とある人物
二日後――
「良介。母さん優奈ちゃんと商店街に行ってくるわね」
自室のドアが開くと、母さんがそう告げた。
二人は今から夕食の食材を買い物に向かうらしい。優奈とお出かけができることに母さんはすっかり浮かれてしまっていて、この瞬間も声はどことなく上ずっていて、口角も締まりがない。
「はいよ。優奈との会話に夢中になって何か買い忘れたなんてことがないようにな」
「失礼ね。母さんは優奈ちゃんとお喋りを楽しみつつ、買い物だってこなすわよ。それにメモ書きだってあるし」
母さんは買い物に行く前に、事前に何を購入するべきかをメモに起こしてから向かっている。それに優奈もいるので何かを買い忘れるなんてことはまず起きないだろう。
母さんは余計なお世話と言わんばかりに首を横に振ってはため息を吐いて、俺は苦笑をせざるを得ない。
「良介はこのまま二階で勉強する?それともリビングで勉強する?」
「いや、自分の部屋の方が集中できるからいい」
俺はと言うと、参考書の問題を解いていた。机には参考書の山が積まれていて、新品のノートも何冊か立てかけている。
自室にはエアコンを除湿に設定しており、寒すぎず快適に勉強することができているので、わざわざリビングに移動する必要はない。
「そっ。それじゃあ行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
自室のドアが閉まり、階段を下りる母さんの足音が聞こえてくる。
「優奈ちゃん!行きましょう!」
今俺と話していた声のトーンがまるで嘘みたいな明るい声は、二階にある自室まで聞こえてきた。
二人で出かけるのは一年振りで、優奈を可愛がっている母さんからしたら、この日をどれだけ心待ちにしていたのかは、なんとなく想像できる。
大変だろうが、この時間は優奈に母さんの相手をしてもらうことにして、俺は机に向かって勉強に精を出した。
☆ ★ ☆
「あっつ……」
強く照りつける日差しの下、俺は小さな声でぼやきながら歩いていた。
母さんたちが商店街に出かけてから二十分が経過した頃である。
喉が渇いたので麦茶を飲みに一階に降りると、カウンターに置いてある一枚のメモ用紙に目が入った。
気になってそのメモ用紙を手にとって見てみれば、にんじん、大根、ねぎ、醤油など、単語が書かれていて、字からして母さんのものだとすぐに分かった。
「母さん……」
そもそもの話、メモ用紙を置いていっては意味がないではないか、と俺は思わず頭を抱えた。
メッセージでも送っておけばいいかと考えたが、通知に気がつかない可能性もある。電話で口頭で伝えても途中で忘れることだってあるだろう。
俺は急いで部屋着から外着へと着替える。ボトムスのテーパードパンツのポケットの中にメモ用紙を突っ込んで、俺は商店街へと向かった。
その道中で、母さんに電話するためにスマホを鳴らした。ツーコールほどした後に、「もしもし」と母さんの声が電話越しから聞こえた。
「もしもし母さん。メモ用紙家に置きっぱなしになってた」
『え、嘘!?』
母さんは驚いたような声を上げると、ガサガサっとバッグを漁るような音が届く。
「メモ用紙は俺が持ってるんだからあるわけないだろ。もう商店街に着いた?」
『ううん。もう少しで着く』
「俺も今商店街に向かってるから覚えてる範囲で買い物済ませといてよ。俺も合流するから」
『ありがと。お礼に何か買ってあげる。何食べたい?』
「新発売されたメロン味のアイス。なかったら普通のチョコアイスで」
夏の期間限定で販売されるというそのアイスはテレビのCMに流れていて、前から興味があったのだ。母さんが奢ってくれると言ってくれているならこの機会を逃すわけにはいかないと、俺は即答して答えて、なかったときの第二希望も伝えておく。
『分かった。じゃあ商店街でね』
「はいよ」
母さんとの電話を終えて、少し急ぎみの早足で商店街へ向かった。
☆ ★ ☆
十五分後――
商店街が見えると、建物ができた影に母さんと優奈の姿が見えて、俺は駆け足で二人の元へと向かう。
「母さん。はいこれ」
「ありがとう。本当に助かったわ。えぇと……」
母さんは受け取ったメモ用紙に目を通していくと、思い出したかのような反応を見せて、
「そうよ。キャベツを買い忘れてたんだわ。早速八百屋で買ってくるわね。良介はこのまますぐ家に帰る感じ?」
「いや。せっかく商店街に来たんだからみんなに挨拶でもしようかなって」
最後にここに顔を出したのは去年の今頃なので、実に一年振りだ。谷口さんや他の知り合いの人にも顔を見せて元気にやってることくらいは報告したい。
そう伝えると、「そう。分かったわ」と母さんも頷いた。
「優奈、また母さんに変なこと言われなかったか?」
「えぇと……お義母さまというよりは……」
優奈は表情を引き攣らせて苦笑を浮かべながら歯切れ悪い言葉を並べていて、俺は首を横に傾げた。
「ちょっと聞いてよ良介。優奈ちゃんったら凄い人気だったのよ。買い物してたら二人の関係に何か進展あったのかって聞いてきて。それで付き合ってること言ったらもう……」
