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とある日のこと

 青蘭高校の図書室には辞書や専門書、今流行りの小説まで取り揃えていて、室内の本棚には空間がないくらいずらりと本が並んでいる。

 その膨大にある本の中から自分の目当ての本を探し出してそれを借りていく生徒は少なく見積もってもニ〜三十人はいるだろう。


 初めて訪れた生徒は自分の求めている本を探すのに一苦労するだろうがまだそれはいい。一度見つければ、今後はその場所を探せばいいのだから。

 問題は本を片付ける図書委員の方だ。図書金の本には番号が振られているが、広い図書室の敷き詰められるように並んでいる本棚から本を所定の位置に戻さなくてはいけない。つまりおおよその本の位置は把握しておかなければ仕事にならないのだ。


 小林千春はそんな青蘭高校の図書委員を務めている。


 本が好きだから。

 彼女が図書委員になったのはただそれだけの理由だった。


 授業態度も模範的生徒と言えるほどに真面目。努力も怠ったこともなく、中学の頃は成績も常に一位から三位の争いを繰り広げていた秀才だった。


 だが、青蘭高校に入学してから彼女は思い知る。これまでの積み上げてきた努力はここでは当然のことで秀才と言われた自分はここでは凡人であることを。

 常に満点と満点に近い点数を叩き出す怪物二名。もちろんそれに叶うわけもなく、その後もずるずる後退して中の上。普通の順位。

 その後どれだけ努力を積み重ねても、秀才がそれ以上の努力を積み重ねれば差は開いていくばかり。彼女の順位が上がることはなかった。


 それを機に、彼女はそれ以上の努力を辞めた。

 これまで通りの努力をして、これまで通りの順位をとる。普通の順位であることに満足するようになった。


 彼女自身分かっていた。

 それ以上のことをしなくなるということは、足を止めるということ。差が開き続けようとただ離れていく背中を見ているだけだということ。


 だが、もう疲れてしまったのだ。

 努力することに。親の期待に応えることに。

 努力をしても結果が出なければ認められない。褒められない。

 ならば最初からほどほどの努力で妥協すればいい。そうすれば最初から傷つかなくて済むから。


 そんな彼女にも好きなことがある。

 それは本を読むことだった。読書は彼女が勉強以外に没頭できる唯一の趣味といったところだろう。

 文章を読むのが好きなこともあったのだが、登場人物の心情を読み取り、作者の気持ちを理解する。文章から滲み出る想いを感じ取れるのが好きだった。

 何より、本は自分を期待しない。ただ活字を読むだけで心を満たしてくれる。これほどの相手はいないだろう。


 学校でも本と身近に関わりたいと思い、図書委員を選んだ。

 仕事は大変だが、大好きな本に携われるというだけで苦痛と感じることはなかった。

 感謝をされることはない。図書委員だからやって当たり前の仕事程度の認識と思っていると、彼女は感じた。むしろそっちの方がありがたい。

 

 期待も褒められもしない。好きなものに囲まれる。これほど静かで穏やかな充実した日々だった。

 ある日、本の整理をしていたときに一人の男子が図書室に姿を見せた。


 見事に丸められた坊主頭と見慣れた顔で、すぐに同じクラスメイトの白石真司であることを確認する。

 だがこれまで喋ったこともない。運動部で騒がしいながらもいつも楽しそうな陽と、物静かで真面目さが取り柄の陰。どこをどうすれば交わることができるだろうか。


「あら。こんにちは白石くん」


「こんにちは。前言ってた最新刊、返却されてますか?」


「ごめんなさいね。まだ返却されていないの。返ってきたらまた教えるから」


「あー。ほんとですか。分かりました。そのときはまたお願いします」


 迷惑にならない程度の小声で司書教諭の女性が申し訳なさげに言うと、男子生徒も肩を竦めながらも微笑を浮かべていた。


 まだ会って日も浅いのに、いつの間にか普通に話せている。だから彼の周りには自然と人が集まるのだろうと、彼女は素直にそう思った。


 彼女は小さく息を吐いたあと、業務に戻る。

 思ったが思っただけ。彼とは何も繋がりもない。お互い何も知らないただの同級生。それ以上もそれ以下もなかった。


「あれ?ここの本棚の本、凄い丁寧に整理されてますね」


 本棚に視線を向けていた彼がふと呟いた。


「本も番号順に並んでるし埃も綺麗になくなってる。失礼ですけど前とかは番号入れ替わってたり埃かぶってましたよね」


「そうなの。ここって本が膨大にあるでしょ。だから途中で整理整頓諦めちゃう生徒さんもいるのよ。でもね、今日担当の子は本の整理もきっちりやってくれるし落ち着いた時間になったら、本棚の掃除とか色々とやってくれるのよ」


「そうなんすか。確か二週間前に来たときも凄く綺麗になってましたけど」


「えぇ。確かその日も小林さんだったはずよ。白石くんと同じ一年生の」


「へぇ。小林が。そうだったんすね」


 クラスメイトなので一応覚えている程度の認識なのだろうと、彼女は思った。

 

「あんま話したことないんで分からないんですけど、小林って多分いい子なんすよね。たまにある朝練のときに先に教室寄るんすけど、いつも小林が一番に学校に来て花瓶の水の入れ替えとか教室の掃き掃除とかやってるんですよ。やってることは当たり前なことかもしれないけどそれって実は一番難しいことだと思うっすから。ってすみません。長々と」


 彼は右手で後頭部を搔きながら笑った。


「あらあら熱弁しちゃって。若いっていいわ」


「そんなんじゃないっすよー」


 彼に見られないように彼女は本棚に身を潜めた。


 水の入れ替えも掃き掃除も図書室の掃除も彼女にとっては当たり前。

 自分がやりたくてやっていることで、それをして誰かに評価されたいとか喜んで欲しいとかなんて微塵も考えたこともなかった。

 それでも――


 (見てくれている人もいるんだ……)

 

 久しぶりに誰かに褒められたような気がした。

 小さなことかもしれないけど、それをちゃんと見てくれている人がいて評価してくれる。


 それが堪らなく嬉しくて、気がつけば口元が少し緩んでいる。彼女は慌ててそれを隠した。


「それじゃあ失礼しまーす」


 彼はそう言って図書室を去っていき、彼女は隠れた本棚から顔だけを覗かせる。パタンと扉が閉まったのを確認してほっと一息つき、自分の胸に手を当てた。

 

 少しだけ鼓動が早くなっているようにも感じる。

 その日を境に、彼女は彼のことを目で追うようになった。

お読みいただきありがとうございます。


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