悪夢にうなされて
手足の感覚がない。喋ることもできず目の前に広がる景色をただ見つめることしかできなかった。
辺りを見渡せば机が規則正しく並べられていて、後ろにはロッカーやポスターなどが貼り出されている。間違いない。小学校時代に俺が過ごした教室だ。
クスクスと笑い声が聞こえる。
そこには俺よりも身体が一回りも二回りも小さな子供たちがいた。中心には見覚えのある顔の人物がいた。古畑だ。幼いがその性格悪そうな目つきと雰囲気は変わっていない。周りには複数の子供たちがいて、彼らの視線は一人の女の子に向けられていた。
その少女の机には、油性マジックで悪口が書かれていた。目の前に一人の男の子が横切る。小学校時代の自分だと一目見て分かった。
俺はその少女を見るも、程なくして視線を外し自分の席に座った。
少女は涙一つ見せず表情を変えることなく、雑巾で自分の机を拭いていた。
おい。何をしている。助けにいけよ。
喋ることができないのがもどかしい。そう強く昔の俺に念ずるが、関わりを避けるかのように窓の外をボーッと見つめていた。
担任が入ってきて出席を取り始める。
その少女には目にもくれず、まるで興味がない。いや、そもそも眼中に入っていないようだった。
場面が切り替わる。
さっきまでいた教室の空間が歪み、黒い世界へと姿を変える。そこにいたのは虐められていた少女と俺の二人だけだった。背をこちらに向けていて、表情を読み取ることができない。
やがてその少女はゆっくりと振り返る。
そこにもう一人の人影が現れる。高校時代に知り合った、俺が特別だと思っていた存在だ。
二人は一緒に口を開いて、言った。
「「さようなら」」
二人の存在が足元から崩れていく。ボロボロとボロボロと、俺を残して消えていく。
そして彼女たちとは違うもう一つの人影が現れた。表情は暗くて読み取れない。
「お前と関わったから、傷ついていくんだ」
再び聞こえる悪魔の言葉。その瞬間、目の前にいるのが誰か分かった。顔は見えない。それでもそいつ以外にあり得ない。耳を塞いでもそれは永遠に流れてくる。
「お前が特別だと思った存在は、みんな傷ついていく。お前なんかと関わったからだ。お前のせいだ」
違う。
「何が違う。お前にとって恩人の少女が虐められていても助けに向かわず見捨てて、気がつけば何処かに行ってしまった。今日とてお前特別な存在が傷つけられそうになっていたとき、お前は何をしていた?怯えて、震えて、何もできずにただ突っ立っていただけだろう」
違う。違う違う。
「お前のせいで。お前のせいで」
その言葉はまるで呪いのように、俺の脳を支配していく。
「全部……お前のせいだ」
俺のせい。全部全部俺のせい……
その言葉は胸を強く締め付けた。
☆ ★ ☆
バッと目が覚めて、俺は上半身を起こした。
「ハアッ、ハァッ……夢か……」
置き時計に目をやると、夜の八時を回っていた。
帰宅したのは五時半過ぎ。いつ意識を落としたのかは覚えていないが、少なくとも二時間は眠っていたということだろう。
「チッ。なんで今になって……」
汗がべっとり纏わりついて気持ち悪い。
俺は立ち上がり風呂を沸かしに向かい、タオルを取り出して汗を拭う。
既に夕食を済ませている時間帯だが、まるで食欲がない。胃が食べ物をうけつけないのだ。水分補給だけはと思い、水をコップに注いで飲み干した。
ソファーに座って深いため息を漏らす。
もはや過去の記憶の再現とも言えるべき、鮮明な悪夢だった。嫌な夢ほど覚えているとはよく言うが、全く持ってその通りだ。
『お前が特別だと思った存在は、みんな離れていく。お前なんかと関わったからだ』
悪夢にて誰かに言われたその言葉。
「まさか……自分に言われるとはな……」
俺は乾いた笑みを浮かべる。
過去の自分が嫌いで、変わろうと必死だった。あの頃から変わることができたと思っていた。
だが結局、何も変わっていなかった。
現に今日、優奈が古畑に絡まれているとき、俺は何もできなかった。あのときと同じように。
変わったと思い込むことで自分のやってきたことが正しいのだと肯定したかったのだ。そうしないと柿谷良介という存在が、本当に消えてしまうと思ったからだ。
俺が特別だと思ったから。そう思った存在が俺なんかと関わったから。
湯はりが完了した音とアナウンスが鳴る。
身体を洗ってぬるめのお湯に浸かりながら、ずっと考えた。
俺と一緒にいたら迷惑になる。
これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
俺はある決心をして、明日を迎えることとなった。
☆ ★ ☆
翌朝ーー
インターホンが鳴る。
ドアを開けると優奈が立っていた。昨日のことを気にしてか、俺のことを心配そうに見つめて。
「おはよう」
「おはようございます。体調のほうはどうですか?」
「大丈夫だよ。悪いな、心配かけて」
リビングに向かうと、俺は言った。
「優奈。話があるんだ」
「話?」
ドクンと昨日とは違った恐怖が身体を襲っていた。それだけは決して悟られぬように抑え込む。俺たちは向かい合うように椅子に腰掛ける。彼女は少し身構えた様子で、俺をじっと見た。
「ごめん。俺のせいで、昨日優奈に嫌な思いをさせて」
「だから良くんは悪くないって言ってるじゃないですか」
「違う。俺のせいなんだ。俺が優奈と関わってしまったからなんだ。これ以上俺と関わったら、またお前に嫌な思いをさせてしまう。だからさ、優奈……」
俺は今、どんな顔をしているだろう。
きっとなんとも言えない表情をしているに違いない。それでも震える声を必死に紡いで、
「この関係を、終わりにしよう」
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