『あの日』
沈みかけていた夕日はやがて姿を隠し、上空には星々が瞬く漆黒の空。そんな夜空が打ち上げを終えてカラオケ店を出た俺たちを出迎えた。吹き抜ける夜風が熱で篭っていた身体を冷やしてくれているのを感じた。
「久々にカラオケ来たけど楽しかったね」
「また今度行こうよ」
「やべぇ声掠れた。しばらく出ねーかも」
「そりゃあんな無理して声出したらそうなるわな」
「マイクの音量下げて正解だったね」
各々立ち話に勤しんでいる中、俺はスマホを取り出して現在時刻を確認する。予約時間まであと二十分ほど余裕があるので、今から向かえば間に合うだろう。
「良くん。そろそろ帰りますか?」
立ち話から抜けてきた優奈がそう尋ねてきた。今日が『あの日』であることは当然優奈も覚えているはずだ。その証拠に優奈の声が心なしか上擦っているように聞こえる。
「あー……悪い優奈。今日も少し寄るところがあるから先に帰って待っててくれないか」
「そう……ですか」
笑顔だった優奈が肩を竦めて小さく呟く。
寂しそうにシュンとするその姿を間近に見て心がもの凄く痛むが、贈り物のこともある。サプライズのことを考えれば一緒に帰るわけにはいかない。
「ごめんな。帰りは斗真に送ってもらうように頼んだから三人で帰っててくれ」
斗真には事前に話をつけてある。
彼らも立ち話を終えて、斗真と瀬尾さんもこちらに近づいてきた。
「悪いな斗真」
「別にいいさ。そういう話ならしょうがないしな」
「あの件は優奈には内緒で頼むぞ」
信用しているが念のため釘を刺しておく。斗真も「分かってるよ。言わない言わない」と笑いながら頷いた。
「早く帰ってきてくださいね。今日はご馳走作ってますから」
「あぁ。そんなに遅くならないと思うけどなるべく早く帰るよ」
この時点で優奈が今日をなんの日か覚えているかは決定的だ。それだけに家に一人でいさせるのは心苦しいので、なるべく早く帰宅することを優奈に伝える。
「それじゃあまた学校でな」
「おう。じゃあなー」
「バイバーイ」
それぞれ違う帰路を辿っていく。俺も目的地を目指すべく、一人街灯が灯る夜道を歩き始めた。
☆ ★ ☆
カラオケ店から歩いて十五分ほど。そこは俺が昨日予約しに訪れた小さな花屋だった。
店構えこそそれほど大きくないが、取り揃えている花の種類の豊富さと店員さんの対応も丁寧と評判の良い花屋だ。
店内に入ると、一人の女性が仕入れた花の手入れを行っていた。
「すみません。昨日予約した柿谷ですけど」
「柿谷様ですね。既に準備は整えておりますので少々お待ちください」
その女性は俺が昨日訪れた際に対応してくれた店員さんだったため、顔を見て昨日の客だとすぐに分かってくれて、用意してある花束を取りに裏へと向かった。
「こちらご予約いただいた花束になります。本数はお間違いないでしょうか」
「はい、大丈夫です」
予約した花束を傷つけないように女性店員さんからそっと受け取る。
「こんな可愛いラッピングまでしてもらってありがとうございます」
桃色のラッピングペーパーに包まれそれを赤色のリボンで結ばれた花束。可愛らしく美しいブーケが今、俺の手元に収まっている。
「いえいえ。これもお仕事ですから。その花束は彼女さんへの贈り物か何かですか?」
花束を見つめている俺に店員さんが柔らかい物腰でそう尋ねてきた。
まぁこの花束を見てそれ以外の何物でもないことは分かりきっていることだろう。それを分かった上で聞いてきているのだ。俺を微笑ましそうに口元を緩めながら見ているのがいい証拠だ。
「そんなところです」
「彼女さん、必ず喜んでくれますよ」
「喜んでくれたら嬉しいですね」
店員さんと軽い会話の後、優奈が待つ自宅へと急ぐ。その帰り道、行き交う通行人たちから店員さんと同じような温かい視線を向けられていたのをすごく感じていた。
☆ ★ ☆
「おかえりなさい」
帰宅してキッチンに顔を出すと、お玉で鍋を混ぜていた優奈が笑顔をこぼした。
「思ったよりも早かったですね」
「そうだな。思いの外買い物が早く済んだ」
何を買ったかは当然伏せておく。ちなみに花束はバレないように玄関先に隠してあるので、玄関に寄らない限りは見つかることはないだろう。
優奈もそれ以上は聞いてこなかったので、斗真から情報が漏れることはなかったのだと思う。
「おぉ。今日はシチューか。楽しみ」
手を洗って、鍋の中を覗き込むと肉と野菜がぐつぐつと煮込まれている。近くには薄力粉と牛乳が用意されていた。サラダはある程度準備が済んでいるようで、主食であるシチューに合わせてなのか、フランスパンが置かれていた。
俺はシチューを作る際は市販の素を使用しているが、優奈はルーも手作りで作っているそうでそれが俺の口にも合う。
「良くんシチュー大好きですもんね。今日はパンにしようと思ったのですが、ご飯も用意できますけど……」
「いや、せっかく買ってきてくれたんだしパン食べるわ。何か手伝うよ」
「ならルーを作ってもらいたいです」
「了解。とろみがでるまでだよな」
「はい。お願いします」
『あの日』でも日常に何か変化するわけではない。いつものようにキッチンで話に花を咲かせながら一緒に夕食の準備を進めた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマーク、評価していただけると嬉しいです。




