母親
次の日ーー
日曜日の朝九時。スマホを机の上に置いて俺は座っていた。そろそろか?と思っていると、ケータイが震えた。それは一時的ではなく、持続的に続いている。ラインではなく電話だ。
そこには母さんと表示されていた。
指をスライドさせて、スマホを耳に当てる。
「もしもし」
「もしもし良介?元気にしてた?」
俺の母親ーー沙織の元気な声が聞こえる。
「ビデオ通話に切り替えられる?良介の顔も見たいし」
「はいはーい」
柿谷家のルールとして、毎週日曜の朝九時から十時までの一時間、こうして母親と電話することになっている。このアパートから実家までは遠いし、母さんも忙しい。
元気にしているかどうか確認したいというので一人暮らしを始めた週から毎週欠かさず行っている。日曜日に予定が入っている日は、事前に報告してその前日だったり、次の週は二回行われたりと。
つまり、俺のことが心配なのだ。
「どう?学校は?」
「いつも通りだよ。あと中間テスト一位だった」
「わたしもあの人もそんなに賢くないのに、いつからそんなに頭良くなっちゃったの?お陰で離れ離れになっちゃったし」
「日頃から勉強してたからな。だからこうしてビデオ通話してるんだろ?」
あの人というのは俺の父親ーー健二郎だ。
「まぁ、寂しい思いをさせてるってことには変わりないから申し訳ない気持ちはあるけどさ」
「あら、いつからそんな気遣いできる子になったのかしら?もしかして、わたしの育て方が良かったのかしら?女手一つで頑張ったもんねー」
「まったくその通りだよ」
「ですよねー。褒めて褒めて」
母さんは今でこそ明るいが、父さんが亡くなったときは精神が病んでいた。それでも息子を立派に育てないとという責任を果たしてくれた。
少し面倒という点はあるが、それでも俺は感謝している。
「それでさ。良介」
「うん?」
母さんが真剣な声音で俺の名前を呼ぶ。
「彼女はできた?」
「いきなり何聞いてんだよ」
「それっぽい人はできたのかって聞いてんの。お母さんだって心配してるんだから。頭も良くてスポーツも人並みにできて、顔も特徴はないけど平均的なのに、彼女の顔見せにきたこともないじゃない」
「実の息子に向かって、特徴のない顔とか言うなよ。自覚はあるけど」
ムッと顔を顰めながらも、事実なので肯定する。
「このままじゃ良介のこと心配で、死ぬに死ねないんだから。高校にいい子いないの?」
「いい子ねぇ。まぁ、高校生活も始まったばかりだしのんびりと探すとするよ。母さんこそあんま無理しすぎんなよ」
「子供が一丁前に親の心配してんじゃないわよ」
そう言って俺たちは笑った。
ピンポーンとインターホンが鳴る。
「ごめん。誰か来たみたい。ちょっと出てくる」
「分かったー」
一旦その場から離れて、玄関へと向かいドアを開く。
「……柿谷くん……」
その場には天野さんがいた。服装は部屋着らしく慌ててきたのかと思わせる。彼女は今にも泣きそうな声で俺の名を呼んだ。
「ど、どうしたんだ?」
「す、すぐ家に来てください!お願いします!」
あんなに慌てた様子を見せる天野さんは初めて見た。つまり彼女の家で何かしらのことが起きたのだろう。
「分かった。少し待ってて」
俺は走ってリビングに戻りスマホを手に取る。
「母さんごめん。急用ができた。済んだらまた後で電話する」
「え、あぁ。別にいいんだけど今のーー」
何か言いかけていたが、俺にはそれを聞く余裕もなく電話を切って玄関に戻る。
エレベーターで一階に向かい、すぐに天野さんの部屋に入った。本来なら緊張して入ることすら躊躇してしまうのだが、状況が状況だ。そんなことを言っている場合ではない。
俺はドアを開けて、辺りを見渡す。
しかし見たところ異常はなかった。
「天野さん。一体何があったの?」
彼女が慌てていた理由が分からず、俺は問いかける。
「それはーー」
彼女は壁を指差した。
そこに目を向けると、一匹の小さな虫がいた。
「わたし、虫が苦手なんです……」
☆ ★ ☆
話を聞くとこうだ。
天気が良かったので洗濯物を干そうとしていたらしく、部屋に戻ろうとするといつの間にか虫が一匹入り込んでいたそうだ。
虫と言ってもただの蚊であり、殺虫スプレーかハエ叩きさえあれば問題なかった。
しかし天野さんは、虫が大の苦手らしく見るのすら嫌らしい。そこで俺を頼ってきたというわけだ。
「そこは大家さんでも良かったんじゃ……」
「あまり話したことがなかったので……」
彼女の家に常備してある殺虫スプレーを借りて、その蚊は無事に駆除された。ティッシュで蚊を包み込みゴミ箱に捨てる。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、てっきり家に不審者が入ってきたかとでも」
「そしたら柿谷くんじゃなくて、警察を呼んでます」
「それもそうか」
俺は外に目を移す。
洗濯物はハンガーにかかっていて、程よい風に揺られていた。
「言っておきますけど……下着とかは干していないですからね」
ジトッとした目をこちらに向けてくる。
「別にそんな意味で外見たわけじゃないからな」
「本当ですかー?」
「本当だよ」
今度は俺をからかうように言った。
そして表情を緩ませると、
「すみません。わざわざお時間取らせてしまって」
そう言って頭を軽く下げる。
「いーよ。俺は姫の護衛役だからな」
「その言い方はやめてください。王子様」
「そっちこそ」
そう言って笑い合うと、俺は彼女の家を出た。
☆ ★ ☆
「あら、急用は終わったの?」
「うん。思ったより大したことがなかった」
母さんに天野さんのことを言ったらどうなるかまで想像がつくので死んでも言わない。
「それより母さん。さっき何か言いかけてなかった?」
「あぁ、そのさっきのインターホンの鳴らした人。女の子だったでしょ?それもかなり若い」
俺は石のように固まった。
そういえば、リビングのドアも開けっぱなしだったような気がする。そして玄関のドアも開けた状態で会話。そして天野さんの助けを求める大声。聞こえていても不思議ではない。
「な、なんのことかな」
しらを切る。それ以外の方法はない。
「隠す必要なんてないわ。丸聞こえだったもの。女の子助けてあげてたんでしょ。偉いじゃない。もしかして同じアパートに暮らす人?」
「まぁ……」
「大学生!?それとも高校生!?もしかして同じ高校の同級生だったりする!?」
なんでこうもピンポイントに当ててくるんだよ。女の勘か?だとしたら怖いよ。
一時間と決めていた電話はとっくに超えている。質問という質問の嵐。それは俺のキャパシティーを超える量の質問でありーー
秘密が母さんにバレてしまった。
その後、母さんに死ぬほど茶化され、いつ実家に来るのかという話まで進んだのは言うまでもない。
お読みいただきありがとうございます。