全肯定お姫様
その日の夜――
俺はベッドに横たわり、目を閉じて目元を腕で覆っていた。
とりあえず、言おうと決めていたことは言った。もちろんそれが全てではないが、もしあの場で全てを吐き出してしまえば止まらなくなってしまうことは分かっていた。
それにもうとっくに溜飲は下がっているので、眠っている恨み辛みは漏らすことなく全て飲み込んでしまうことにした。
帰ったタイミングで母さんにはある程度話した。その上で特に何も問題はなかったことを伝えて、この話は終わった。
コンコン、と自室のドアをノックする音がして、腕をどかして閉じてた瞼を開く。自室を照らす照明が眩しくて、思わず目を細めた。
「良くん。優奈です。入っても大丈夫ですか?」
「どうぞ」
上半身を起こして返事をすれば、失礼します、と優奈がドアを開ける。優奈は先ほどまでお風呂に入っていたので、格好は寝衣姿だ。
「お風呂空いたので呼びにきました」
「分かった」
口元を緩ませる優奈を見て、俺も小さく笑って目尻を下げた。優奈は歩みを進めて俺のベットに腰を下ろすと、拳一握り分ほどの距離まで詰めてきて俺の顔をジッと見つめる。
「ど、どうしたよ?」
「……大丈夫ですか?」
彼女の行動の真意を探るべく尋ねると、ちょっと間を空けて、俺を気にかける言葉を吐いた。
表情は憂わしげで、綺麗なクリーム色の瞳は心配そうな眼差しを浮かべていた。
「……なんで、そう思った?」
今日の出来事を優奈には言っていない。
俺がどこにいるのかと優奈から聞かれたら、一人で商店街に行ったと伝えてくれと、母さんに伝えている。
あの人と会うことも、昨日の段階では優奈が入浴しに向かったタイミングで伝えている。
優奈には、余計な心配をかけたくなかったからだ。
「いえ。でもいつもの良くんとは雰囲気が若干違う感じがして……何かあったのかなって、もしわたしの勘違いだったらごめんなさい」
優奈は申し訳なさそうに述べた。
「……ふっ。くくっ……」
思わず笑みがこぼれてしまい、優奈は不思議そうにキョトンとした顔を浮かべた。
仕草や眼球の動きから相手の考えていることを察することに対してはとてつもなく敏感なのに、いざ俺もやろうとすると、何を話さずとも今みたいに優奈にすぐ暴かれてしまう。
やはり下手に嘘をついたり、何かを隠すようなことをしない方がいいと、一人で小さく笑いながら心の底から思った。
ひとしきり落ち着いて、浮かんだ涙を指で軽く拭いてから頷いて、
「うん。あったよ」
俺は頷くと、まるで溜まっていたものを吐き出すかのように次から次へと優奈に話し始めた。
☆ ★ ☆
「ってことがあった」
今日の午前中、小学校の担任に会ってきたこと。
前日に谷口さんからその担任が書いたメモ紙を預かっていたこと。
会って何を話すかと思えば、自分のしてきたことに謝罪の言葉を述べるどころか、キャリアに傷つけられた腹いせとして文句を言ってきたこと。
俺も言いたいことは全部言ってやって、帰ってきたこと。
優奈にも以前、担任の話はしていたのでどんな人物なのかは大体想像できているだろう。その上今回の件を上乗せしているので、優奈の中でのあの人は教師としてあってはいけない、そんな人物像が出来上がっているのかもしれない。
優奈は途中で言葉を挟むことなく、ただ黙って聞いてくれた。
「多少言い争いみたいにはなったけど、別に手を出されたとかそういったのはなかったから。だからどこか怪我してるとかそんなのは全くないから」
肩を掴まれそうになったのは、結果として影響を与えなかったので黙っておくことにする。
「良くん」
今まで唇を結んで話に耳を傾けて傾聴していた優奈がその口を開いた。その声音はとても温かみがあって、安心感を与えてくれる。
「――スッキリしましたか?」
「ん?あ、あぁ。そりゃスッキリしたさ。あんな顔を拝めることができて、本当に良かったよ」
睨みつけたときに浮かべたあの驚いたような表情。あのときは気分が爽快で、今も思い出せば一人で笑っているのかもしれない。
