なんでそう言い切れる。
「あのな。何年一緒にいると思ってんだよ。お前が嘘をつくのが下手な人間ってこと。思ってることが顔に出やすい人間だってことは、とうの昔から知ってんだよ。嘘をつくときは大抵早口になるか、そっぽを向くか、髪の毛を掻きむしるか。まぁその癖が出ないときもあるけど、出たら嘘ついてるなって分かる」
小学校時代から一緒だからこそ、近くにいた斗真だからこそ見破られた俺の嘘。
「違う。何もかもが違う。俺はあいつに酷い言葉を投げかけた。一緒にいると疲れるって……」
「動揺してるのがバレバレ。嘘言ってる」
うぐっと言葉を詰まらせる。こういうところは本当に鋭い。
「さっきも言ったけどよ。俺たちは良介がそんなことを本気で言うとは思えないんだよ。少なからず人間性は理解しているつもりだしな。良介の本当の気持ちが知りたいんだよ。なんでそこまでして天野さんを遠ざけようとしたのか。ってな」
斗真の表情が少し柔らかくなる。瀬尾さんは先ほどまでとあまり変わらないが、雰囲気に棘はなくなった気がした。
「それとも……本当に天野さんのことが嫌いになって、遠ざけようと思ったのか?」
斗真の言った一言。第三者から見たら、そう思うのはごく当然のことだ。俺から突き放したのだから。もう一緒に居たくないと、言い切ったのだから。俺が優奈を嫌いだと思うのは当然なのだ。
「……ない」
「聞こえない」
「……わけない」
「もっと大きい声で言え!この場から天野さんに聞こえるように叫べ!」
「そんなわけないだろ!」
声が潰れてもいいと思った。肺が壊れてもいいと思った。近所迷惑なんて考える余裕もなく、俺は叫ぶ。
「俺はもっと……一緒に居たかったっ!優奈の料理をもっと食いたかったっ!作った料理を食わせて美味しいって言う笑顔をもっと見たかった!いろんなところに行ってっ!いろんな思い出を作ってっ!それから……それから……」
もう叶うなずのないどこまでも愚かで自分勝手で強欲な想いを吐き散らす。
「嫌いなわけがないっ!優奈と過ごす日々はとても楽しくて……こんな日々がずっと続けばいいのにって……それなのに……あの日あいつに言われたんだよ。俺のせいで、彼女がいなくならなければいいなって……怖くなった。そんなことはないって思いこんでも、心のどこかでそんな考えが残ってて……俺のせいで優奈が傷ついて、生きるのが辛くなるって思うんじゃないかって考えたら……」
「やっぱり……あいつが原因なのか……」
「……それもある。でもそれだけじゃない。俺と関わったら優奈もあの子みたいに……」
あの子というのは小学校時代、俺の恩人とも言えるべき少女だ。俺のせいで傷つき、目の前から去っていた女の子。それが今となって記憶から呼び覚まされたのだ。
「だから……俺と関わって傷ついてしまう前に……一生関わりなんてなくてもいいから、笑顔で過ごしてほしいって……」
胸が熱い。目の奥から込み上げてくる必死に抑え込みながら俺は言葉を必死に繋いだ。
「柿谷くん。天ちゃんとの関係って……得をするから一緒にいるとか損をするから離れようとか、そんな打算的な関係なのかな?少なくともわたしはそうじゃないと思う。もちろん世の中にはそんな関係もあると思うよ。お金の関係とか、身体の関係とかね。でも天ちゃんは得とか損とか関係なしに、柿谷くんと一緒に居られなくなるのが嫌で泣いてたんだよ」
分かっていた。一緒に過ごしている中で俺に向けてくれていた笑顔が嘘偽りのないものだってことを。何故なら俺もそうだったから。
「良介。上から目線で申し訳ないがお前のやり方が正しいとは言えない。傷つけないようにと無理矢理遠ざけようとしたって、結局天野さんは傷ついてしまっている」
「そんなこと分かってるっ!俺のやり方が何一つ正しくないってこともっ!あいつを傷つけてしまっていることもっ!何もかも自分勝手だってことも全部っ!でもこうするしかなかったんだよ……この一週間ずっと考えたっ!でもこのやり方しか……思いつかなかった……」
そう。どれだけアプローチを変えようとも、優奈を自分から離れさせるにはこのやり方にしか辿り着かなかったのだ。今更嘆いたって遅い。もうこの結末は変えられない。
「良介。お前はこれからどうしたい?」
斗真は優しく問いかけてくる。いつも通りの、俺と楽しげに話しかけてくれる穏やかな石坂斗真の顔だ。
「酷いこと言ったことを謝りたい……傷つけたことを謝りたい……」
「またあの頃の関係に戻りたいってことは?」
「言えるわけないだろ。そんなこと口が裂けたって言える言葉じゃない。俺から一方的に突き放して、謝ったからまたこの手を取ってくださいってか?許してくれるわけがない。少なくとも俺だったら許さない」
「言えるわけないってことは……良介はまた元の関係に戻りたいってことだな。それならちゃんとそう言えよ」
斗真は呆れたようなため息を漏らした。
こんな身勝手なお願いを優奈が受け入れてくれるわけがない。
「良介の口から聞かせろ。元の関係に戻りたいのか、戻りたくないのか」
「俺は……」
もしこのどこまでも自分本位な想いを口にして良いのなら。俺はーー
「また、あの頃のように一緒に過ごしたい」
「その言葉に嘘はねぇな」
「ない……」
「よし。梨花。そろそろいいんじゃね?」
「ん。そうだね」
何やら二人で話をしていた。状況が理解できずに目を丸くしている俺を置いてけぼりにして、瀬尾さんはスマホをポケットから取り出すと、それを耳に当てる。
「もしもし。聞こえてた?……うん。それじゃあわたし、外で待ってるから」
通話している?誰と?瀬尾さんは立ち上がって小走りで玄関へと向かい鍵を開けに向かう。
「ちょっと瀬尾さん。何やってんだよ。斗真、どういうことだよ」
斗真に問い詰めるも、さぁ?と言いたげに首を傾げる。どうやら本当のことを言う気はないらしい。
しばらくして瀬尾さんが戻ってきた。彼女の後ろにはもう一人。クリーム色の髪に大きな瞳。小さな歩幅で姿を見せる。
「お久しぶりです」
もう一度聴きたかった声が耳に届く。謝りたかった女の子が俺の目の前に現れた。
お読みいただきありがとうございます。
ブクマ、評価等いただけたら嬉しいです。