「よし分かった。それ以上は言わなくてもいい。何があったか想像できた」
優奈の様子から察するに相当弄り倒されてしまったのだろう。商店街のみんなとは小学校からの顔馴染みで、ある意味で俺のことを我が子のように接してくれて可愛がってくれている。
それ故に少々……というかかなり干渉してくる節があって、優奈もその被害にあったと見える。
災難だったなと、俺は同情の眼差しを優奈に向ける。
おそらく俺も優奈と同等、あるいはそれ以上の勢いで話しかけられるだろうが、挨拶はしておかなければなので、覚悟を決める。
「じゃあ行ってくるよ」
「はい。また後で」
「買い物終わったら先に帰ってるわよ」
「あぁ。分かった」
母さんと優奈と別れて、俺は商店街にいる屋台の店主たちに挨拶に向かった。
☆ ★ ☆
予想通り、商店街にあるお店に顔を見せて挨拶をすると祝福の言葉を受けた。中には手荒い祝福も含まれていて、俺の心身は共に困憊状況にあったのだが、なんとか挨拶を済ませていく。
「こんにちは」
俺が最後に顔を出したのは谷口さんが店主をやっている精肉店だった。
「おぉっ!良介!久しぶりだな!元気だったか!」
「はい。おかげさまで元気でやってますよ」
声を聞くや飛んで姿を見せた谷口さんに、驚きと戸惑いを交えた笑みを浮かべながらも俺は小さく会釈する。
「良介。今年の祭りは参加するのかい?」
「はい。今年は顔を出そうと思っているので、谷口さんの屋台の焼き肉、楽しみにしてますね」
「おう。ぜひ彼女さんと来てくれ!……それにしてもいつ見ても別嬪さんだったな!よくやったぞ良介!」
ガハハッと、野太い声を上げて谷口さんは笑う。谷口さんもだが、みんなこれほどまで喜んでくれているとは思ってもいなかった。
「はい。ありがとうございます」
俺はもう一度だけ頭を軽く下げた。
「あっ、そういえば良介に一つ伝えなきゃいけんことがあったんだった」
しばらく笑っていた谷口さんが一息ついて落ち着いたあと、さっきまでとは声を低くして言った。あまり良いことではないとなんとなく察する。
「伝えなきゃいけないこと?」
「あぁ。ちょうど昨日、一人の男性がお前のことを聞いてきた。それでもし良介が来たらこれを渡して欲しいって頼まれた」
谷口さんはポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出して、俺に差し出す。
その紙を受け取って開くと、『時間があるときでいいので電話してください。話したいことがあります』と書かれていて、谷口さんに渡した人物の名前と電話番号と場所の指定が書かれていた。
その名前を見て、俺はピクッと目元を動かす。
「もう何年も前で、顔は分からんかったからあのときは何も思わんかったが、名前を聞いて少し引っかかった。良介から何度か聞かされてたからな」
俺はジッとその紙を見つめていた。
良介、と谷口さんから声をかけられて、
「辞めておいた方がいい。俺はそう思う」
そこには不安そうに見つめる谷口さんの姿があった。それだけ俺のことを本気で心配してくれているからこそだろう。
「ありがとうございます。心配してくれて。でも……これは俺の問題です。それに機会があるなら話はしたいって思ってましたから」
「良介……」
「本当にありがとうございます。谷口さん。それじゃあ、俺は帰りますね」
「もしまた何かあったら……いつでも来ていいんだからな」
「はい。そのときはまた」
俺は小さく微笑むと、踵を返して谷口さんに背を向けて商店街を後にした。
☆ ★ ☆
「――ってことがあったらしい」
優奈が入浴を楽しんでいるタイミングで、俺は母さんに谷口さんから貰った紙のことを打ち明けた。
母さんの表情は見る見るうちに曇っていき、眉間に皺を寄せて震えていた。紛れもなく、どうしようもないほどの怒りで震えているのだ。
「……それで、良介はどうしたいって思ってる?」
己に沸き立つ怒りを鎮めるかのように母さんは静かに、俺に尋ねる。
「俺は会おうって思ってる」
「そう……母さんは谷口さんと同じ気持ち。できれば会ってほしくない。良介にあれだけ辛い思いをさせて……」
母さんの言葉は静かだが、確かな怒気が混じっていた。
「ありがとう母さん。でもだからこそ、俺は会って話をして確かめたい。何のためにこの紙を谷口さんに渡したのか。渡してまで俺に伝えたいことが何なのかを」
おそらく俺と一対一で話すことを望んでいるはずだ。第三者がいては俺に言いたいことも伝えることができないだろう。
「……分かった。何かあったらすぐに連絡しなさい」
「あぁ」
母さんを安心させるように俺は微笑を見せると、階段を登って自室へと向かう。
そしてスマホを取り出して、紙に書かれている電話番号を打ち込んだ。
スマホを耳に当てて、電話を出るのを待つ。
四コール目で鳴り終わったところで、
『もしもし』
あの頃と全く変わっていない声が聞こえた。
「もしもし。夜分遅くにすみません……はい。はい。紙は確認しました……はい。場所は紙に書いてある場所で明日の午前十時。はい。分かりました。それでは失礼します」
俺はスマホを離して、赤い受話器ボタンを押した。




