母さん
玄関の扉をドアを開けると、深く深呼吸をした。住み慣れた実家の空気を吸うと安心できて、実家にいるんだという実感を感じられる。
「お邪魔します」
優奈の表情は固く、どこか落ち着かない様子で辺りをキョロキョロしている。
靴を並べてリビングに足を踏み入れる。
俺がいたときとはソファーやテーブルなどの家具の位置や向きが変わっていた。それに不要だったものを捨てたことによって、リビング全体がスッキリしている。
「母さん。優奈の荷物ってどこにあるんだ?」
一階には優奈の荷物らしきものは見当たらなかっい。
「あぁ、優奈ちゃんの荷物ならあんたの部屋に置いてあるわよ。布団もちゃんと用意してあるわ」
「おいちょっと待て。なんか優奈が俺の部屋で過ごすみたいなことなってんだよ。確か空き部屋が一つあったはずだろうが」
二階には俺の部屋と両親の寝室に小さな書斎。そして空き部屋が一つある。空き部屋は何かあったときのために作っておいたものらしい。
だとしたら今まさにその空き部屋の本領が発揮される場面だ。今ごろ空き部屋泣いているぞ。
一緒というのが嫌というわけではない。
クラスの『姫』と呼ばれる彼女と一緒に過ごす空間は、教室中の男子生徒の誰もが羨む展開だろう。
そんな彼女と密閉空間に閉じ込められようものならば……
「大丈夫。安心しなさい。この家は防音対策もバッチリしてあるんだから。大きな音立てたって問題ないわよ」
「そういう問題じゃない」
チラッと優奈の方に視線を向けると、何も発することなく頬を赤らめて俯いていた。お互い母さんの言っていることがどういう意味を表しているのかは理解しているようで。
仮に恋人関係にあったとしても、母さんがいる実家で行えるわけがない。母さんは俺たちの反応を見て楽しみたかったのか、程なくして「冗談よ。空き部屋に置いてあるわ」と悪戯っぽく笑った。
呆れたようなため息を漏らして、優奈と一緒に二階にある空き部屋を目指す。
「悪い。優奈が来てくれたこと相当嬉しいみたいだ」
「いえ。少し驚きましたけど……」
母さんの言葉が頭に残っているのか顔がまだ赤い。夜に二人で話すとか言っていたけど、今から不安で仕方がない。
「えっと。ここが優奈の部屋。そして隣が母さんの寝室。そして奥にあるのが俺の部屋。二人で話をするとしたら一階の和室になるだろうな」
一階には畳八畳ほどの和室がある。主に来客用として使用しているそうだ。
「まぁその……なんだ。母さんのペースに振り回されないようにな」
どちらかといえばマイペースな部類にあたる優奈が母さんのハイペースに合わせたら疲れ切ってしまうのではないか思い、お節介だと思いつつそう声をかける。
「でもわたし、お義母さま好きですよ。一人暮らし上手くやれているかとか、体調はどうだとか。良くんのことを心配していましたし」
「毎週電話で伝えてるんだけどなぁ」
「それでも心配だと思います。それだけ良くんのことが好きなんですよ」
毎週顔を合わせて電話をするというのが柿谷家のルールなのだが、一日の事後報告としてラインは毎日行なっている。
優奈を通してまで確認してくるというのは、それだけ母さんが俺のことを大事にしてくれていることだし、これまで大切に育ててくれたことも知っている。今だって学費や家賃を払ってもらっているわけだしな。口でこそ出さないが母さんも父さんのことも好きだ。本当に感謝してもしきれない。
それ故に、距離が近すぎるというのが難点でもあるのだが。今どき男子高校生に抱きついてくる母親なんているのだろうか。俺の場合、今のところ母さんのその要求に応えてあげること以外できないのでそうしているというのが現状だ。
「それでは少し荷解きしてきます」
「おう。俺は少し母さんの手伝いしてくるから」
俺は一階に降りてキッチンへと向かう。
そこにはエプロン姿の母さんが昼食の準備を始めていた。
「優奈ちゃんは?」
「荷解き。今日の昼飯は冷やし中華?」
キッチンにある食材を見て母さんに尋ねる。「そうよー」と言いながら、母さんはキュウリを千切りにしていた。
「手伝うよ」
「じゃあ中華麺茹でて」
「おっす」
鍋に水を入れて沸騰させる。そこに中華麺を入れて菜箸で混ぜていく。隣からはトントンと一定のリズムを刻んで、慣れた手つきでハムを千切りにしていく母さんの姿がある。
「久しぶりね。二人でこうしてご飯作るの。小学生以来?」
「あーそうかも。中学からは殆ど俺が作っていたからな」
仕事帰りで疲れている母さんの負担を少しでも減らそうと思ったのだ。
「そのおかげで良介の料理の腕が上がったんだから感謝してもらいたいわね」
「はいはい。感謝していますよっと」
茹で上がった中華麺を氷水に入れて冷やしていく。それが終われば、あとはタレの準備だ。ボウルにタレの材料を入れてかき混ぜていく。
「母さん」
「ん?」
「……ありがとう」
母さんは目を丸めてこちらを見る。そしてプッと吹き出すように笑った。
「良介どうしたの?何か変なものでも食べた?」
「……なんでもない」
俺自身、何思って言おうと思ったのかは分からない。だが、育ててくれてありがとうと言うつもりだったのに、直前で気恥ずかしくなって言えなかったし母さんからは笑われるしで俺はかき混ぜるスピードが上がる。
しかし、俺が何を言いたかったのか分かっていたかのように母さんは「どういたしまして」と言って、トマトのヘタを取っていった。




