姫からのお風呂のお誘い
「ただいまー。って言っても誰もいないか」
「お帰りなさい」
「ありがと。優奈もおかえり」
「ふふっ。ただいま」
十六時半。
大型プール施設から帰ってきた俺たちは、家の鍵を開けて玄関にいた。外ほどではないが、暑苦しい空気が立ち篭っている。早くリビングのエアコンをつけて涼みたいところだった。
洗面台で手洗いうがいを済ませて、リビングへと向かってエアコンを起動する。しばらく経てば冷房の涼しい空気が部屋を包んでくれて過ごしやすい環境を作り出してくれるだろう。
そうなるまでの辛抱だと、俺は食卓の椅子に座って深い吐息をして、テレビを点けた。
「良くん。何か飲みます?」
「あー。じゃあ麦茶を貰おうかな」
「はい」
優奈はガラスのコップを取り出して、氷を幾つか投入。そして冷蔵庫でしっかり冷えている麦茶を注ぐと、俺のところまで持ってきてくれた。
「ありがと」
「どういたしまして」
感謝の言葉を口に出して、俺たちは麦茶を口にする。二口ほど飲んだ優奈に対して、俺は注がれていた麦茶を一気に飲み干して、口元を拭った。
「泳ぎ疲れたー。腹減った。眠い」
これほどまで運動したのはゴールデンウィークの時に斗真たちと遊んだとき以来だ。しかもあまり訪れないプールではしゃぎ回ったので、いつもよりも疲労感がある。日差しの影響も少なからず受けているだろう。
俺は噛み殺すことなく大きな欠伸をした。
「晩ご飯はそうめんにしましょう。カロリーの高いものを作っても今日は疲れてて箸が進まないでしょうし」
「そうだね。優奈も疲れてるだろうから俺も準備手伝うよ」
「ありがとうございます」
優奈も口元を手で隠して小さな欠伸をした。
俺も優奈も思ったより疲れているのか、その場から一歩も動くことはなく、優奈は麦茶をちびちびと飲んでいて、俺は何か考えるわけでもなくボーッとしていた。
グラスに入った氷が溶けて、カランと音がなる。
俺は着ているシャツの襟元に鼻を近づけてスンスンと鳴らす。匂いを嗅ぐとプール特有の塩素の匂いがして若干顔を顰めた。
「やっぱプールの匂いちょっと残ってるな」
帰る直前にシャワーは浴びたのだが、石鹸で身体を洗ったわけではなくただお湯を浴びただけなので、どうしても匂いは残ってしまう。
これは少し早めにお風呂に入って、この塩素の匂いを落としたいところだ。
俺の言ったことが気になったのか、優奈もひとしきりに自分の服の匂いを嗅いでいた。
「優奈はそんな匂いしないよ。全然気にならないって」
「良くんが気にしなくてもわたしが気にします!」
物凄い剣幕で強く言われて、思わずたじろいでしまい「お、おう。ごめん」と何故か謝ってしまった。
好きな人には変な匂いがすると思われたくないという乙女心か。実際優奈からは塩素の匂いはしないのだが。
俺も優奈には臭いって思われたくないし、日頃から匂いには気を遣っている。
「少し……てかかなり早いけどお風呂だけ沸かすよ。優奈はどうする?一旦家に帰ってお風呂だけ入ってからまた戻ってくる?」
今日着用した水着の洗濯だってあるだろうし、シャワーでは物足りない。やはり一度、しっかりの自宅の湯船に浸かって身体を温めたいだろうと、俺はそう尋ねた。
「そ、そのことなんですけど……」
優奈は消え入りそうな声を発して、頬を赤く染まって俯いた。その先の言葉はしばらく出なかったのだが、何やら決心したように顔をバッと上げてこちらを見る。
「い、一緒にお風呂なんて……どうですか?」
そう言った優奈の表情は先ほどよりも赤く、まるでこれでもかと熟したトマトのようだった。ふやけた表情も滲ませていて、不安そうに首を傾げながら尋ねられる。
「そ、そのお誘いは彼氏としてとてつもなく嬉しく喜ばしいことなんだが……」
「だが……?」
「もしかしたら……俺が変な気を起こすかもしれないぞ?」
さっきまでいたプール施設と違って、お風呂場は完全に密閉された空間だ。誰も目を気にすることもない狭き場所で、しかもお風呂場。正直に言って自分を抑えられる自信などない。
「わ、わたしたち付き合って長いんですからそれぐらい……それにわたしは変な気を起こしてもらっても構わないっていうか……言質はちゃんといただいているので……」
優奈を手放すつもりはない。
この言葉の重みを分かった上で、俺は口に出した。
母さんも優奈のことは気に入っているし、優奈のご両親である圭吾さんや希さんにも気にかけてもらって度々連絡をもらっている。
俺がもし優奈を傷つけるようなことをしようものなら――、
俺はこれ以上先のことを考えることを辞めた。
だが、俺だって生半可な覚悟で言っていない。
それなりの覚悟を。それこそ責任を取るくらいの覚悟を持って、俺から優奈に手放さないと言ったのだ。
「……分かった。今からお風呂の準備してくるよ」
「わ、わたしも一旦家に帰って準備してきます。着替えとか、そ、その……こういうときのために買ってきた水着とか……」
優奈は頬を赤らめたまま呟く。彼女のいっぱいいっぱいになっている様子から、既に頭は許容量を超えていることは明白だった。
が、それは俺も一緒だ。
「お、おう」
「それじゃあ、準備してきます」
「いってらっしゃい」
どこか他人行儀みたいな、お互い緊張しているのが見てとれるかのようなやり取りを交わして、優奈は家を出た。
俺は風呂場の栓を閉めて、湯張りを開始するボタンを押すと、アナウンスと共にお湯が出る音が聞こえ始める。
湯はりが終わるまで、俺はソファーに腰をかけて一人で待っていた。
ずっと一人でそわそわしていて落ち着かない。
さっきまでプールで優奈の素肌は見慣れていたはずなのに、あまりの緊張感が襲ってきて今にも心臓が口から出てきそうだった。
テレビでは政治的なニュースをやっているが、今の俺の状態では、内容がまるで入ってこなかった。
夏休み二日目にして優奈の二着目の水着登場!
どんな水着かなー。