「――良くんが言いたかったことは全部言えましたか?」
「全部は言っていない。でもこれでいい。もう充分なくらいに満足してる」
「そうですか……」
「どうしたんだよ?急にそんなこと聞いていて」
優奈が質問してきたものは、さっき俺が全部説明したときに含まれているものだ。これに一体なんの意味があるのかと、俺は疑問を抱いていた。
「良くんが前にしてくれたお話でわたしもその先生には多少嫌な感情は持っていたんです。でも、今回のお話でようやくわたしもスッキリすることができました」
俺の予想よりも優奈の中では相当悪く映っていたようだ。まるで憑き物が取れたかのような明るい表情で優しく微笑んでいて、優奈も自分のことのように受け止めてくれていたことを実感する。
やっと……これで終わったと捉えていいのだろうか。
俺の中にあった二つのしこりはもう完全に消え去っている。完全に吹っ切れることができたのだ。もう迷うこともなく、自分の目指すべき道に進むことができる。
これでやっと、やっと……
瞬間、頭部が温かくて柔らかなものが触れて、小さな手で優しく包まれていた。
「……優奈?」
「ご所望とあれば、向き合って抱きしめてあげますよ……」
何も言葉を発することなく、身体の向きだけを変える。優奈も笑顔を崩さず無言のまま、俺の頭を優しく撫で続けた。
「……よく頑張ったね」
しばらくすると、囁いたように聞こえる優奈の声がした。
「……何も頑張っていない」
ただあの人と会っただけだ。
「とても怖かったでしょう。気づいてあげられなくてごめんなさい」
「……怖くなんてなかった」
元々あのようなことになることは始めから想像していた。
それに優奈が謝ることなんてない。優奈に相談せず、最終的に会うと決めたのは俺なのだから。
「怖くないわけないじゃないですか。一回りも年上で、自分のことを嫌な目で見てきて。そんな人を怖くないって思わないですよ。わたしもそうでしたから、気持ちは痛いほどに分かります」
「だから……優奈は何を……」
「……泣いてもいいんですよ……?」
顔を上げると、穏やかでありながらも美しい瞳を潤ませている優奈の表情がすぐ目の前にあった。その一筋は今にも流れそうなほどにでかかっている。
「な、泣くって……なんで俺が……」
「今まで溜め込んでいたんですよね。嫌な思いも辛い思いもずっとずっと……」
その手は髪から耳、そして頬へと落ちていく。頬を触れる優奈の手つきはとても優しくて、どこかくすぐったさも感じる。見つめる優奈の眼差しは慈愛で満ち溢れていた。
「でもそれを自分で乗り越えようって決めて、本当に乗り越えたんですよね。これのどこが頑張っていないっていうんですか……」
この感覚。
優奈に初めて全てを吐き出して、全部を曝け出したときと全く同じだ。全てが肯定されて否定することを許してくれない。
「良くんはよく頑張りました。良くんの彼女であるわたしがそう言ってるのですからそうなんです」
優しい言葉が心に染み渡っていき、容易に動かされてしまう。
「わたしの前では、もう我慢する必要なんてないのですよ。泣きたいときは思いっきり泣いていいんです。わたしが全部受け止めてあげますから」
何故だろう。さっきまでなんともなかったのに、目元が熱くなり目尻に水分が溜まっていくのを感じる。
「寝衣。濡らしてしまうかもしれないぞ?」
「そうですね……そのときは良くんのシャツでもお借りしましょうか」
「……そっか」
だからどうぞ、と抱擁されて、あやすように背中を優しくさすられる。
スン、と鼻を鳴らす。
時間が経過するに連れて、鼻を啜る回数が増えていく。それと同時に目元を焼き尽くすような熱さが身体に広がっていく。
一筋の水滴が落ちる寸前に、抱きしめて顔は上げられないながらも、俺は優奈に言った。
「……ありがとう」
「はい」
優奈がコクリと頷くと、しばらくの間小さな嗚咽が自室に響いた。




